銀の人魚の海

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世田谷区長の経歴

2020-07-30 | 日々の雑感
午後書いた、世田谷区長の経歴が気になりネットから。

なかなか骨のある方、だからこそ、できる、と感じた。
新宿高校は、私も少し縁もある高校。
西原理恵子とも交流がある。

wikiから。

生まれ。祖父保坂貞義は、1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)まで、宮城県第二高等女学校(後の宮城県第二女子高等学校)第10代校長を務め、現職中に死去している。

父親はNHK仙台放送局勤務を経て東京勤務となり、一家で東京に転居している[1]。麹町小学校から麹町中学校へ進学。中学在学中、当時世間を席巻していた学園闘争の影響を受け、「麹町中全共闘」を校内に結成。機関紙「砦」の発行やビラ配り、大学生ML派による集会への参加等、積極的な運動を行っていた。

そうした学生運動をしていた事実について中学校での内申書に書かれ、高校受験の面接では面接官からの質問が思想にまつわるものに集中。

受験した全日制高校は全て不合格であったため、東京都立新宿高等学校定時制に進学した(のちに同校を中退)。

なお、自身が学生運動をしていた経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害されたとして千代田区と東京都を相手どり、国家賠償法に基づき、損害賠償請求訴訟を起こした。

一審・東京地裁は慰謝料請求を認めたが、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、保坂側が敗訴。最高裁判所に上告したが、最高裁は単に経歴を記載したにすぎず「思想、信条そのものを記載したものではないことは明らか」として上告を棄却した(麹町中学校内申書事件)。

教育ジャーナリスト
その後、教育ジャーナリストに転じ、管理教育の打破を主張。また、若者が自由に出入りできるフリースペース「青生舎」を1976年から1996年まで運営し、ミニコミ誌「学校解放新聞」を発刊。1980年代の反管理教育の潮流を作り、知名度を上げた。

教育ジャーナリスト時代、飲酒により退学処分を受け、学校を提訴し係争中だった西原理恵子を取材している。西原とはその後、カット描きの仕事を紹介するなど交友が続いた。また、日本公文教育研究会が提唱する公文式にも否定的であり、公文式の手法を批判する本も執筆している。

衆議院議員
1996年、社会民主党の公認で第41回衆議院議員総選挙に東京22区から出馬。新進党の伊藤達也や旧民主党の山花貞夫らに破れ東京22区では得票数5位で落選したが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、初当選した。なお小選挙区での得票率はわずか5.89%であり、供託金は没収された。

なおこの選挙をきっかけに、小選挙区での得票率が著しく低い候補者の比例復活の制限が主張されるようになり、公職選挙法改正により小選挙区での得票率が有効票数の1割を下回った場合は、比例での復活ができなくなった[2]。

2000年の第42回衆議院議員総選挙では東京6区に国替えし社民党公認で出馬。得票数は石井紘基(民主党)、落選した自由民主党の越智通雄を下回る3位であったが、再度比例復活により再選。石井の死去に伴う補欠選挙には出馬を見送り、2003年の第43回衆議院議員総選挙にも東京6区から出馬するが、小宮山洋子、越智隆雄(越智通雄の長男、落選)の後塵を拝し、3位で落選した。得票が有効投票数の10分の1に満たなかったため、供託金を没収され、議席を失った。

また、社民党は東京ブロックでの比例議席も失っている(前述の理由で、比例議席を確保していたとしても保坂の復活当選はできなかった)。

2005年の第44回衆議院議員総選挙では、選挙区からの出馬を断念し比例東京ブロック単独で立候補した。社民党は比例東京ブロックでも議席を獲得できなかったが、この総選挙では自民党が大勝し、東京で立候補した候補者の大半が小選挙区で当選したため(比例復活は18区で菅直人に敗れた土屋正忠のみ)、比例では自民党に8議席が配分されたものの、候補者が7人しかおらず、残る1議席が公職選挙法のドント方式により、比例ブロック次点の社民党に回された。

社民党の名簿1位の中川直人は小選挙区で有効票数の1割を獲得できなかったため比例復活できず、保坂が当選した。2007年12月、社民党副幹事長に就任。

2009年の第45回衆議院議員総選挙では、選挙協力により東京6区から8区に国替えし、社民党公認、民主党[3]、国民新党、東京・生活者ネットワーク推薦で出馬した。しかし自民党の石原伸晃に敗北し、比例復活もならず落選した(今度は比例ブロックでの議席獲得はなかった)。

その後、鳩山由紀夫内閣で総務大臣の原口一博により、総務省顧問に任命された[4]。落選後も社民党副幹事長の職に留まっていたが、2010年1月に辞任(後任は服部良一)。また同年の第22回参議院議員通常選挙への出馬を見据え、3月に総務省顧問も辞任した。7月の参院選には社民党公認、生活者ネット推薦で比例区から出馬するも、再び落選した[5](当選者は福島瑞穂、吉田忠智の2名)。

世田谷区長
「2011年世田谷区長選挙」も参照
2011年4月6日、記者会見を開き世田谷区長選挙への立候補を表明。なお区長選への出馬に際し、社民党を離党した。区長選には5人が立候補したが、保坂は社民・国民新・新党日本・生活者ネットの4党による支持に加え、隣接する杉並区の区長田中良らの応援も受け、83,983票を獲得し初当選した[6]。

なお、候補者氏名を記入する投票による選挙で保坂が当選するのは、これが初めてである(衆議院議員3期は比例代表で当選)。2014年の2014年東京都知事選挙では、脱原発を公約した細川護熙を評価した(落選)。

なお、23特別区の区長は、22人までが当選した舛添要一を支援しており[7]、舛添を支援しなかった~


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