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NissayOpera「マクベス」(11月12日)

2023年11月13日 | オペラ
何とこの日生劇場にヴェルディのオペラがかかるのは1970年のベルリン・ドイツ・オペラの「ファルスタッフ」以来53年振りだというから驚きだ。どうして「オペラ劇場」として誕生した日生はそんなにヴェルディを遠ざけていたのだろう。まあそれはともかくとして、このヴェルディ初期の名作は何と言ってもマクベス夫人に人を得ないと形にならない。そうした意味で、今回二日目に夫人を歌った岡田昌子は歌唱的にも演劇的にも十二分に説得力のある出来だったと言って良いだろう。前半で気弱な夫マクベスを鼓舞する場面の強烈な歌でも決して汚く響くことはなくニュアンスも十分、そして後半の狂乱的な場面での虚な歌、そして演技も見事に決まった。一方マクベス役の大沼透も独立したアリアは一曲しかないものの、苦悩の王をよく描いた。バンクオー役の妻屋秀和もいつもながらの安定的な立派な歌唱で安心させた。マルコムの役は新進テノールの品定め的な役柄でもあり、1985年のザルツブルグ音楽祭での市原多朗の名唱が語り草になっているが、この日の高畠伸吾は歌唱がいささか硬くて残念だった。沼尻竜典と読売日響は、迫力はありつつ決して歌唱を遮ることのない職人的なピットだった。一方大きな動きを求められつつ歌ったC.ヴィレッジシンガーズの合唱はなかなかの苦戦を強いられた。粟国淳の演出は幻想的な場面をも求められるこの作品を要領よく上手く纏めていたと思うが、いささか暗い場が続きすぎて変化に乏しかったという印象だ。更に100%紗幕越しというのも観る方としてはストレスが多かった。とは言いつつも、岡田昌子の絶唱によって忘れ難い舞台になったというのも事実である。

東京二期会「ドン・カルロ」(10月13日)

2023年10月14日 | オペラ
東京二期会が9年振りでヴェルディの「ドン・カルロ」を舞台にかけた。この作品の上演で常に問題となる版は、前回同様イタリア語五幕版ではあるが、今回はそれに加えてパリ初演時にすでにカットされていたいくつかの曲やバレエ曲、更にはシュトットガルトでのこのプロダクションの初演時に挿入されたゲルハルト・ヴィンクラーの現代曲をも加えたオリジナル版が使用された。演出はロッテ・デ・ベア、ピットは一昨年の「ファルスタッフ」で好評だった俊英レオナルド・シーニと東京フィルが受け持った。この日の主な配役は、フィリッポ2世にジョン・ハオ、ドン・カルロに樋口達哉、ロドリーゴに小林啓倫、エリザベッタ竹多倫子、エボリ公女清水華澄、宗教裁判長に狩野賢一といったところ。まずは今回の上演で特徴的だったのはその演出とクリストフ・ヘッツアーの舞台だろう。舞台中央に配置された黒く大きな重量感のある楔形の壁が一晩全体を支配し、それが回ることでシーンを切り取って行くのだ。これについては、それはそれなりに効果はあったと思う。そして時代は現代に設定され、カルロ以外の登場人物はそれぞれの理想実現の為にそれぞれが持ち得る範囲の権力を行使して立ち回る。そんな中では理不尽な行為も頻出するのだが、5人の子供達を視覚的に重要な場面で登場させたということは、あらゆる価値観が良いも悪いも親から子へ世襲的に伝わってゆくということなのだろう。一方カルロは、強い人間達の中で度重なる挫折に心挫かれて心は最後まで浮遊している儘だ。これは現代にありがちな人間像だ。あえて言えばそんなことをメッセージとして受け取った次第だが、そのメッセージ自体がすでに原作を大きくはみ出していて、演出者の局所的な思いつきを連ねたような印象だったと受け取った。だから面白い部分はあったとしても私にはどうも本道とは思えなかったというのが正直な感想だ。というのも、そうした社会矛盾のようなことを極めてエゲツない手法で無理やりに描けば描くほど、それはヴェルディの後期へ差し掛かろうとしている作風の持つ品格と遊離してゆくように思え、聞こえたからだ。折角の名作の価値を損ねていると私には思えた。しかし歌手達は極めて演劇性の強い要求を叶えつつよく演じ歌ったと思う。一つだけ例を挙げれば、エボリ公女のアリア「むごい運命よ」を、自らの長髪を鋏で裁断しながら苦渋の表現で見事に歌いとげた清水華澄にはただただ驚嘆した。シーニの捌きも過不足なかったが視覚が音楽を損ねていたのでヴェルディの快楽は得られなかった。

藤原歌劇団「二人のフォスカリ」(9月10日)

2023年09月10日 | オペラ
ヴェルディ初期(6番目)の「二人のフォスカリ」が藤原の舞台にかかった。ほぼ舞台に乗る機会の無い作品で、今回は東京オペラプロデュースによる2001年の日本初演に次ぐニ度目の公演である。私は映像で観たことがあるのみで本舞台は初めてだ。今回は裏キャスト(二日目)に出かけた。結論から言うと、この作品の持つ魅力を余すところなく表現した文句の無い仕上がりだったと思う。史実に基づく救いようのないストーリーだが、メロディーに満ち、以降のヴェルディの萌芽をも多く聞き取ることのできるこの作品はまさに若書きの「佳作」と言うに相応しい。しかし正直言って、この作品でここまで楽しめるとは思わなかった。成功の要因の一つ目は歌手達だ。裏キャストなので若手中心に組まれていたが、まずはタイトルロールのフランチェスコ・フォスカリを演じ歌った押川浩士の、あのレナート・ブルゾンを思わせるようなノーブルな美声と迫真の演技がドラマを牽引した。(目が物を言うイタリアオペラの基本)義理の娘役の西本真子の強靭さと優しさを併せ持ったキレの良い歌唱も素晴らしかった。そして仇役ロレダードの杉尾真吾の存在感たっぷりの演技と美声も極めて説得力があり、ドラマの展開に奥行きを与えた。しかし息子のフォスカリ役の海道弘昭は力で押し切った感じで、最初は高音が苦しく、中盤以降は少し持ち直したとは言うものの、やはり不安定な歌唱だったのが残念だった。この演目で重要な合唱は藤原とニ期会と新国の合同チームで十分なパワーが物を言った。成功の二つ目の要因は伊香修吾の奇を衒わない演出だ。時代を現代にしながら、永遠の課題である政治に於ける公私の問題を水の都ヴェネチアを舞台に鮮やかに描きつつ、現代の問題として我々につきつけた。それを後押しした簡素ながら美しく効果的だったニ村周作の美術も秀逸だった。最後に三つ目の要因は特筆すべき田中祐子の指揮だ。実はオペラでの彼女を知らなかったので、失礼ながら大いに杞憂していたのだが、東フィルを率いて実に快活なテンポ感で、そして豊富な歌心も込めて要領よく全てを捌き、まったく弛緩を感じさせずにドラマを描き切った2時間であった。これは見事と言う他はない。今回は新国の比較的前方の席だったので、演奏中は振り上げる指揮棒を持つ右手と表情をつける左手がライトに照らされて良く見えたのだが、その渾身の振りに表現の意思が感じられた。しかし決して力んだ音楽にならずに、抑えも効いているのには感心した。終演後の盛大なカーテンコールで、プリモの押川の招き入れに応じ感涙極まる表情で登場した彼女の姿にこちらも感動してしまった。きっと渾身の指揮が満足な結果を引き出したことに心から満足していたのだろう。

ロッシーニ・オペラ・フェスティバル2023(8月13日〜16日)

2023年08月21日 | オペラ
パンデミックによる中断を経て、4年振りにアドリア海に面したリゾート地ペーザロを訪れた。目的は勿論ここで毎年開催されるロッシーニ音楽祭である。今年はその中の6公演を聴いた。昨年末の地震で伝統あるテアトロ・ロッシーニが修復中となり今年は代わりに定員500人程度のテアトロ・スプリメンターレという映画館が小会場に当てられた。大会場はいつものようにヴィトリフリゴ・アレーナだ。アレーナは元来バスケット・ボール用の体育館だそうだが、このオペラ祭のためにその年の演目に応じて仕切りを作って仮設の劇場にする。今年はキャパ1200名程度の中劇場が出来上がった。座席こそ粗末だが、音響は適度な残響があって中々良い。さて最初に見た演目は13日の「ブルグントのアデライデ」(1817)だ。これはArnaud Bernardによる新プロダクションの大初日だった。映画スタジオの中という劇中劇仕立てで、段々と映画が出来上がり本編が完成するという時間経過の下にドラマが展開するという中々面白いアイデアだ。オットーネ役のVarduhi Abrahamyanが期待に違わぬ出来。対するアデライデ役のOlga Peretyatkoは当初は声が乗らなかったが次第に本領を発揮した。アデルベルト役は新国でお馴染みのRene Barberaで変わらぬ太めの美声で安定的な歌だった。指揮は2017年に藤原の「ノルマ」に登場したこともあるFrancesco Lanzilotta、演奏はRAI(Torino)の秀でたオーケストラで、細やかな音楽作りが単調さを回避してロッシーニに格調を与えた。彼は2024年には新国の「椿姫」にクレジットされているのでとても楽しみだ。続いて14日の昼は小劇場での「マリブランの死に寄せるカンタータ」の世界初演。実はこれはロッシーニと縁の深い夭折の大ソプラノ、マリブランの死に四人の作曲家が寄せた曲集であるが、その四人の中にロッシーニは含まれていない。作曲家の顔ぶれはG.Doizetti+Giovanni Pacini+Saverio Mercadante+Pietro Antonio Coppola+Nicola Vaccajというもの。中では藤原歌劇団のベルカント・フェスティバルでその「ジュリエッタとロメオ」を上演したことのあるNicola Vaccajによる終曲が聞き物だった。Diego Ceretta指揮によるTeatro della FortunaとPilarmonica Gioachino Rossiniと6人の独唱者による演奏はオケと合唱にいささか荒さが目目立つものだった。その日の夜は「エドアルドとクリスティーナ」(1819)のStefan Podaによる新プロダクション初演二日目。この曲は前日に観た「ブルグンドのアデライーデ」からの転用も多く含むパスティッチョ・オペラである。舞台は全身白塗りのヌードダンサーによる現代舞踏を全編に多様した極めて斬新な試みだった。歌唱ではエドアルド役のDaniela Barcellonaは安定的な歌唱だったがいささか力感に不足を感じた。クリスティーナ役のAnastasia Bartoliは、往年のコソットを彷彿とさせるクリスタルな美声が魅力的だったが、力で押し切る一面的な歌唱が目立ち残念だった。カルロ役のEnea Scalaのピンと張った声質のスタイリッシュな歌唱は実に魅力的だった。指揮のJader BignaminiはRAIのオーケストラを駆り立てて骨太の音楽を作った。それにしてもRAI(Torino)のオーケストラは上手いなとつくずく感じさせた。ロッシーニの音楽は抽象性を極めたもので、それゆえに転作も常套的なことであった。だからそこにドラマ性を付加するのは秀でた歌手の技法に他ならない。今回の演出は賛否両論あると思うが、そうした歌唱を舞踏で後押してキャラクターの内面を捕捉的に描くことで更なる説得力をもたらす役割を十分に果たしていたように私には思われた。15日の昼は小劇場で「教皇ピウス9世をカンタータ」(1846)。これは様々なオペラから多くを転用・編纂して作られた機会音楽だが、明るく軽やかで威勢の良い音楽に心が弾んだ。Christopher Franklin指揮によるCoro del teatro ventidio Basso+Filarmonica Gioachino Rossini+四人のソリストの演奏は今回もオケと合唱はいささか荒いものだった。この夜は「パルミーラのアウレリアーノ」(1813)のMario Martoneによるプロダクションの2014年以来の再演だ。序曲をはじめいくつかの曲が「セビリアの理髪師」へ転用されているので知った曲が度々出てくる。シチュエーションも違えば曲種も違うわけだが、場面場面での説得力は十分にあるのがロッシーニ・マジックだ。ロッシーニの世界は誠に深いことを痛感した。演奏の方はもうゼノビア役のSara Blanchとアルサーチェ役のRaffaella Lupinacciの名唱に尽きた。眼前で聴いた(観た)この二人の二重唱の衝撃を忘れることは一生ないだろう。Georges Petrou率いるOrchestra Sinfonica G.Rossiniも好演だった。そして最終日16日に観たのは今年のアカデミーの生徒によるお馴染みEmilio Sagiのプロダクション(2001)による「ランスへの旅」だ。いつものことだがロッシーニ唄いを目指す若者達による溌剌とした舞台は大物歌手によるものとは全く異なる魅力があるものでとても楽しい。今年は日本人としてSaori Suigiyamaという名前がクレジットされていたが、彼らが世界の舞台に羽ばたくのを楽しみにしたい。

東フィル第156回オペラシティ定期(7月27日)

2023年07月28日 | オペラ
今回の東フィル定期は演奏会形式のヴェルディ作曲「オテロ」である。東京フィルハーモニー交響楽団は直近では2017年にバッティストー二の指揮で同じく演奏会形式でこの演目を上演している。一方指揮のチョン・ミョンフンは2013年にこの演目を提げてフェニーチェ歌劇場と来日した。そしてその時のタイトルロールも今回と同じくグレゴリー・クンデだった。そんなわけで今回の演奏者にとっては手慣れた「オテロ」ではあるのだが、その演奏はそんなルティーンワークとは程遠い、魂のほとばしりさえ感じるさせる程の稀に見る秀でた出来だった。オテロを歌ったグレゴリー・クンデはロッシーニ・テナーからキャリアを始めてこの役にまでたどり着いたというキャリアを持っている名歌手で、ロッシーニの権威であるゼッダ指揮する「オテロ」の録音もある変わり種のベテランだ。力強い高音は随所で威力を発揮したが、一方低い声の響きが不足して画竜点睛を欠いたのが残念だった。対するイヤーゴを歌ったダリボール・イエニスは頭脳的な狡猾者といった役作りでオテロの疑心暗鬼を増幅させてゆく。個人的な嗜好ではもう少し嫌らしさが欲しかったところもあるが、しかしこの二人の掛け合いから、一旦歯車をかけ損なった時の人の心の弱さは十分な説得力をもって伝わった。そんな負のループが進行する一方で、初役だという小林厚子は、いくらオテロに蔑まれようと一途にオテロを思い続けるデズデーモナの純粋さを実に感動的に歌い尽くした。癖のない美声にずば抜けた演技力をも併せ持ち、これは世界中どこの歌劇場に出しても称賛を得られる優れたデズデーモナだったのではないだろうか。(これまでも新国本舞台のアンダーには名前を連ねていたこともあるので、役作りは充分にできていたのだと思う)またそんな彼女に寄り添って尽くすエミーリアの中島郁子の歌唱と演技も場面に奥行きを与える優れた出来だった。そして新国立歌劇場合唱団は輝かしい歌声で世界に誇るべき実力を発揮した。もちろん東フィルも名誉音楽監督の統率の下で力強くもしなやかにスコアの細部にまで込められたヴェルディの音楽を深堀りして描き尽くした。こうした優れた共同作業に身を浸していると、「アイーダ」から15年を経て隠遁さえ考えていたヴェルディが再度筆を執って書いたこの傑作の唯一無比の偉大さが心に響く。そしてその傑作は紛れもなくシェークスピア=ボイートの脚本なくしては生まれなかったに違いない。そう思わせたのは今回の本谷麻子の優れた字幕あってのことだ。あらためてその素晴らしさをも称賛したい。

日本オペラ協会「夕鶴」(7月1日)

2023年07月01日 | オペラ
団伊玖磨作曲の普及の名作「夕鶴」の日本オペラ協会による5年振りの公演初日である。総論からいうと、歌手・演出・ピットが三位一体となって実に完成度の高い感動的な舞台を作り上げたと言って良いだろう。つうの佐藤美枝子、与ひょうの藤田卓也、運ずの江原啓之、惣どの下瀬太郎の歌手陣はすべて役柄をしっかりとらえた最良の歌唱と演技だった。とりわけ役になり切った佐藤は全体をリードした。与ひょうを金の世界に引っ張り込まないでと「お願いします」を繰り返し嘆願するつうの姿にはその場の演出ともども涙を禁じえなかった。岩田達宗の演出は、つうの織る「千羽織り」の反物は、つうと与ひょうの間に生まれるべき「子」であるという解釈の下で、現代社会の危うさに鋭い警鐘を鳴らした。これまでイタリアオペラで数々の名演を残している柴田真郁のピットは、時には叙情的、時にはベリスモ・オペラのような激しい運びでドラマを描き尽くした。正直な話、日頃はあまり感情のノリがないテアトロ・リージオのオーケストラがまるで別物のように説得力のある音楽を奏でていたのには驚いた。そして驚いたことはもう一つある、それは幕が下りるや否や、ブラビーの声援と共に多くの聴衆が一斉に立ち上がってスタンディング・オベーションになったことである。日本のカンパニーのオペラでこんな情景を見とことは50年来初めてである。それほどにこの日の舞台が感動的であったということである。

NISSAY OPERA「メデア」(5月28日)

2023年05月29日 | オペラ
日生劇場開場60周年記念公演の一環としてケルビーニの「メデア」が日本初演された。今回はその二日目を聞いた。指揮の園田隆一は極めて高いテンションで新日本フィルを駆り立て、一刻たりとも弛緩のない流れで全体を劇的にリードした。その流れに乗って出ずっぱりのコルギスの女王メデア役中村真紀は絶唱。押し出しの強い歌はとりわけ後半に力を発揮した。フォルテでも決して汚くならないのは美点なのだが、多用する軽い高音のピアニッシモにはとても違和感があった。それに対する前夫の武将ジャンゾーネ役城宏憲の歌唱はクセはないのだが、メデアとの対比ではいささか軽くバランスを欠いた。この役にはメディアに対するだけの強靭な声が欲しい。その婚約者コリント王女グラウチェ役の横前奈緒の歌唱は素直で美しく磨かれた美声が心に響いた。その父クレオンテを歌ったデニス・ビシュニャもノーブルな美声で長身な姿がとても舞台映えした。しかし当日の極め付けはメディアの侍女ネリスを歌った山下牧子だった。3幕にあるアリア(不思議と侍女のこのアリアがこのオペラの一番感動的な曲かもしれない)での切々と思いを込めた深く激しい歌唱は当日一の完成度で聴衆の感動を誘った。新国の「蝶々夫人」で知られる栗山民也の演出はよく考えられた分かりやすいもので、黒を基調とした立体的で重厚な舞台ともどもドラマを十分に描いたといって良いだろう。しかしそれだけに、この母親による子供殺しのストーリは、戦争のみならず陰惨な殺人事件が多発するこの時期と重なったためもあったのか、深く心を突き刺し、終演後はとても拍手するような気分にはなれずに、どんよりとした気分で拍手に沸く劇場を後にした。

藤原歌劇団「劇場のわがままな歌手たち」(4月22日)

2023年04月22日 | オペラ
藤原歌劇団の2023年シーズン幕開けはドニゼッティの佳作「Le Convenienze ed inconvenienze teatrali」である。プログラム上では「劇場のわがままな歌手たち」と意訳されているが、嘗て東京のオペラシーンの一翼を担っていた東京オペラ・プロデュースが「ビバ・ラ・マンマ」というタイトルでしばしば舞台にかけていたことが懐かしく思い出される作品だ。今回はリコルディのクリティカル・エディションを基本としつつ若干に加筆を施したオリジナル版での公演で、松本重孝による新プロダクションである。劇場の舞台裏のゴタゴタを面白おかしく描いた小喜劇だが、総監督の折江忠道がプログラムで述べている通り、そこには感動的な筋も無いし、唸らせる歌もないので、歌手たちは裸の「孤軍奮闘」で勝負しなければならない誠に難しい作品であることは確かだ。そして今回初日の面々は、それを実に見事に成し遂げたと言って良いだろう。とにかく全編を通して抱腹絶倒!この舞台に乗った藤原の歌手たち全員に万雷の拍手を送りたい。歌も良し、台詞も良し、演技も良しという具合で、役者を揃えたヨーロッパの小劇場で良質の舞台を見ているような気分にさせられた。どこまでが演出でどこまでがアドリブか分からないが、演技や動きも実に自然で舞台を楽しく盛り上げたし、ピットを務めたテアトロ・リージオのオケも時任康文の職人的な指揮によく追従してオペラティックに全体を盛り上げた。しかし何よりダリア(勝手なプリマドンナ)役の坂口裕子、その夫ブローコロ役の久保田真澄、そしてアガタ(ルイジアの母親)役の押川浩士ら主要3名の見事な歌役者ぶりが成功に導いた大きな要因だと言って良いだろう。

東京・春・音楽祭2023「仮面舞踏会」(3月30日)

2023年03月31日 | オペラ
今年82歳を迎える巨匠リッカルド・ムーティが指揮する演奏会形式によるヴェルディの「仮面舞踏会」である。これは昨今教育活動に積極的なムーティが先導する「イタリア・オペラ・アカデミー」の活動の一環で、東京では2019年の「リゴレット」、21年の「マクベス」に続いて3回目となる。オーケストラはこの為に腕利きを集めた特別編成の「東京春祭オーケストラ」、合唱は「東京オペラシンガーズ」が担当した。今回特筆するべきは、やはりムーティの指揮するオーケストラであった。長くオペラを聞いてきたが、実演、音盤をとり混ぜて、これ程までに説得力のあるヴェルディのオケ伴を聞いたことはこれまでに無かったと言っても良いだろう。もちろんオケがピットから出て舞台で演奏したので細部まで良く聞き取れたということもあるだろうが、決してそれだけではないと思う。その多くはムーティのスコアへの深い洞察とオケの統率力に負っていたことに間違いはないだろう。つまり悪き因習を排除しつつ深くスコアを読み込んだ結果、ヴェルディのスコアに刻まれた音のドラマをえぐり出して聴衆の耳に届けてくれたということだ。その結果ワーグナーにも負けないくらいの音のドラマをヴェルディのオーケストラから聞くことができたのだ。そして、その均整の取れた凛とした格調たるや、洗練の極みと言っても決して過言ではなかった。その一方で歌手陣は残念ながら全体的に小粒だったと言わざるを得ないだろう。アゼル・ザダは誠実な歌唱でリッカルドにピッタリだったが、いかんせん声量が足りなかった。それに対するレナートのセルバン・ヴァッシレはノーブルな好演だが迫力は今ひとつだった。ウルリカのユリア・マトーチュキナは声が綺麗すぎてアクが足りないと感じた。アメーリアのジョイス・エル=コーリーは暗めな声質が地味過ぎた感があったが、それでも終盤のアリアでは哀れ味を誘った。オスカルのダミアナ・ミッツイの歌唱は悲劇の中での一服の清涼剤の役割を十分に果たした。日本勢ではとりわけシルヴァーノの大西宇宙が切れ味良い歌唱を聴かせた。ただこうした布陣は、大歌手がその声量とグランドマナーで作曲者がそのスコアに託したドラマを置き去りにすることを避けるためには、効果があったという見方もできなくはないだろう。最後になったが東京オペラシンガーズの立派な歌声は世界のどの歌劇場に出しても誇れるものだった。

びわ湖ホール「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(3月2日)

2023年03月08日 | オペラ
15年の任期をを全うし、今期でびわ湖ホール芸術監督を勇退する沼尻竜典の最後の舞台である。演目はワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。沼尻はこの間「プロデュース・オペラ」シリーズと「オペラ・セレクション」シリーズで、自ら指揮して31のプロダクションを舞台にかけてきたが、その中でもとりわけのハイライトは、バイロイト音楽祭で上演されているワーグナーの10作品を全て舞台化したということなのではなかろうか。途中新型コロナ禍により舞台芸術が全般的に危機に瀕したが、今は亡きミヒャエル・ハンペによる「指輪」の最終演目「神々の黄昏」では、無観客ストリーミング配信という画期的な手法に直前で切り替え、サイクルを辛うじて完結さるという離業を演じた。そしてその後はセミステージ演奏会形式への切替によって、今回の最終演目にたどり着いたのである。これは正に偉業と言っても良いのではないだろうか。さてその「マイスタージンガー」だが、まずは実力派の男性歌手15人を揃えた配役が圧巻であった。主役のハンス・ザックスを歌った青山貴は十分な美声で実力を発揮していたが、役柄としては少し若作り過ぎた感はあった。ベックメッサーの黒田博は悪役というより知的な役作りが珍しいかった。ポークナーの妻屋秀和は良い意味での安定の境地。コートナーの大西宇宙は若々しく存在感を発揮して輝いていた。びわ湖ホール声楽アンサンブル出身の清水徹太郎の元気一杯のダフィットにはとても好感が持てた。ただ肝心のワルター・フォン・シュトルツイングの福井敬は中低音がほぼ聞き取れず、高く張った高音だけが強く響き渡るいびつな歌唱でいささか興を削いだ。女性陣のエファ森谷真理、マグダレーナ八木寿子もまずまずの好演だった。沼尻指揮の京都市響は、石田泰尚をコンマスに迎え、実に瑞々しく明朗な音楽を作り上げた。舞台上の歌手たちの後方で奏でる配置だったので、オーケストレーションの綾が明瞭に聞き取れ、晩年のワーグナー円熟の筆致を満喫することができたのは思わぬ贈り物だった。粟国淳の雰囲気を豊かに醸し出すヴィジュアルな舞台作りも中々効果的で、ワーグナー10作品の締めに相応しい楽しい舞台だった。途中の休憩時にはびわ湖に見事な虹がかかり、それは沼尻の次へのステップへの「架け橋」のようにも感じられた。

新国「ファルスタッフ」(2月18日)

2023年02月19日 | オペラ
これは新国立劇場が誇る名プロダクションの一つだと思う。私の記録が正しければ、2004年のプリミエ以来今回で5回目の登場ということになろう。長寿の原因は故ジョナサン・ミラーのオランダ絵画風の美しい舞台だろう。更に遠近法の見事さや回舞台を用いた「見せる舞台転換」の楽しさなど、その他の見どころも多い。そして今回は主役に人を得た。ニコライ・アライモはまさに適役と言っていいのではないか。容貌はもちろん、セリフ回しも、動きもまさに我々イメージにあるフォルスタッフなのだ。そして歌唱も朗々と響く美声で実に見事に決まる。女声陣はアリーチェのロベルタ・マンテーニャ、クイックリー夫人のマリアンナ・ピッツオラート、ページ夫人メグの脇園彩、ナンネッタの三宅理恵とイタリア系を多く揃えたが、中では三宅の澄んだリリカルな歌唱が印象的だった。脇園の演技は本場感に満ちてはいたが、いかんせん歌唱的な出番が少なくて残念。男声陣はフォードのホルヘ・エスピーノ、フェントンの村上公太、カイウスの青地英幸、バルドルフォの糸賀修平、ピストーラという配役だった。ホルヘのスタイリッシュな歌唱も良かったが、むしろ傍を固めた日本勢の健闘を讃えたい。とりわけ久保田のベテランの味は光っていた。ピットのコッラード・ロヴァーリスは、東響を率いて職人的に過不足なく全体を纏め上げ舞台を成功に導いた。

ベルカント・オペラ・フェスティバル2023「オテッロ」(1月20日)

2023年01月20日 | オペラ
藤原歌劇団が2019年以降毎年ヴァッレ・ヴィットリア音楽祭と共催する「ベルカント・オペラ・ファスティバル・イン・ジャパン」の一環の公演である。会場はロッシーニに最適規模のテアトロ・リージオ・ショウワ。そして今回の演目は、ロッシーニを舞台にかけ続けている藤原も初めて手がける「オテッロ」で、確か2008年のROF日本公演時にグスタフ・クーンの指揮で一度だけ観たことがある。観てみると中々よくできた作品なのだが何故あまり舞台にかからないかというと、それはやはり傑出した4人のテノールが必要だということに尽きよう。とりわけオテロとその恋敵ロドリーゴにそれぞれ個性の異なった歌手を充てるとなると敷居は高くなる。しかし今回の公演はこのフェスティバルの芸術監督であるカルメン・サントーロ女史の見事な人選でピタリと的を得た配役だった。その中でもとりわけ見事だったのは力強くロブストな美声で主役を演じ歌ったジョン・オズボーンだったと言えるだろう。相手役のレオノール・ボニッジャのデズデーモナも繊細で美しくキレのある歌唱で、とりわけ終幕の「柳の歌」は涙を誘った。ロドリーゴのミケーレ・アンジェリーニは幾分軽い声質でオテロに対峙し、幕を追うごとに調子を上げた。皆の運命を操るイアーゴのアントーニオ・マンドウリッロの性格的な存在感も声と共に抜群だった。その他エミーリアの藤井泰子、ドージェの渡辺康、ルーチョの西山広大も好演だった。天井から垂らされた幾本ものロープを運命の糸に見立てて、それをイアーゴが操ることで登場人物を翻弄してゆくルイス・エルネスト・ドーチーニャスの演出は、シンプルな装置ながらその手法が大いに効果的だった。藤原歌劇団合唱部の合唱も見事、臨時編成のザ・オペラ・バンドもイバン・ロペス=レイノーソの職人的な指揮の下でロッシーニのイディオムを掴んだ最良のサポートだった。年初から今年のベスト1候補の演奏に出会ってしまって縁起の良い幕開けとなった。

オペラ・ストウーディオ・オペラ「パリのジャンニ」(1月14日)

2023年01月15日 | オペラ
藤原歌劇団が2019年から開催しているBOF(ベルカント・オペラ・フェスティバル)に付随したカルメン・サントーロ女史のマスタークラス2022の生徒(若手歌手達)によるドニゼッティのオペラ試演会が稲城iプラザ・ホールで開催された。なんと太っ腹にも無料である。14人の歌手達が登場して佳作「パリのジャンニ」を簡易な舞台に乗せた。皆衣装はつけているものの装置は極めて簡素。出演者の歌や演技にはまだまだこなれない所はあるものの、全員の熱演によって楽しい舞台になった。歌手達の中では主役のジャンニを前半と後半で交代に歌ったテノールの原優一と荏原孝弥はそれぞれ個性豊かな歌を聞かせ、ジャンニの側近オリビエロ役の依光ひなのは深い歌声と演技力で存在感を発揮し、後半でプリンチペッサを歌った米田七海は安定した美しい歌唱を聴かせたのが特筆される。こんな珍しい作品を舞台化してくれたことだけでも感謝であるが、一幕は何ともロッシーニ然としているのに、二幕になるとロマンティックな表現が増してドニゼッティらしくなる「時代の間」がとても興味深かった。

東響「サロメ」(11月20日)

2022年11月27日 | オペラ
東響と音楽監督ジョナサン・ノットによるコンサート形式オペラ・シリーズ、モーツアルトのダ・ポンテ三部作の次はリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」だ。今回はとにかくサロメ役のアスミク・グレゴリアンの名唱に尽きた。その美しく妖艶な存在感とシャープな歌唱は、ジョナサン・ノットの描く音楽にピタリとハマった。その意味で、まさに理想的なサロメだったのではないか。それに対するトマス・トマソンのヨカナーンの朗々たる歌唱も実に説得力があり、この二人の存在とノットの指揮が当日の出来を決定的にしたといって良いだろう。ヘロディアス役のターニャ・アリアネス・バウムガルトナーとヘロデ役のミカエル・ヴァイニウスもベテランらしい確実な歌唱だった。そんな適材適所の外国勢に混じって、代役の岸浪愛学も立派にナラポートを歌い、そして演じた。このシリーズではもうおなじみになったサー・トマス・アレンの舞台アレンジも的確で、とりわけ井戸の中のヨカナーンの歌唱をサントリー・ホールのオルガン脇で歌わせたことは音響的に実に効果的だった。ノットの獅子奮迅の振りに120%呼応しつつ、青白い炎のように熱してゆくコンマス水谷晃率いる東響の演奏は、全く「見事」という以外に形容し難いものだった。当日のプログラムには早々と次回は「エレクトラ」との予告が。これも実に楽しみである。

新国「ボリス・ゴドウノフ」(11月17日)

2022年11月18日 | オペラ
開館以来25年の「劇場史」の中でこの小屋が手がける5つ目のロシア・オペラである。今回は「開場25周年記念公演」と銘打たれている。「ボリス」と言う為政者の孤独をテーマにした作品が、ロシアの一人の為政者によって残虐な侵攻が繰りかえさえているまさにそれと時を同じくして開幕するとは何たる巡り合わせだろう。そうした意味で、今回のこの舞台はまさに身につまされる思いで観ざるをえなかった。全編ほぼ美しい独立したアリアもない形式は、ワーグナーの「指輪」と同じとも言えるが、心に訴える瞬間は比較にならないほど多い。それはこの時期だからということもあろうが、「ボリス」が決して観念ではなく、人の心のドラマだからであろう。とりわけ主人公の行動をPTSD(心的外傷後ストレス障害)と関係付けて考えることから始めたマリウシュ・トレンスキー演出による、手の込んだ、よく考えられた大胆な読み替え演出は、この16世紀の物語の本質をぐっと現代の我々に近づけ、同時に脚本の可能性を究極まで引き出したということができよう。1969年初演版と1972年改訂版の折衷という版の選択も、プロジェクションによる映像挿入手法も、すべてはそのために寄与していたと納得させる仕上がりだった。沢山のキューブを使ってボリスの内面を表現したボリス・グドルチカの装置も実に効果的だった。ソリストは皆素晴らしい歌唱と演技で説得力があったが、とりわけピーメン役のゴデルジ・ジャネリーゼの美声にはうっとりした。日頃良い仕事を重ねている新国立劇場合唱団には、まさに実力発揮の場であった。大野和士率いる都響の表情豊かなピットは、職人的な器用さとは正反対のムソルグスキーの荒削りなスコアを手際よくまとめ上げ、今回の舞台を成功に導いた。