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コンサートの感想などを書き連ねます。

NISSAY OPERA「ランメルモールのルチア」(11月13日)

2022年11月14日 | オペラ
2020年にコロナ禍の制約の中、「一人芝居」という形で短縮上演された田尾下哲によるプロダクションの、満を持しての「完全版」上演である。舞台は二段仕立てで、主に奥の舞台では物語の深層が常に描写される。加えてレーヴェンスウッドの泉に伝わる幽霊とおぼしき影が常にルチアの死の象徴として舞台を徘徊する。そのあたりが珍しい趣向ではあったが、それらはどちらかと言うと説明過多で、いささかの煩わしさを感じてしまったというのが正直な私の印象である。そんな労を費やさなくとも演者の力で当日のドラマは立派に出来上がっていた。宮里直樹のエドガルドと伊藤達人のアルトウーロはどちらも美しく輝かしい歌唱でルチアを競い合った。森谷真理のルチアは声質にはちょっとこもる独特の癖はあるものの、鮮やかな技量と持ち前の持久力で万全の歌唱だった。大きな運動量を伴う演技ながら常に安定以上の歌唱を維持し続けたのはたいしたのもだ。大沼徹のエンリーコは序幕では声が出きっていなかったが、それ以降はシャープに実力を発揮した。妻屋秀和のライモンドもいつもながらの安心の歌唱。有名な狂乱の場ではフルートに代わって最初のドニゼッティのアイデアを生かしてグラスハーモニカが使われたが、この楽器の「虚」な響きが常人ならぬルチアの心を見事に描いていた。このところ20年の藤原「リゴレット」、21年の藤原「清教徒」などで舞台を成功に導いている柴田真郁のピットは、冒頭からテキパキとした運びだった。第2部1幕のフィナーレでは激情にかられて歌手ともどもベリスモ的になりスタイルを逸脱しかけたと思われる場面もあったが、2幕ではベルカント的な安定の運びを聞かせた。

新国「ジュリオ・チェーザレ」(10月10日)

2022年10月11日 | オペラ
プリミエ直前に新型コロナで中止になるという悲劇を克服し、満を持して新国に初登場したヘンデルである。「シーザー大王のエジプト遠征」なんて話は、世界史で習ったことはあるものの、およそ現実離れしていてとても共感できるものではないのだが、演出ロラン・ペリと美術シャンタル・トマによる、現代の「博物館」を舞台にしたこのプロダクションは、そんな古代のドラマをぐっと現代の観衆の身近に引きつけることに見事に成功したと言って良いだろう。そして更にペリは、バロック・オペラ特有のダ・カーポ・アリアの繰り返しに多彩な舞台上の変化を与えたり、セリアであるこの作品にブッファ的な動きを持ち込んだりしつつ、我々聴衆を退屈から見事に救い出したと言っても良いだろう。博物館の収蔵庫で展示物を運んだり、それに修復を施したりするスタッフの横で、紀元前の登場人物達がドラマを繰り広げるというアイデアは、あたかも「ナイト・ミュージアム」の世界で、実に秀逸なプロダクションであった。主役のシーザーを歌ったマリアンネ・ベアーテ=キーランドは声量は余りないものの、心のヒダを映し出すような繊細な歌唱においては他を引き離していた。それに対する森谷真理は、元気でコケティッシュなクレオパトラを闊達に歌い演じた。加納悦子は常に悲嘆に暮れるコルネリアを、金子美香は復讐に燃える一途なセストを見事に歌い演じた。藤木大地のトロメーオは声量には不足したが、諧謔的な不思議な存在感が光った。そして注目はニレーノの村松稔之で、キレッキレのカウンターテナーはこれからの活躍が楽しみだ。ピットはリナルド・アレッサンドリーニ指揮の東フィル。ことさらピリオド奏法を強調することなく、穏健に全体を支えて安心の出来だったが、中でもホルンのオブリガードは賞賛に値するだろう。

東京二期会「蝶々夫人」(9月9日)

2022年09月10日 | オペラ
東京ニ期会3年振りの「蝶々さん」は、前回(2019)の宮本亜門の斬新な舞台とは対照的な,「日本の美」を極め尽くした我が国オペラ演出の大御所栗山昌良の名舞台である。指揮は前回同様アンドレア・バッティストーニだ。今回は、とにかく栗山の様式感に貫かれた美しい舞台に尽きると言って良いだろう。舞台の造作や歌手の大きな動き、そして小さな所作の一つ一つに至るまで全て一貫した様式で貫かれた美しく、同時にスタイリッシュな舞台は、誠に日本ならではのものであろう。そうした意味では日本を舞台としたこの作品のプロダクションとして永遠に典型となり得るものだと思う。今回はそのキリリとした様式感にぴたりと寄り添った俊英バッティストーニと東フィルのピットが一際素晴らしかった。これほど説得力に満ちたこの作品のピットを私はこれまで知らない。主役の木下美穂子は役所を全て知り尽くしたと言っても良い程の演技と歌唱で申し分なかった。対するピンカートン役の城宏憲のちょっと軽薄な役作りも実に効果的だった。成田博之のシャープレスの終幕の歌唱と演技はとても説得力があり、ピンカートンの軽薄さを大きくクローズアップしていた。大川信之のゴローも良い味を出していたし、三戸大久のボンゾの存在感もなかなか良かた。私は常々このオペラの要はスズキだと思っている。蝶々さんの心を鏡のように映し出す役なので、スズキの出来次第でストーリーの悲劇性は何倍にもなる。そうした意味では、この日の藤井麻美は、歌唱はともかくとして、その演技は多面性に不足していささか力不足だったように思えた。とは言え、それを十分に補うようなバッティの驚異的な音楽作りもあり、実に感動的な舞台だったことは確かである。東京二期会では毎回「公演監督」が入口で観客を迎えるしきたりがある。この日は永井和子さんが和服を召されて迎えてくださったが、私はその永井さんのスズキを世界一のスズキだったと思っている。

Vivid Opera Tokyo「アルジェのイタリア女」(7月20日)

2022年07月21日 | オペラ
Nissay Operaのロジーナに感心して、メゾ・ソプラノの山下裕賀を追っかけて渋谷の文化総合センターにある伝承ホールにやって来た。Vivid Opera Tokyoという若手歌手で構成されたオペラユニットによるロッシーニのオペラ「アルジェのイタリア女」の公演である。ムスタファ後藤春馬、イザベッラ山下裕賀、リンドーロ岸野裕貴、エルヴィーラ別府美沙子、ズルマ実川裕紀、タッディーオ塙翔平という配役は、元気がはち切れんばかりの爽やかな歌役者達で、彼らの作り出す生き生きとした舞台は誠にこのロッシーニの傑作ブッファに相応しいものだった。歌唱で突出していたのは、山下と後藤だったが、これは経験の差というものか。日本語脚本も手がける塙もなかなか良い味を出していた。ギャング集団「アルジェ」の事務所を舞台にした太田麻衣子の演出は機知に富んでいて、一瞬たりとも飽きさせることがない。そして、どこをとってもロッシーニの響きをピアノ一つで作り出した青木ゆりの伴奏も傑出しており、指揮の谷本喜基の作り出す果てしないロッシーニ・クレッシェンドに血湧き肉踊り、音楽の悦楽を心いっぱい堪能した至福の時間だった。さしずめこの晩は、渋谷の伝承ホールがPesaroのTeatro Rossiniに変身したようであったと言ったら言い過ぎだろうか・・・・

新国オペラ研修所試演会「領事」(7月17日)

2022年07月18日 | オペラ
1974年のメノッティ本人の演出による藤原歌劇団公演で副指揮者を務めた出星豊を指導・指揮に招いて中劇場で公演された「領事」である。演出にあたったのは研修所公演ではおなじみの久恒秀典だ。23期〜25期の研修生達は皆精一杯の力を発揮して良く歌い演じ、総じて良い仕上がりだったと思う。数少ないアリアの中でとりわけ良い歌を聴かせたのは母親役の杉山沙織だった。主役マグダ役の内山歌寿美は艶やかな美声だが、歌唱が力に頼り過ぎでやや一面的、そして定型的な振りがいささか不自然に感じられた。久常の舞台作りに関しては、もう少し凝縮した空間構成だったらストーリーの緊張感がより伝わったような気がした。音楽については、やはりピアノ2台はつらいところがあった。とりわけこのような作品は、経費の問題はあるかもしれないが、オーケストラが使えたら効果の上では格段に聴き映えがして歌唱を引き立てただろうと思った。

新国「ペレアスとメリザンド」(7月13日)

2022年07月14日 | オペラ
開館以来25年のこの劇場の歴史の中で、初めて本舞台にかかったドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」である。オペラ芸術監督大野和士率いる東京フィルのピットは極めて雄弁で、ドビュッシーの世界を余す所なく表現し尽くしていた。それは舞台なくしても満足できるほどだったと言っても決して過言ではないほどである。加えてメリザンドにカレン・ヴルシュ、ペレアスにベルナール・リヒター、ゴロにロラン・ナウリ、アルケルに妻屋秀和、ジュヌヴィエーヴに浜田理恵、イニョルドに九鳩香奈枝、医師に河野鉄平という適材適所の配役も万全で、音楽的には非常に満足のゆく仕上がりであった。ただ私は今回のケイティ・ミッチェルの演出を楽しむことはできなかった。それは今回の舞台作りとメーテルリンクの脚本、そしてそれに寄り添ったドビュッシーの音楽との間に少なからずの乖離を感じたからである。だから光に照らされる水の如く、時々に表情を変えて流れる極上の音楽とは裏腹の居心地の悪い時間を過ごした。決して全てを語ることのないがゆえに、読む者の想像力を厭が上にもかきたてるメーテルリンクの台詞をあえて独自に解釈し尽くし、全体をメリザンドの夢と設定することで、本来其々の場に居ない人物まで登場させ、視覚的に全部を曝け出し執拗に説明するという露骨な手法は、作曲者自らその影響から脱却を図ったワーグナーにこそ最適な演出手法だったのではないか。しかしその場で鳴り響いた音楽は、いつになっても耳から離れない。そういう意味で最高のドビュッシー体験だったこともまた事実である。

新国高校生のためのオペラ鑑賞教室2022「蝶々夫人」(7月11日)

2022年07月11日 | オペラ
今年の5月にゼンパー歌劇場にこの役でデビューした森谷真理を聞くために、高校生向けのオペラ教室に一般として潜り込んだ。一般対象は嘗ては当日売りしかなかったが、今回は前売り有り。しかし相当人気らしく、森谷の日はあっという間に売り切れた模様。会場を見渡してもほとんど高校生で埋め尽くされており、一般聴衆はごく僅かだった。どうやら私は難関を突場できたようだ。開演前のホールは大変な喧騒で、どうなるかと心配したが、始まったら皆お行儀よく聞いていた。演出はおなじみの栗山民也の和モダンな舞台。さて注目の森谷は、二期会でも過去に2回ほど歌っているので手慣れたもの。いつものパワーで押したが、今回はそれに貫禄が備わった。これもゼンパーの経験の結果か。最初は声量が足りない所もあったが、とりわけ二幕フィナーレは圧巻だった。対するシャープレスの城宏憲は癖のないスタイリッシュな美声だが、最初はいささか貫禄負けの節もあった。しかし最後の「さよなら愛の家」では決して負けない声量を示した。但馬由香のスズキと近藤圭のシャープレスは、二幕で演技に説得力を欠いたが、森谷も含めて全体に細かい動きの多いこの幕の動きや所作にぎこちなさが伴ったのは何故だろうか。私にはどうも演出のリアライゼーションが十分でなかったような気がした。今回の最大の功績は指揮の阪哲郎と東京フィルだったと言って良いだろう。ピットからはあたかも絶好調のカルロス・クライバーを彷彿とさせる流麗な音楽が溢れ出ていた。参集した高校生達の反応も上々で、この中から幾人ものオペラ好きが出てくることを期待したい。

藤原歌劇団「コジ・ファン・トウッテ」(7月1日)

2022年07月02日 | オペラ
藤原歌劇団とNISSAY OPERAの共同制作による「コジ」である。モーツアルトとダ・ポンテによる”女と男の物語”三部作のトリともいうべきこの作品だが、今回の岩田達宗のニュー・プロダクションは、哲学者ドン・アルフォンソの軽い戯れといったブッファ的な作りではなく、どちらかと言うとセリア的なメッセージ性の強い舞台だったことが興味を引いた。フィオルディリージに迫田美帆、ドラベッラに山口佳子、グリエルもに岡昭宏、フェランドに山本康寛、デスピーナに向野由美子、ドン・アルフォンソに田中大揮という歌手達を揃えた配役は歌唱・演技ともにとても充実したもので、ダ・ポンテの描く人間の本性をモーツアルトの音楽に乗せて強烈に描き出した。中でも迫田美帆の迫真に迫る伸びやかな歌唱は聞き応えがあった。ピットは川瀬賢太郎指揮の新日本フィルだったが、こちらは毎度の川瀬節で随分歯切れ良く威勢のいい音楽だった。まあ今回の場合はそれが岩田の強いメッセージと符合するところもあったと言えるかもしれないが、この作品にはもう少し心の機微に触れるような音楽作りが欲しいところだ。そういったモーツアルトがこの音楽に盛った二面性を鮮やかに描き分けてくれれば、より奥行きの深い感動が得られただろうと思う。

NISSAY OPERA「セビリアの理髪師」(6月12日)

2022年06月13日 | オペラ
2016年に初演された粟國淳によるプロダクションの再演である。舞台の中に廻り舞台を設て舞台転換に変化をもたらしたアイデアは楽しく、そんな動きに乗せた合唱団のパントマイムもロッシーニの音楽を引き立てるアイディアで、飽きさせることのない素敵なプロダクションだ。そして二日目の配役は全員言うことなしだった。伯爵の小堀勇介は最初のアリアから好調で円やかな美声で軽やかに歌い上げる。名乗りのアリアでのギター弾き語りも見事に決めた。対するロジーナの山下裕賀も好調で声も演技も文句なしだ。動きの一つ一つがピタリと決まっているのが快い。それに絡むフィガロの黒田祐貴の若々しい闊達な芸達者ぶりも見事。そして斉木健詞の深々とした美声にも感心した。そして全体をブッファたらしめるのに大貢献したのは何と言ってもバルトロを演じたベテラン久保田真澄の味のある存在だろう。これはこの役所の要をピタリと押さえた名演技だった。沼尻竜典と東京交響楽団のサポートは、要所においての超快速のテンポ感こそなかったもののほぼ万全だったと言って良いだろう。とりわけ思いっきりのロッシーニ・クレッシェンドは爽快で、舞台は全体を通してコロナや梅雨の鬱陶しさを吹き飛ばす心楽しい出来栄えだった。

藤原歌劇団「イル・カンピエッロ」(4月22日)

2022年04月23日 | オペラ
全く衰退の兆しのない新型コロナとウクライナの戦禍のニュースに心が晴れない日々を送りつつ迎えた2022年の春。その幕開け公演はこの歌劇団が得意とするヴォルフ=フェラーリの美しい佳作だ。1978年の当団初演以来4度目の本公演になる今回は、マルコー・ガンディーニの演出、イタロ・グラッシの装置による新プロダクションである。ヴォルフ=フェラーリというと「マドンナの宝石」間奏曲だけが有名で15作あるオペラ本作はこの日本ではほとんど上演の機会を持たない。そんな状況の中でほぼ藤原だけがこのオペラを機会ある毎に上演し続けていることはとても興味深い。それでは上演し易い出し物かというと、実はアリアらしいアリアは一曲もなく、あたかもヴェルディの「ファルスタッフ」のごとく台詞まわしで展開するので、そこから一定の共感を導くには出演者の秀でた技量が必要な作品であるといって良いだろう。おまけに市井の人々の暮らしの断面を描いたブッファ的な性格をもった筋なので、歌手たちには演技力が強く要求される。とは言えニュー・プロダクション初日の今回はそんな演目を一定の水準で仕上げることができていたと思う。騎士アストルフィ役の森口賢二が巧みに狂言回し的な役割を果たし、ベテラン角田和弘と持木弘の二人の女型テナーは洒脱な演技でブッファ的な雰囲気を作り、その中で迫田美帆、中井奈穂、楠野麻衣、但馬由香、海道弘昭、大塚雄太の若手陣がそれぞれに力量を発揮した。なかでもルシエータ役の迫田美帆の伸びやかな歌唱がとりわけ印象に残った。指揮の時任康文はいつもは腰の重いテアトロ・リージオのオーケストラから美しい歌を引き出していたが、大きな音量のアンサンブルでは更なる美音が求められよう。簡素ながら雰囲気豊かなイタロ・グラッシの装置は、美しいベネツィアを十分に表現していて、とりわけ幕切の夕景はガスパリーナの”Bondi, Venezia cara"に乗せて観る者の郷愁を誘った。そしてこの折、故もなく住み慣れた故郷の風景を失っているウクライナの人々の思いに心が強く痛んだ。

びわ湖ホール「パルシファル」 (3月3日)

2022年03月05日 | オペラ
1999年の「ドン・カルロ」から始まったこの「びわ湖ホール・プロデュースオペラ」シリーズは、途中音楽監督が若杉弘から沼尻竜典に代わってからワーグナーを精力的に取り上げてきたことは当日のプログラムに記載されているびわ湖ホールの上演史にある通りである。そして今回この「パルシファル」の上演で、初期の2曲を除き、途中「沼尻竜典オペラセレクション」での「トリスタンをイゾルデ」(2010)を加えて、ついに来年予定されている「ニュルンベルクの名歌手」でワーグナー全オペラの上演を完遂することになる。とは言え直近3年の新型コロナの影響は大きく受け、2020年の「神々の黄昏」は無観客上演、昨年の「ローエングリーン」は〈セミ・ステージ形式〉、そして今年もその簡略形式が踏襲されると同時に、来日が叶わなかった外来演奏家の役を邦人演奏家の代演としつつ初日を迎えた。多くの人々が関わるこうした大イベントをこの状況下で実施することには筆舌に尽くし難い困難が立ちはだかっていたと想像するが、それを無事克服し、実に見応えのある立派な舞台を我々に届けてくれた関係者の方々の努力には本当に頭が下がる思いである。初日、歌手人は全員絶好調だった。タイトルロールの福井敬はクリングゾルの口づけで叡智を得てからの輝かしい迫力が素晴らしかった。田崎尚美はクリングゾルの優しさと強さの二面性を豊かな声で巧みに描いた。ノーブルでスタイリッシュな斉木健詞のグルネマンツは舞台全体にえも言えぬ品格を与えた。クリングゾルの友清崇はどろ臭さを排したキレのある悪役で好演した。ティトレルの妻屋秀和は出番こそ少なかったが美声で場面を引き締めた。こうした主役陣の歌唱が良好なバランスを保っていたので、舞台としての仕上がりにはとても説得力があったと言えるだろう。ただ伊香修吾の舞台構成には視覚と聴覚的なタイミングで微妙なずれがあったようにも思われたし、決めどころでは更なる「あざとさ」があっても品格を壊すことにはならなかったのではないかと思うところもあった。そして沼尻竜典指揮の京都市交響楽団とびわ湖ホール声楽アンサンブルは今回の成功の要だったのではないか。ワーグナーの数ある作品の中でも特別な位置付けにあるこの作品の品格や神秘性を、流麗で濃密な響で描き尽くし、飽きさせる瞬間はいっ時もなかったことは正に驚異的と言って良いだろう。こうした崇高な音楽の中で、共苦により智徳を得て救済者となるというストーリを体感することは、とりわけ愚者が世界を危機に陥れようとしているこの時だからこそ一際強く教訓として心に響いた時間だった。

東京二期会「フィガロの結婚」(2月12日)

2022年02月13日 | オペラ
そもそもコンヴィチュニー演出によるR.Strauss「影のない女」のワールド・プリミエの筈だったのだが、新型コロナの影響で外人制作チームの来日が叶わず準備ができないということで、やむなく急遽演目変更された公演である。その演目は2002年初演の宮本亜門演出による「フィガロの結婚」である。これは二期会の誇る名プロダクションで、初演以来今回を含めて4度の再演を重ねることになる。プログラムによると、演出の宮本にとってはこれがオペラ初作品だったということだが、回を重ねているだけあって実にこなれていて、舞台上の全ての動きが音楽と同調して快いテンポで進んでゆくことが何とも心地良い。そしてそうした中から専制君主への批判やら虐げられた女性の地位の回復といったダ・ポンテが脚本に仕込んだテーマが透いて見えてくるという次第だ。これはー見れは見れば見るほど宮本のモーツァルトに寄せる深い愛情を感じる、そんな舞台であった。今回の表チーム(9日と12日)の出演者は概して皆若く、同時に歌役者が揃っているだけに、実に生き生きした舞台が繰り広げられた。川瀬賢太郎+新日フィルのピットも溌剌とした演奏でそれを盛り上げた。(前回の「こうもり」の時の力みが消えて聞きやすくなったのは良かった)とりわけ新鋭宮地江奈のスザンナは歌唱・演技ともに出色で全体を牽引した。小林由佳の歯切れ良く爽やかなケルビーノも聞き物だった。おっとりしたフィガロはどこか往年のヘルマン・プライを思わせる風貌の萩原潤でとても安定したできだった。大沼徹の伯爵は悪役に徹した役作りを好演した。伯爵婦人は気品ある出で立ちの大村博美だったが、歌唱的にはいささか不調だったようで残念だった。とは言えこれは些細な傷で、全体としては滅多に見られない程充実した、バランスの取れた良い仕上がりの舞台で、3時間半の長丁場が大きな感動と共にあっという間に過ぎた。

東京二期会「こうもり」(11月26日)

2021年11月27日 | オペラ
2017年の11月以来4年ぶりのアンドレアス・ホモキのプロダクションの再演である。前回はプロダクションの本拠地であるベルリン・コミッシュオペラのように額縁を小さくした舞台で繰り広げられる凝縮したドラマが、歌役者達の好演もあって感銘を呼んだことを覚えている。今回二日目を観たが、印象はそれとはそうとうに異なった。アイゼンシュタイン小林啓倫、アルフレード金山京介、ファルケ加來徹、プリント大川信之の男性陣は歌唱も演技も比較的よく、それなりに楽しませてくれた。しかし一方の女性陣がアデーレのベテラン木下美穂子以下揃っていけなかった。日頃ヴェルディ、プッチーニといった悲劇的なイタリア物で本領を発揮する木下にとっては、「ドイツ物」そして「オペレッタ」と輪をかけたハードルがあったようだ。ホモキは前回2017年のプログラムに掲載されている対談で、「[こうもりでは]登場人物たちは、台詞では真実を語りますが、そこに付けられて音楽は、ポルカ、ワルツ、カドリーユなどの既成の形式で作曲されているので、本音が伝わりにくい。..... [だから]この作品では、歌手はいつも以上に役者のように演じなければなりません。」と述べている。だから彼らのいささか間をはずした台詞まわしと稚拙な演技では、ドラマの本質が残念ながらスムーズには伝わらない結果となった。ならばせめて歌唱が秀でていればと思うのだが、それさえも十分な満足を得るには至らなかった。今回はフロッシュに森公美子を起用したが、これはちょっと筋を外れた語りが長すぎたかなという印象だ。ならばいっそのことミュージカルの一曲でも歌って欲しかった。それと東北訛りをギャグにするのは、このご時世いかがなものなのかなと思った次第。川瀬賢太郎のピットは、予想通り大層威勢のよい元気溌剌の音楽だったが、もう少し力を抜いたところから「オペレッタの大人の楽しみ」は始まるのではないか。そんなわけで、年末の楽しみで出かけた舞台だったが、ちょっと期待外れで家路についた。

NISSAYオペラ「カプレーティとモンテッキ 」(11月13日)

2021年11月16日 | オペラ
日本では上演されることの珍しいこの演目だが、2007年にもこのNissayOperaで上演されているそうで、それは有名なシェークスピアのストーリならではのことかも知れないが、ちょっと不思議な現象である。そしてまた滅多に舞台にかからないベッリーニが、9月の藤原歌劇団公演「清教徒」に続いてこうも矢継ぎ早に舞台にかかるのは稀有な事であろうが、ベッリーニ・ファンの私にとっては大変に嬉しく喜ばしいことであった。初日のジュリエッタ役は9月のエルヴィーラ役に続いて登場の佐藤美枝子、そして相手役のローミオは山下裕賀であったが、まずこの二人がとても素晴らしかった。いまや円熟の極みを迎えた佐藤の歌唱は丁寧で、そこには格調さえ漂う。始まりこそいささか滑らかさを欠いたが、幕を追うごとにだんだんと声に潤いと力が出てきて、まるでデーヴィアを思わせさえするような完成度の高い、説得力のある歌唱を示した。対する山下の歌唱は颯爽としていて若々しく、演技もそれに合わせてピアリと決まり、まるで宝塚のスターのようなスタイリッシュな存在感には惚れ惚れした。テバルトの工藤和真、ロレンツオの須藤慎吾もそれぞれに良く歌い演じていたが、前述の二人の存在感の前にはいささか影が薄くなっていた。とは言え、それほどに主演二人が充実した歌唱だったということなのだから文句はない。ピットは鈴木恵里奈率いる読売日響が務めたが、ベッリーニにしては音が重厚過ぎで煩わしく、同時に多少ドラマティック過ぎるような瞬間が多くあったように聞こえた。日生劇場参与の粟国淳の演出は、対立する両家を赤と青で象徴させたスタイリッシュなもので、「ニッセイ名作シリーズ」に参加した中・高校生達にもわかりやすかったと思う。こうした企画を切っ掛けに、オペラに美しい音と美術と文学の世界を見出す生徒達が増えることを祈りたい。

新国「チェネレントラ」(10月3日)

2021年10月04日 | オペラ
新国立劇場の2021年シーズン開幕の演目は、ロッシーニの「ラ・チェネレントラ」だ。2009年の豪華ロッシーニ歌手を揃えたJ=P・ポネルの名舞台以来何と12年振りの演目だ。演出と美術・衣装は粟國淳とアレサンドロ・チャンマルーギのコンビ。指揮は当初予定された名匠マウリツイオ・ベニーニに代わり、新国音楽チーフの城谷正博が務めた。今回の粟國プロダクションの特徴は、物語の舞台をCineCittaに移したことにあるが、それに際して基本的なストーリーの読み替えはなく、その場面変更はこのブッファにはいささか広すぎる新国の劇場空間を、有効にそして美しく彩る役割を果たしたように思われる。賑やかなロッシーニの音楽には華やかな舞台がよく似合うということである。主役のアンジェリーナを歌った脇園彩は上出来だった。完璧な技巧、太く美しい声質、秀でた演技力、これらが重なり合って彼女が目指す「芯の強い、確りと自立したアンジェリーナ」を見事に演じ、歌いきった。相手役のドン・ラミーロを歌ったルネ・バルバラも絶好調で、脇園に対峙するに十分の太い声で、何の危なげもなく高音を見事にクリアーした。2幕のアリアでは鳴り止まぬ拍手に後半がアンコールされた。ごのご時世で禁じられた「ブラボー!』が残念ではあったが、正に「オペラの楽しみここに極まれり!」と言ってもよい瞬間だった。雰囲気満載のドン・マニフィコを演じたアレッサンドロ・コルベッリの歌と演技にはブッファの楽しみが集約されていた。アリドーロ役のブリエーレ・サゴーナは狂言回しの役目を渋く決めた。驚いたのはダンディー二役の上江隼人だった。藤原歌劇団のカヴァリエ・バリトンとして幾度も舞台でお目にかかっている人だが、これほどブッファに適正があるとはついぞ思わなかった。イタリア語の運用術も実に日本人離れしていた。クロリンダの高橋董子、ティースべの斎藤純子もコミカルに好演。当初はブッファの名匠ベニーニが欠けたことでどんな展開になるか心配もあったが、それはまったくの杞憂に終わった。代演の城谷正博は、まったく正統的なロッシーニの棒。軽快な運びと躍動する音感は、ちょっと音色が硬いところもあったが、正にロッシーニを聞く悦楽で、この舞台の成功の立役者の一人であることは間違いない。