1989年以来32年振りのベルリーニの傑作「清教徒」である。今回はダブルキャストの1日目を観た。大沢佐智子の美術は合唱団も含めて黒を基調にしてシックに纏め上げたもので、前岡直子の衣装もそれに合わせた落ち着いた色調だ。合唱は藤原・二期会・新国の混成だったが、全員マスク着用ながら均整の良くとれた充実した響きで、それぞれの動きや表情がドラマの内容を良く反映し物語っていて、舞台に奥行きを与えていたことは評価したい。エルヴィーラのベテラン佐藤美枝子は、まさに円熟の極みを感じさせる歌唱と演技だった。最初こそ声に張りがなかったが幕が進むに従って嘗ての美声が蘇った。決して力任せにならない丁寧で説得力のある歌唱と演技は、あたかもあの名ソプラノ、マリア・デーヴィアを彷彿とさせるものだったと言っても決して言い過ぎではないと思う。アルトウーロの新進澤崎一了は安定的な輝かしい美声で、難度の高い超高音を二度とも見事にクリアーする会心の出来だった。ジョルジョの伊藤貴之も安定的な歌唱で存在感を示し、リッカルドの岡昭宏の美声と性格的な演技も恋敵に相応しかった。32年前には演出補だった松本重隆が今回は本演出を担当したが、決して新機軸はないものの全体を無難に纏めた。そして、このところ年に一回は藤原歌劇団の本公演に登場する柴田真郁の指揮は文句ない出来だった。絶妙のバランスで歌を引き立てつつ、テンポや音量のダイナミクスを微妙に適度に調整しながらドラマをジワジワと盛り上げてゆく手腕は、並大抵のものではない。まさに劇場型指揮者のあるべき姿だと言って良いだろう。こういう人こそ、もっと日本のピットに入ってほしい。
20年ぶりになる二期会のファルスタッフ、今回はモネ劇場、ボルドー歌劇場との共同制作によるロラン・ペリーのプロダクションである。まずなにより現代に時を移したペリーの秀逸な演出が今回の成功の鍵だったと言えよう。時は移しているものの読み替えはなく素直にストーリーを追ったものだ。それは晩年のヴェルディの驚異的とも言える生き生きとした音楽にピタリと寄り添った極めて「音楽的」な演出だった。番号を取り去った新たなオペラのスタイルに合わせたような流麗な「流れ」を感じる演出だった。隠れたファルスタッフの捜索に無数のフォード氏が登場するアイデアや、フィナーレのフーガの可視化など、機知にも富んでいて飽きさせる瞬間が一時たりともない。そしてそれらが曲の軽妙さと合間って、得も言えぬ悦楽の世界に観衆を誘うのである。そんな舞台上で歌手達も上々の出来を示した。外題役の黒田博とフォード役の小森輝彦の芸達者なバリトン対決は心から楽しかったし、アリーチェの大山亜紀子も芸達者なところを聞かせた。フェントンとナンネッタ役の山本耕平と全詠玉も大きなストーリーの流れに爽やかでちょっとエロティックな華を添えた。その他皆良く歌い良く演じて粒揃いの歌手達だった。新型コロナで来日不可になったベルトランド・ド・ビリーに代わってピットに入った新鋭レオナルド・シーニの鮮やかなタクトも大いに舞台を盛り上げた。ただ緊急事態宣言下ということで満場の喝采とはならなかったことは残念の極みだった。
これはプレミアの本公演と平行して開催された「高校生のためのオペラ鑑賞教室」の三日目である。新演出初演を見られるのだから高校生達にとってこんな贅沢なことはない。まあその贅沢さを解るかどうかは別であるが。今回の演出は2019年の「トーランドット」に続いて登場したアレックス・オリエ。配役は本公演でアンダーを務める日本人歌手達であるのでその実力の程は申し分ない。そして指揮はびわ湖ホールの音楽監督沼尻竜典なので、こちらも申し分ない。オリエの舞台設定は現代日本で、カルメンはさしずめロックバンドの花形歌手というところ。兵士達は会場警備の警察官。たばこ工場の女工達はバンド取り巻きのファン達という設定である。演出家と新国音楽監督大野和士とのプレトークによると、早逝した破天荒なロック歌手Amy Winehauseの人生が今回のタイトルロールの下敷きになっているとのことだった。ただしそのことが筋書に大きく影響を与えてるということはなく、時代設定の変更以外は大きな読み替えはなかった。ただしその結果、歌詞との齟齬が出てきてしまったり、闘牛士が浮いてしまったりで、違和感を感じるところは少なくなかった。カルメンの山下牧子は捨て身と言って良いほどの熱演、とくにフィナーレは圧巻だった。対するエスカミリオの村上公太は一本筋の通った純正な声で生真面目なホセを描ききった。須藤慎吾はいつもながらの堂々たるエスカミーリヨも立派だった。石橋栄実の一途な歌唱と細やかな演技は涙を誘った。新国合唱団も華やかで力強いアンサンブルを聞かせ、沼尻の活気に満ちた指揮が全体を強く牽引して引き締めた。ただ台詞に多くのカットがあったので全体に細切れ的な印象を与えたが、これは鑑賞教室向けのカットだったのかも知れない。
NISSAY OPERAとの共催による粟國安彦のプロダクションによるプッチーニの「蝶々夫人」である。この藤原「おはこ」のプロダクションは、1984年の初演以来もう40年近くも日本各地で繰り返し上演し続けられている名舞台である。私も何度見たか数え知れないが、今回は久恒秀典の再演出によって改めてリフレッシュされたように観せてもらった。40年に渡る再演で劣化していた細かな所作が蘇って新たに生命力を持った舞台が生まれたように感じた。今回二日目のプリマ伊藤晴が凄かった。持ち前の押しだしの強い声と役になり切った秀でた演技で、一本筋の通った人生を送った悲劇の主人公を見事に描き、実に感動的であった。一方スズキの丹呉由利子はそんなヒロインに慎ましやかに寄り添った演技と歌唱でいささか物足りなさを感じたが、その希薄な存在感は演出意図のようにも思われた。代役でピンカートンを歌った藤田卓也は2年前同様無難にまとめたと言った感じだったが、シャープレス初役の井出壮志朗は、スタイリッシュな美声と説得力に満ちた歌唱スタイルで舞台を強く引き締めた。芸達者井出司のゴロウも立派に松浦健の後を継ぐ存在になったと言って良いだろう。ピットは鈴木絵里奈率いるテアトロ・リージオ・ショウワ・オーケストラだったが、これが絶好調の歌手陣にひきかえ力不足を感じさせた。プッチーニなのだから、気持ちよく歌っているだけでなく、ときには壮絶なちょうちょうさんの生き様を後押しするような魂のある音で歌をバックアップして欲しかった。
イタリア・オペラを中心に活動する「藤原歌劇団」と創作オペラ中心に活動する「日本オペラ協会」で構成される「日本オペラ振興会」設立40周年を記念する池辺晋一郎とプッチーニ作品のダブル・ビル公演である。方や池辺のオペラデビュー作、方やプッチーニ最後の完成されたオペラだが、共に人間の「生と死」を扱った喜劇仕立ての作品という共通項があり、そこを演出の岩田達宗が共通の舞台装置に載せて上手くまとめあげた。両作品ともに歌よりも圧倒的に台詞が多い演劇的な作品だという共通点もあるのだが、そこを当日の出演者達は実に上手に裁き、更に演技も誠に達者で、一昔前の邦人オペラ歌手達の不器用さを思い出すとそこに長足の進歩を感じた。とりわけ日本オペラ協会の「デスゴッテス」での死神役の長島由佳は、ほぼ出ずっぱりながら豊かな歌声と色香ただよう演技で抜きん出た存在感を示した。相手役早川を演じた村松恒矢の演技も秀逸だった。一方藤原の「ジャンニ・スキッキ」の方は、皆よく演じ歌っていたのだが、どこかアンサンブルが雑な感じが終始つきまとったのは何故だろうか。まあ掛け合いの多い作品の性質でギクシャクするところもあるのだろうが、リヌッチョとラウレッタの大切な二つきりのアリアにしたところで、もうすこし聞くものの胸を締め付ける美しさが欲しかった。(あれはいつもの砂川さんの歌ではなかったな)そんな中でジャンニ・スキッキを歌った上江隼人の声は飛び抜けて美しく響いていたが、演技がまことに淡泊で、肝心の幕切れの演技にホロリとさせるところがなかったのは誠に残念だった。何て言ったって、あそこはこの作品の「肝」なのだから。
新型コロナ禍で外来演奏家やスタッフの来演が次々困難になる中、日本在住の演奏家と演出家ヤニス・コッコスのリモート指導によって見事開催に漕ぎ着けた舞台だ。とは言え関係者の奮闘努力の甲斐あって、この新国初まって以来の「ダブル・ビル公演」は実に充実した印象深い舞台となった。何よりコッコスが2年前にオペラ研修所のオペラ試演会で同じく「イオランタ」の舞台指導を行っていたということが幸したと言って良いだろう。その時は小劇場の舞台で、演出プラン自体も今回とは異なるのだが、当時演出助手の三浦安浩は今回の舞台にも関わっている。今回はそした経験から劇場のシステムや日本人歌手の特色を良くわかった上でのリモート指導だったと考えられる。そしてコッコスの演出・美術・衣装自体も全く性格を異にするこの二つの作品の特徴や、とりわけストラビンスキーでは幕毎に異なる多彩な曲調にぴたりと合致した良く考えられたもので、とても説得力がある観やすいものだった。そして代役の人選も見事だったと言っていいだろう。イオランタでのルネ国王役の妻屋秀和以外は全員代役を立てたわけだが、オリジナル配役の妻屋は言うに及ばず、その他の実力派歌手達も役にはまった最善の歌唱を聞かせてくれた。とりわけ、うぐいす役の三宅理恵の清純で可愛いらしい歌と出で立ち、そしてイオランタ役の大隅智佳子の最後まで力を失わない一途な歌唱は印象に残る。ただその相手役のヴォデモン伯の内山信吾は高音がいかにも苦しかった。それといつもは胸のすくような見事なアンサンブルを聞かせてくれる新国合唱団のガサツな音色は、やはり舞台での立ち位置、あるいはリハーサルの制限の影響だったのかも知れない。一方高関健指揮の東京フィルの方は胸のすくような音楽を奏で全体を大いに盛り上げた。
新型コロナで主役級外国勢が相次いで来日不可能になる中、加えて指揮予定の飯守御大も昨年の手術の影響で長時間の激務が無理ということで、前代未聞の大幅な配役変更の末にどうにか実施に漕ぎ着けた感のある公演である。結果として日本人歌手の配役の妙が物を言って、ある意味でとても充実した公演となったことは誠に喜ばしいことだ。これらは全5回中4回の指揮代演を含めて、これまで歌劇場という現場で多くの修羅場をくぐり抜けて結果を出して来た芸術監督大野和士だったからこそ為せる技だったのではないかと想像する。プロダクションは2015年~2017年に指輪チクルスでこの劇場の舞台にかかったゲッツ・フリードリッヒのフィンランド国立歌劇場版再演である。今回要となったのは何と言っても代演のミヒャエル・クプファー=ラデツキーだろう。二重の意味で心打ち裂かれるヴォータンをそれは見事に描いた。対するフリッカ藤村美穂子の力のみに頼らない繊細な歌い口にも感心した。ジーク厶ントは村上敏明(1幕)と秋谷直之(2幕)が歌い分けるという変則な形だった。色々な事情で致し方なかったのかもしれないが、結果としては歌唱スタイルにそった歌い分けが興味を引いた。ただ力の分配の問題なのか、一幕幕切れの聞かせ所で村上の声が力を失ってしまったのは誠に残念だった。輝かしさとブレスが続けば、あたかもその昔に英国DECCAから出ていた往年のデル・モナコの「ドイツ・イタリア・アリア集」に聞かれるようなスリリングで手に汗握る歌唱になっていたはずである。この所進境著しい小林厚子のジークリンデは何よりもリリカルながら疲れを知らない力強い美声が聞き物だった。びわ湖と二期会を中心にワーグナーのメゾの・ロールを総なめにしている感のある池田香織は、父親に甘える少女から、その父の真意を受けて刃向かい、最後は父の命をうけながらも意思貫徹に向けて眠りに着くというブリュンヒルデの心の変化を良く描いた。とりわけフィナーレの父ヴォータンとの二重唱は感動的だった。フンディングを演じた長谷川顕の安定した悪役ぶりも正に適材適所だった。今回はピット内の密を避けるために、管弦楽にアルフォンス・アッバスによる縮小版が使用されたが、それゆえの重厚さの不足、あるいは量感の不足を感じさせるところも所々にはあったが十分な雄弁さを発揮した大野指揮の東響も立派で、これなど純正な版で聞いたら感動は更に大きくなったことだろう。
昨年は2017年以降毎年上演してきた楽劇「ニーベルグの指輪」を「神々の黄昏」で華々しく完結させるはずだったのだが、折からのCOVID-19の感染者増加で涙を飲んで無観客上演/ストリーミング配信となった経緯がある。もちろんその上演も見事なものだったが、今回は2年ぶりの観客を入れた沼尻の「びわ湖のワーグナー」だった。とは言えいまだコロナ禍の中ということで、今回は粟国淳による《セミ・ステージ形式》の歌劇「ローエングリン」である。私が観たのはその2日目の上演だ。舞台左右にはギリシャ風の白堊の円柱が左右2本つづ建てて雰囲気を出し、舞台奥に合唱を配置、その前に舞台を平らにしてオーケストラを展開し、オケピットのあたりに台を乗せて高低の変化を持たせ、そこで衣装なし(燕尾服+ドレス姿)のソリスト達が動きと振りを加えながら歌うという仕掛けである。それに巧みな照明とプロジェクションマッピングが加えられるので、それなりに説得力のある舞台が出来上がっていた。とりわけ表情豊かな合唱団の動きが登場人物の心象背景を見事に映し出していたのには関心した。4年間かけて「指輪」を完成させる中でワーグナーの音を完全に身につけた沼尻竜典+京都市交響楽団の充実のサウンドは、まるでヨーロッパの一流劇場で一流のワーグナーに浸っているかのような錯覚に陥らせる程のものだった。決して重すぎず、そしてメリハリは十分なスタイリッシュなワーグナーだ。ハインリヒ王の斉木健詞は拡張高く堂々とした歌唱。感情を露わに表に出さずに、うちに込めた思いを淡く絞り出すような小原啓楼のローエングリンは、かえって異国から遣わされた騎士の神秘を備えていた。木下美穂子(欠場の横山恵子の代演)のエリザベートは感情豊かにそれに対した。テルラムントの黒田博は貫禄の演技と歌唱で全体を引き締めたが、対するオルトルートの八木寿子はクリアーな悪役という感じでドスの効いた憎々しさには欠けていた。伝令の大西宇宙は端の役ながら多い出番で主役級に相当する立派な歌唱を聞かせた。オケが十分に鳴っていながら、それに決して埋もれない十分な声量を確保できたのは、歌手を前に持ってきた配置の妙だったのかもしれない。またワーグナーのオーケストレーションをクリアーに楽しめたのは、オケがピットから舞台上に出ていたからかもしれない。こう考えてみると、今回は「セミ・ステージ形式」とは言いながら、粟国淳の配慮の行き届いたステージングが前提ではあるが、むしろそれが功を奏した舞台のようにも思われる。来年は同じく「セミ・ステージ形式」の舞台神聖祝典劇「パルシファル」だそうだ。実に楽しみである。
毎年この時期に開催されている新国立劇場オペラ研修所の終了公演だが、昨年は新型コロナの影響で予定されていたモーツアルトの「フィガロの結婚」が中止となったので2年ぶりの待望の開催となった。研修生達もさぞ待ち焦がれた日だったろう。そしてその演目は何と日本初演のチマローザ作曲「悩める劇場支配人」である。辻博之指揮・久恒秀典演出の舞台は会心の出来といって良いだろう。初日を観たのだが、このレチタティーヴォの多い作品を実に生き生きと歌い演じた歌手たちにまず敬意を評したい。中でもドン・クリソボーロ役のバリトン井上大聞の見事な歌役者ぶりには感服したが、その他井口侑奏、仲田尋一、増田貴寛、和田悠花、森翔梧、杉山沙織も一様に質の高い仕上がりだったといって良いだろう。作品自体、同時代のモーツアルトにある煌きには欠けるきらいがあるので、若干の冗長さを感じるところもあったが、そのあたりは出演者の和気藹々の踏ん張りもあって楽しく聞くことができた。
二期会22年ぶりの「タンホイザー」である。当初指揮に予定されていたアクセル・コーバーの来日が入国制限のために果たせず、折しも昨年末から読売日本交響楽団に来演中だった常任指揮者のセバスティアン・ヴァイグルが滞在を延長して急遽代演を務めた公演だ。代演とは言えどもヴァイグルもバイロイトの常連、さらに今回ピットを務めた読響とは12月から共演中ということもあって、今回のピットは稀に見る充実した仕上がりだった。ドラマの流れの作り、音量のコントロール、磨かれた音、どれをとっても言うことのない出来で、東京文化会館のピットからこんなに充実した音があふれたことは今までに果たしてあったであろうか。まさに正統のカペルマイスターの実力を見せつけたピットだったらしい。その牽引力に引かれた舞台はまあそれなりに見応えはあったが、新国のトーキョー・リングでサブ・カルチャー満載の画期的舞台を作りで「指輪」に新たな光を当てたキース・ウオーナーの舞台(フランス国立ラン劇場との提携)は、予想を覆して案外平凡で、先の「指輪」ほどのインパクトを与えるものではなかった。二日目の歌手陣では、やや明るめの声質ながら、滑らかな美声でエリーザベトに想いを寄せるヴォルフラ厶を歌い上げた清水勇磨の歌唱と演技が群を抜いて素晴らしかった。エリーザベトの竹多倫子の癖のない力強い美声も十分に聞き応えがあった。びわ湖のブリュンヒルデ池田香織のヴェーヌスは愛欲の権化というよりは知性を感じさせる歌唱だった。それと言うのも硬質な輝かしい声質に因るとことろが大きいが、前半では多少ビブラートが目立ち表現が一面的に聞こえるところがあった。ヘルマンの長谷川顕は新国の一回目の「指輪」チクルスで活躍した人だが、存在感の割に歌唱に今一つしまりがないところが残念。そしてタイトルロールの芹澤佳通だが、ロールデビューとしは敢闘賞といったところか。聖と俗の間を右往左往して心引き裂かれる様子を良く描いていたと思うが、しかし今一つ抜けきれない声がいかにも苦しい。ただ疲れが聞こえるはずの3幕になって霧が晴れたように通る声になったので、不調だったのかもしれない。このように全く手放しで喜べる舞台では決してなかったが、しかし不思議なことに一定の感動と満足を得て帰途につくことができたのは、統べてセバスティアン・ヴァイグレと読響のピットから流れ出た音楽に負うところが大きかったと言って良いだろう。
昨今の藤原の「ラ・ボエーム」といえは、この岩田逹宗の”佐伯ボエーム”である。2007年1月の初演以来欠かさず観ているので今回で4回目になるが、簡素ならが中々良く出来たプロダクションである。何より「佐伯祐三=パリ」という私達が心に持つ「刷り込み」の力は大きく、その力を活用した岩田のアイデア勝ちといったところだろう。今回はSD仕様で、群衆場面や複数の絡みの場面で演出に制限が加えられているが、まあ今般の状況を考えればこれは致し方ないであろう。そして前作の「フィガロ」では明らかに音響的な障害になっていたフェイス・シールドの着用が、今回は重要な場面では避けられていたのは、何よりの幸いであった。さて公演初日のミミの伊藤晴は、硬質で伸びのある癖のない高音は中々魅力的ではあるが、中音域の音量が乏しくなる傾向があり、歌の細かいニュアンスの点でももう一息と感じた。一方ロドルフォの笛田は豊かな美声が力を発揮する場面も多いが、一方で多少歌い過ぎの箇所もあるように思われた。男性トリオはマルチェッロの須藤慎吾、ショナールの森口賢二、コッリーネの伊藤貴之と芸達者なベテランが揃い、歌唱も演技も活力に満ちて良い出来だった。ムゼッタのオクサーナ・ステパニュクは歌唱も演技も少しばかり線が細いかなという印象だ。それゆえ終幕のそれぞれの心模様の描写では立体感が削がれた感がある。ピットには新型コロナで来日不可能になったセスト・クワトリー二に代り、鈴木恵里奈が率いる東京フィルが入ったが、良く歌い良く流れる音楽ではあるのだが、どこを切り取っても同じような雰囲気で、ドラマへの追従という意味では物足りなさを残した。とはいえ、涙を誘う場面も数多く、やはり「椿姫」と並んで本当に良く出来た名作だなあとあらためて思った次第である。
昨年6月に予定されていた公演が年を越して延期開催されたもので、プロダクション自体は2012年に故アルベルト・ゼッダの指揮で初演されたマルコ・ガンディーニの美しい舞台である。今回観たのは、若手中心でに組まれた二日目の舞台である。指揮は、昨今藤原の公演の多くを担当するようになった鈴木絵里奈だ。何よりも今回嬉しかったのは、フィガロの小野寺光、スザンナの横前奈緒、ケルビーノの丹呉由利子、伯爵の井出壮志朗、伯爵夫人の迫田美帆のクインテットの歌唱と演技が実に秀でていた上に平準化されていたことだ。その中でもとりわけ横前のコケティッシュな演技と切れよい歌唱は全体の華となった。もちろん元気一杯のフィガロも負けてはいなかった。そしてベテラン角田和弘のバルトロの芸達者振りも特筆されて良いだろう。一方鈴木のオケは安定的ではあったが、テンポや音色に溌剌としたものを欠き、鈍重さが目だった。そうでありながらカンツオネッタ「自分で自分がわからない」ではむやみに早いテンポを要求してせっかくの歌唱を崩すところもあり、全体の設計が見えてこない感があった。ガンディーニの舞台は、びわ湖のヴェルディ・シリーズで手腕を発揮したイタロ・グラッシの美術の力を借りて、シンプルながら実に美しく、同時に素直に、丁寧に、解りやすくできている秀でたものだった。ただ新型コロナ対策だとは言え、出演者全員がフェイス・シールドをつけていたことをどう評価してよいかは難しいだろう。明らかに歌唱の音の抜けが悪く、更に悪いのは共振することによる音色の歪みが明らかに聴衆に聞こえてきたことである。これでは、ある意味「生」を聴くことの喜びは半減される。
昨年の4月に予定されていた公演が新型コロナ対応で延期され、二度目の緊急事態宣言発動直前に滑り込むように開催された。指揮は二転して、丁度来日中のマキシム・パスカルに白羽の矢が当たった。二期会コンチェルタンテ・シリーズの一環のセミ・ステージ仕様だが、更にこの時期はSD仕様とあって、この作品で重要な合唱の配置や歌手達の動きには大きな制限があったし、有名なバレエ・シーンは音楽のみ。プロジェクションを多様した飯塚励生(舞台構成)の舞台づくりではあったが、どこか無理矢理に政治的メッセージを加えた感がなくもなかった。とは言え福井敬のサムソンと池田香織のデリラはなかなか聞き応えがあり、福井独特の節回しが影をひそめた素直で力強い歌唱は、フランス語としてはいささかしなやかさに欠けていたようにも思われるが、サムソンのイメージに合致していた。一方デリラの池田も、美声もさることながら、妖艶な色香と気品を漂わせた立派な歌唱で、満場をおおいに湧かせた。端役ではあるが、老へブラ人の妻屋秀和もいつもながらの堂々たる歌唱で舞台を引き締めた。そして代役のパスカルの指揮が、こんなことを言っては申し訳ないが、めっけものだった。昨年の「金閣寺」でも確実な音楽を作りを聴かせたが、今回はさすがお国物だけあって、東フィルから実に繊細な流れと、華やかな音色を引き出し、同時に万全のコントロールで決して歌唱を邪魔することなく、優れた牽引力を発揮していた。
藤原の「カルメン」に続く、イベント再開後の2本目のオペラは東京二期会の「フィデリオ」である。本来ならは作曲家ベートーヴェンの生誕250年を祝って賑々しく開幕するはずであったろうに、舞台も客席もSD仕様での公演となった。指揮は当初ダン・エッティンガーが予定されていたが、来日不可能になったので大植英次に変更された。演出は「ダナエの愛」そして「ローエングリーン」に続いて3度目の二期会登場となる深作健太である。さて、レオノーレ序曲第三番で開始された舞台では、序曲の間中予告編のような形で全編の物語が無言劇で展開されるという幕開きである。今回の演出手法を要約すれば、2020年というベートーヴェンの生誕250年であると同時に戦後75年という節目の年にあたって、作曲者がこの作品に籠めた『平和』あるいは『自由』への祈りを、物語の本来の筋に戦後75年間の様々な歴史的トピックを重ね合わせる形で表現したものである。採用されたトピックの象徴は、ユダヤ人強制収容所の壁であり、東西ベルリンを隔てる壁であり、パレスチナの壁であり、アメリカ国境の壁であり、それらに代表される「壁」との戦いの勝利が人類の解放であり、それが正しくこのオペラのフィナーレの大団円となるのである。舞台描写の中では、様々なドキュメンタリー映像や偉人の言葉が多く引用視覚化され、それが舞台表現を強固に意味ずけするのが今回の特徴的な手法である。しかしとりわけその手法が高じた第1幕では、音楽とストーリーがおいてけぼりを喰らってしまって、ベートーヴェンの作品自体の印象がいささか希薄なものになってしまったように感じた。ここでの大植の指揮も元気がなく、音楽的な興感に乏しいもので、それがその印象の一因だったかもしれないが、決してそれだけではないだろう。しかし2幕に入ると引用は穏やかになり、フロレスタンの小原啓楼の強靭な歌声とレオノーレの木下美穂子の美しくしなやかな歌声が音楽をぐんぐんと牽引し、大植の指揮にも俄然覇気が出てきて、舞台は盛り上がりを加えていった。そして「フィナーレ」に至って全ての「壁」が取り除かれ、新国立劇場の奥舞台までが露になり、それまで降り続けていた紗幕も上がり、遠く舞台奥に整列した合唱団がそれまで着けていたマスクを外し、点った客電の下で歓喜の歌声を高々に奏でるという仕掛けは、SD仕様ならではではあるものの、誠に感動的であった。
COVID-19の蔓延で一時は中止を覚悟した4月の公演だったが、この時期に万全の体制をとって実施にこぎつけた。その施策は、コロナと共生する環境下においての初の本格的オペラ公演として注目を集めるものであろう。舞台は2017年の岩田達宗による「赤い月」のプロダクションだったが、今回は多くの感染予防対策を施した「With Corona版」である。オケはピット内の蜜を避けて舞台上に配置され、合唱はその後ろ、そしてオケの前の舞台上でドラマが展開する。合唱も歌手もフェイス・シールドを装着し、必要に応じて透明のパーティションで飛沫を防ぎつつの演技と歌唱である。そんなわけで多くの制約があったのだが、出演者の意気込みでなかなか見応えのある舞台となった。一番心配されたのは、フェース・シールドであったが、テアトロ・リージオという比較的小さな空間で聞く限りでは、十分な声量が確保されていたと感じたし、視覚上の違和感も許容の範囲であったと感じた。ドン・ホセの藤田卓也は立ち上がりは調子が出なかったが、徐々に声に艶が加わり、一途なホセの感情表出も豊かで、十分に満足に足る出来だった。エスカミリオは本舞台デビューの井出壮志朗だったが、これが実に堂々たる美声で驚いた。今回はデビューということもあり、いささか固さがあったが、今後の有望株であることに間違いはないだろう。伊藤晴は、清楚なだけでなくカルメンと堂々と対峙する強いミカエラを、一本芯の通った歌唱で見事に描き切った。最後に注目の桜井万祐子のカルメンであるが、独特の癖のある歌唱ながら強靭な歌声を持ち、2幕のホセとの二重唱などでは迫力のある歌を聞かせたのだが、いかんせん演技にムラがあり一本のドラマが描ききれていなかったことが残念だった。昨年のバタフライに続いて本公演の指揮者に起用された鈴木絵里奈は、変則的なオケ配置ながら手堅くテアトロ・リージオ・ショウワのオケをリードして舞台を成功に導いた。