数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

ジャーナリズムと真実と数学

2024-12-26 03:45:00 | 読書
 今年もあと僅かになり、年の瀬をむかえていますが、振り返って、異常気象というフレーズが異常でないくらいに使われ、日本の四季のイメージが壊れつつある。異常に暑く長い夏、異常に寒く雪の多い冬、短くなった春と秋。春と秋に日本の四季の特徴であった印象的な幼い頃の季節感が昔のように、異国のように感じられてしまう、そんな日本に寂寥感さえ覚えてしまう。静かに机に向かって思いを巡らす時間です。
 テレビや新聞をはじめとするマスコミや週刊誌、ネット等の動画からの情報に関して、今年は特にその信ぴょう性が真正面から取り上げられることが多かったように感じます。選挙報道の公平さを保つようなことから、右左の中間という意識から、嘘と真実を足して2で割ることが公平のような錯覚を無意識に強いられているのではないかとさえ思われる。そこに気が付き始めた人々が、ネットのリアリスティックな情報に真実さを求めて惹かれていく傾向に。ただし、そこでは真実を冷静に見極める知性が求められるような気がしてならない。さもないと、結局は流行に押し流されるだけの人間になってしまう。そうならないために、どうするのか?自分で考えるということを意識することで、その根拠を自問することから真実をたどることができる。
 「財務真理教」というフレーズが国会でも聞かれるようになり、税金や国家予算にまつわるそして国にいかに財務省が関わっているかが、明らかになってきた感さえある。
 

等の本が売れていることと、更にはその著者がテレビ等から敬遠される構図がリンクされている。
 都合の悪い(どこに都合が悪い)かを意識しながら、情報を分析したりする必要が我々にも迫っていることを最近は感じている。振り返って、ジャニーズ問題や更には日航機墜落事故に関して、他国の報道や、個人的なジャーナリストの長い取材から明らかにされつつある。
等も読む価値のあるものとして、一気に読んでしまう自分に驚きさえします。これまで生きてきた中で、真実への希求を経験のないくらい感じた年でもあった。自分が一番長く生きた「昭和」という時代を再確認したいという気持ちがここ1,2年強く感じてきている。
 戦争という惨事を経験してから今の日本があると思う中で、「戦争」をもう一度考えてみる必要性も感じ来て、そのためにまず、史実としてのあの戦争を読むことで実感してみたく、読んだのが以下。
印象的であったのが、近衛文麿に対する評価であった。その後の昭和の戦後史を団塊の世代の著者による問答集として以下も印象的であった。
読む中で、松岡正剛のハッタリ的な主張にはどうしても??と感じざるを得ない部分が印象的で、例えば、数学に関して
「不確定性も不確実性も、究極の物質世界の議論で数学が関与するもので、日常的な感覚で実感しにくいというのはわかります。だから、もっと面白がるということも必要なのかもしれない。たとえば、アンリ・ポアンカレはそうした不確実な科学観や不確定な数学感の起点を作った天才ですが、その考えは寺田寅彦や岡潔には反映されています。ということは寺田の俳諧や岡の情緒はどこか科学的でポアンカレ的なんです。」
これは数学を知らない対話相手の田中優子氏への話しかけですが、少なくとも松岡よりは数学をよく知っている自分からしても、ハッタリもいいところで、この問答集を読んでいくうちに、見えてくるものは、ぶれて行く松岡に対して、しっかりとした知識と見識を梃に、バランスをとっていくのが田中優子氏であることが見えてきます。数学は、わからないか、わかるしかなく、大体わかるという感覚は、わからないという感覚に等しいということをわかっていないのが松岡かな。言葉に対する感覚が数学に携わったものなら、その言葉に対する数学的な事実への感覚に対して、松岡の感覚は著書の題名に依拠するもので、中身が理解されてないことが見え見えである。
 そんな一種の消化不良とさえ感じた読書感をすっきりさせてくれたのが、
である。さすがに数学者であるので、安心して読めて、読み手を意識して、どこまで書くかを常に意識された内容で、しかも高度な内容もかみ砕く意識が見られ、新鮮さを感じた本である。女性の若い、少なくとも自分よりは若い数学者の学んできた足跡も垣間見れる、そんな読書感はありがたい。著者のますますの活躍を期待したい。


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