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「陽気で愉快な虐殺の地・南京の人々」(坂東学校からの転載です。)

2015-10-26 20:30:21 | 板東忠信
坂東学校長記                 (10月22日付)

南京大虐殺がユネスコ記憶遺産に登録されたとのことですが、実は私自身もこれを研究する他の先生方とは別の角度から、この虐殺事件自体が実在したのかどうかと検証していたのはもう4年くらい前だったと思います。

そんな中で、虐殺現地の南京の人々がどうだったのかを調べていましたら、南京大虐殺紀念館が落成し初公開された時の様子について、こんな記事があったんです。

ずい分前にこの記事を見つけて保存していたので間違いないのですが、そのアドレスはこちらでした。

「'' http://club.china.com/data/thread/12171906/2737/72/27/2_1.html ''」

で、まずはその記事を発見した当時、原文を見て翻訳した訳文を御覧ください。

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訳文

中国青年報1987年12月15日の報道では、その前々日の13日に南京大虐殺50周年記念日の、記念碑の周りの様子が紹介されている。

ある人は麻雀を楽しみ、トランプをし、恋人の髪をなでていたりもしていた。

展示場の人々は、中国人を殺した銃器や軍刀をおもちゃのようにしてふざけ
「この銃は非常にいいなあ」「この刀はきれいだなあ、自殺したいならここに刀があるぞ」
「重機関銃がちょっと小さくないか?」
などと言いながら「ダダダダダ」と口で音をまねたりしていた。

南京人もすでにいろいろな形で南京大虐殺を記憶したことを明らかにしている。

1992年年末、抗日戦争記録小説「大国之魂」作者である?賢がバスに乗ったときに、虐殺記念館の場所を聞いたところ、周りの人々が笑いにあふれてこういった。

「あんなところに行ってどうするんだ? あれは日本人を記念する場所だ。精神病しかあんなところにはいかないだろ」

人々はこういってとても変な人を見る目で彼を見た。

?賢が記念館に来ると、見学者の大部分が日本人であることを知り、彼はこのときはじめて、この場所が日本人を記念する場所と言ったその理由を知った。

1997年12月13日、南京大虐殺60周年記念日。
「金陵晩報」の広告は「ホテル優待」「夫婦結婚祝い」「国産逸品大抽選会」「文芸パーティ」などが掲載され、それほど賑やかでもなく、目出たいお祝いのような情緒があった。

映画館で上映されていたのは「婚外情(不倫)」「悪男(気持ち悪い男)」「特工狂花(特別勤務狂い咲き?)」等で、南京大虐殺の映画上映はただ一軒だけだった。

二日目は南京の青年が台湾歌手の斉秦の歌に酔っていた。天王ホテルでは人々が酒に酔い楽しみ盃をかさねていた。

南京は日本の広島と同様に戦争の傷を負った。しかし今、南京は当時の殺戮都市としての遺跡を探すことはできないが、原始爆弾を受けた広島の遺構保存は完璧で、記念エリアは全都市に及び、参観無料、記念品プレゼントもあると宣伝している。

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ずいぶんと盛り上がったようですね別の意味で(笑)
地元の人にとっては、できの悪いお化け屋敷にしか見えなかったのでしょう。

画像の説明

虐殺発生(?)から五〇年後には、人間ってこんなに陽気になれるものなんですねしりませんでした(笑)

どう考えても虐殺があった都市での記念館オープン当日の様子とは思えないでしょ?そんなもんです。

画像の説明

ところがですよ。

確かにコピペして残していた、前述のリンク先アドレスを今たどると、その内容は完全に一変していて、書かれているのは南京事件の日付を伝えても多くの人がすぐに思い出さないことへの危機感や、事件発生の経緯、日本のこれまでの反応など、大虐殺が実在したという記事に入れ替わっているのです。

では、そのアドレスで私が以前見たあの記事は幻だったのか? 

・・・と、探してみたら、確かに記事中の中国青年報1987年12月15日にはそうした記事が掲載されていたことが、他の記事から確認できたのです。

しかし同時にその先に、中国の非常に汚く露骨で偽善的な日本の国防言論への封圧手段と方向性が見えてきたのです。

「南京大虐殺の嘘の言い訳の嘘」

2015-10-26 16:45:19 | 板東忠信
「坂東学校」長の記事転載です。(許可が出ています。)
                        2015.10.20 記

最近世界記憶遺産とやらに登録されたという南京大虐殺について、リクエストがあったので、ちょっと他の歴史検証にはないネタで迫ってみますよ~!

すでにブログではお伝えしているとおり、南京雨花台の、虐殺記念館がある烈士陵園には、「人民英雄碑」と言われる石碑が立っていて、ここには毛沢東の揮毫とともに「南京虐殺は国民党によるものであった」という碑文があることをお伝えしております。

私が聞いたところでは以前チャンネル桜さんもこの話をきいたことがあり、2~3人の先生(どんな先生かは不明)が現場に確認しに行ったのだそうですが、確認できずに帰ってきたとのこと。

そもそもこの先生方が北京語ができたのかどうかは問題ですが(笑)、その石碑がこちらだそうな。

画像の説明

↑ あまりにでかくて気が付かなかったのでしょう(^_^;)

これほどデカければもう隠しようがないわけで、しかも毛沢東の揮毫入りですから今更ぶっ壊すわけにも行かず(但し、中国民主化が成功したら、中南海が焼き討ちにあった次はこれが破壊されるかも知れませんよ)、この話を最初に教えてくれた鳴霞さんの学生時代までは、この碑文の内容についても学校で教わっていたとのことですから、もうごまかしはききません。

つまり、中国人の多くはこうした事実を知っていながら都合がいいので南京大虐殺を騒ぎたて、日本に対し優位に立とうとしていることが明白なのです。

実際に北京語で調べてみると、この碑に関して掲載している中国ブロガーもいるのですが、「この記事に不適切なコメントは書き込まないでね」なんて書いてあったりしますので(笑)、中国人でも迂闊に触れられない話題であり、これについて下手に書くと五毛団に通報削除されるのでしょう。

そんな中、この人民英雄碑について詳しく書いていながら唯一削除されていないため広くコピペされている記事があります。

私が最初にこの碑についてお伝えした五年前にはその内容を全文翻訳していませんでしたが、一旦消えたこの記事が中国内で許容され現在は拡散していますので、私も改めて全文翻訳しました。

どうぞご覧ください。

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【毛泽东为何不让南京大屠杀历史上课本】
(なぜ、毛沢東は南京大虐殺の歴史を教科書に載せなかったのか)
http://www.aboluowang.com/2014/0118/365298.html

誰もが知っているっであろうこの写真は30年前は機密事項だったのだ!
画像の説明

1949年中国共産党が南京を占領した後、雨花台には雨花台烈士陵園が建築され、烈士陵園の記念碑にはこう記された。

「国民党政府は雨花台でかつて30万人の共産党烈士を虐殺した」

毛沢東は自ら記念碑に「死せる烈士万歳」と揮毫した。

しかし毛沢東の時代はまったく「南京大虐殺記念碑」は建設されていないのだ。

1979年以前の大陸の中学歴史教科書の中には南京大虐殺に関する記述はない。

例えば、1958年版の「中学歴史教師の手引」の「中国海外歴史大事件年表」の中には、1937年について、ただ「日本軍が上海に侵攻占領し、国民政府は首都を重慶に移した」と簡単に記述するのみで、まったく南京大虐殺については取り上げていない。

この本には1927年の大事件として蒋介石が大量の共産党員や革命軍集を虐殺したことが書かれている。

1975年版の「新編中国紙」の中の「歴史年表」中には、1937年についてはただ「国民政府は重慶に首都を移し、南京防衛に失敗した」という記載があるのみで、全く南京大虐殺の影もない。

1970年版の全日制中学歴史教科書の中に、南京大虐殺がやっと初めて登場し。その後は1985年に中国共産党政府はやっと南京に「南京大虐殺紀念館」を立てたのだ。

日本人はこの事について、なぜ毛沢東時代に中共政府は南京大虐殺の歴史を削除していたのかが理解できず、毛沢東は特別に親日だった?という話があるが、たしかに毛沢東本人の口から日本人に対し「日本の侵略に感謝している」というたぐいの話が出ている。

筆者が見るに、毛沢東時代に南京大虐殺の歴史が削除されていたのは、毛沢東が特別の親日だからでもなく、毛沢東が蒋介石を悪者化して、国民党の誰一人として抗日などしておらず、ただ共産党が日本と戦っていたという嘘のためだったのだと思う。

毛沢東の時代の歴史書の中には、国民党の軍隊について、一目日本軍を見るなり逃げ出していたような印象で描かれていて、共産党の八路軍や新四軍が80%以上の偽日本軍と戦い、抗日戦争の主戦場は共産党の主戦場であり、抗日戦争は共産党指導の下で勝利を勝ち取ったものであるとされている。

もし学生に対して「南京大虐殺」を教えるなら、必然的に国民党軍の戦いやこれに伴う多大な犠牲を教えなくてはならなくなるが、これらは「共産党が主導した抗日戦争で、国民党が逃げ回っていた」という嘘と相矛盾することになり、このため南京大虐殺の歴史を削除せざるを得なかったのだ。

1979年から、中国共産党は国民党軍隊が抗日戦初期には積極的に戦争に参加していたことを認め、ここでやっと南京大虐殺の歴史が新しく世に出たのだ。

南京大虐殺がかつて一度消された事実を説明するなら、歴史を見れば神話や嘘が歴史のあちこちに満ちているとおりで、そのために更に10の新しい嘘を積み重ねなければいけないということの例外にはならなかったということだ。

現在中国の歴史書にも比較的大きな歴史の書き換えがあるが、近代史の部分についても依然として嘘が多い。

南京大虐殺は本来一つの歴史事件であり、このような歴史事件は政治利用すべきではなく、さらにまた政治目的の歴史改ざんや歪曲はあってはならない。

しかし中国共産党は過去数十年にわたる歴史教科書においては政局が変わればこれも一変しており、南京大虐殺も抹殺されてまた一変してあまりに強調され、一つの極端がまたもう一つの極端に走ってしまった。

南京大虐殺のような重大な歴史事件については、私たちは厳粛に責任を持って歴史の真実という観点から探求討論すべきである。

(以上)
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・・・とのこと。

ちゃんと中国の歴史はウソまみれであると認めていながら、まだ共産党を信じている当たりはもう救いようのない状態ですが(笑)、彼らなりに(かなり苦しい解釈ながら)石碑に日本による南京大虐殺が記録されていない理由を述べています。

・・・が、物的証拠は全く無し。
むしろ物的証拠として日本側がこれを使っていいくらい、この石碑は日本による南京大虐殺を否定していますよ。

では、南京大虐殺が捏造され政治利用され始めた当初建設された南京大虐殺紀念館落成開館時、現場であった南京の様子はどうだったのか?

南京市民はこの時、「やっと私達の被害者としての歴史が陽の目を見たのだ!」と、感涙にむせび泣いたのか?

その時の彼らの喜びを、次回お伝えしましょう。