昨日は変わったところを歩こうと言うことで、宗像市の正助村に行きました。ここの周りのいろんな景色と、
この地で有名な正助翁の話を小さな石碑にして置いてありましたので、撮ってきました。時間が有りましたら、
眺めてくださいね。
また、正助翁の詳しい紹介は、最後の方にありますので、興味がある方は、開いて見て下さいね。画像の
サイズが不揃いです。見にくくて済みません。
下の画像をクリックして下さいね。見終わりましたら、左上のX印をクリックしますと、戻れます。

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[-] 文章を消す 正助さんと言う方は寛文十一年(一六七一)現在の宗像市武丸の土師上というところで生まれました。お父さんの桜井正三郎は、大変貧しい方で借家住まいで田畑もありませんでした。
正助さんは二人兄弟で妹が一人ありました。この妹は結婚してお嫁に行ってしまいましたので、正助さんはお父さんとお母さんの三人暮らしになりました。生涯の行いをいくつかご紹介しましょう。
夜中に便所に行く時過って父の杖を踏んでしまい大声で泣いていると言うのです。両親が驚いてそのわけを尋ねると、『杖はこれ父の手なり足なり、これを踏んだのは父を踏む罪に等しい』と。
また赤間の街(筑前二十一宿)に出かける時、父は雨が降るから下駄が良かろうと言い、母は西の雲も無くなったので草履が良かろうと言われると、正助さんは下駄と草履を片足ずつ履いて行かれたと言うことです。
またある時、悪徒がいて正助さんの心を試そうとして道の端に三百文のお金をわざと落として、お寺参りから帰ってくる正助を物陰に隠れて待っていました。そこを通りかった正助さんは、そのお金に気がつくと、その場にどっかと腰を降ろしてしまいました。とうとうしびれを切らした一人が、そっと出てきてそのわけを聞くと、『もし無くなるといけないからここで落とし主が来るまで番をしています。』と答えたので、みんなは自分たちの行為に恥じ入ってしまいました。
また、馬に対しても、朝は『今日も仕事を頼みますよ。』と言い、一日の仕事が終わると重い鞍は自分で担ぎ『今日の仕事ご苦労でした。』とちょうど人に接するように、丁寧にお礼を言って、いたわられたそうです。荒馬も優しくなり荷物を載せる時など前足を折って乗せやすくしたそうです。
享保十七年(一七三二)西日本一帯でイナゴ害の大飢饉で籾種さえない状態でした。稲の発育に対しても絶えず気を配っていた正助さんの田だけが無事でしたが、採れた籾は食せず、草の根、木の皮を食べて飢えをしのぎ翌年の籾種として村内に配った。という逸話など数々が残っています。
こうしてすべてのものを仏様の化身として手を合わせた正助さんの徳行が世に知れ渡り、生きている間に何度も賞を頂いています。
多くの人に尊敬され惜しまれながら宝暦七年(一七五七)一〇月二五日・八七才の生涯をおえられました。
http://homepage2.nifty.com/jyorenji/sub8.htm
【別のページから】
ここ浄蓮寺は、妙好人で有名な、武丸正助さん(1671~1757)のお寺でもあります。武丸正助さんは、今で言う社会福祉や介護の面で、自分の親はもとより、地域の人たちや動物にまでその優しさを発揮しています。お寺をうやまい、宗教的にも深い信仰を持ち、信心の人であったと言われています。
ここ浄蓮寺にある武丸正助さんの木像は、正助さんの50回忌の時につくられたものです。浄蓮寺の本堂に安置してあります。このお姿からも当正助さんの優しさが伝わってくるようです。

宗像市 藤原山 浄土真宗本願寺派 浄蓮寺様のHPより、引用させて頂きました
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