〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

石川さんのコメントにお応えします

2021-07-18 11:40:00 | 日記
石川さん、コメントありがとう。勇気を与えられる気がします。本当にありがとう。

石川さんのコメントに「小説が生き物のように、形を変えながらいろんな姿を見せてくれます。」
とありますが、こう感じ取る石川さんの感じ方、この言葉、ことのほか嬉しく思いました。
その通り、私もそのように思い、感じながら多年の間、近代小説に接してきました。

石川さんのコメントは三つの段落に分かれています。
まず第一段落で、田中の言う「「私」は「私」であると同時に、反「私」でもある。」とは、
実はこれは論理的な矛盾です。
そしてこの矛盾をパラドックスとして受け取り、受け容れていくところに、
〈近代小説の神髄〉を読む秘密の鍵の一つがあり、
今回の拙稿「無意識に眠る罪悪感を原点にした三つの物語
 ―〈第三項〉論で読む村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』と
『一人称単数』、あまんきみこの童話『あるひあるとき』―」のポイントの一つもあります。

しかし、まさにアポリア、難問は第二段落のその「しかし」以降です。
石川さんの言葉をまず引用します。

しかし一方で、近代から取りこぼされた伝統的土着文化の不条理の中にも
「私」が存在しているはずであって、その対立・矛盾を超える試みが、
《近代小説の神髄》であるということだろうか、と読みました。
明確な輪郭を持つ確かな私ではなく、
「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」であるたくさんの私。


ここで注意したい用語は「不条理」。
今ここでは「伝統的土着文化の不条理」とは言わず、
「闇」とのみ言っておきましょう。
近代的リアリズムの獲得の際、その奥に「不条理」には隠れています。
近代化は伝統的土着文化と闘いながらも、近代的リアリズムの底には、
これを突き破り、突き崩す「不条理」が隠れていてたのです。
村上春樹の『クリーム』に書かれたこと、
「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」、これは存在しません。
そうし存在しない円こそ人の生、人生であるとする不条理、
これとの相克を強いられているところに近代小説の《神髄》があると私は考えています。
この近代小説の《神髄》に向かうためには、
伝統的土着文化の闇と闘う近代小説のリアリズムを獲得し、この運動を推し進めながら、
さらにそのリアリズムを逸脱し、これを超える「不条理」の問題との格闘が要請されるのです。
何故なら、「人生」が不条理だから。


次に第三段落ですが、全くおっしゃるとおり、そのように私は考えていますよ。
小説・物語の面白さ、その作品の価値とは、読み手の思考の枠組み、
感情、感覚の在り方を揺さぶり、読み手に新たな世界を提示すること、
端的に言えば作品に拉致されることですね。

作品を自分の世界の枠組みに取り込み、消費するのではなく、
作品に取り込まれて、自身が世界を新たに捉え直し続けること、
そこに読むことの意味、意義があります。
それには〈作品の意志〉に従うことです。
作家・作者にでも、読者にでもない、〈作品の意志〉に従う、作品それ自体が持つ、
作品独自の〈言葉の仕組み・仕掛け〉に応じて、拉致され、そこに放置される。
読み手の主体が瓦解・倒壊されて、主体は再構築されていかざるを得ない、これが読むことです。

〈作品の意志〉に拉致されましょうね。
それには世に傑作として生き延びてきた名作を読むことをお勧めします。
すると、こちらがいくら歳をとっても、相手は生き物のように変容して、
我々読み手に襲い掛かってきます。

石川さんのコメント

2021-07-18 09:51:30 | 日記
前回の記事に対して、以下のようなコメントを頂きました。
大変面白く拝読しましたので、こちらでもご紹介します。


コロナ禍のおかげで(と言っていいのかどうか…)、昨年より先生の講座をリモートで何度か
拝聴する機会を得、鴎外や漱石、魯迅、村上春樹、あまんきみこ、
宮沢賢治など改めて読み直すと、
ゼミ生だった時に自分はいったい何を学んできたかと思うほど、新たな発見が多くありました。
今、講座を受けつつそれらを読むと、小説が生き物のように、
形を変えながらいろんな姿を見せてくれます。

「私」は「私」であると同時に、反「私」でもある。
「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、
同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか、
ということを最近考えています。
明治の日本に、近代科学や近代リアリズムの
「目に見え、耳に聴こえるという知覚作用によって保証される本当の現実の発見」
という波が押し寄せて、近代的自我という意識が生まれた。
おのれの肉体に結び付いた個としての我、封建的社会と対峙する我、それこそ本当の我である。
しかし一方で、近代から取りこぼされた伝統的土着文化の不条理の中にも
「私」が存在しているはずであって、その対立・矛盾を超える試みが、
《近代小説の神髄》であるということだろうか、と読みました。
明確な輪郭を持つ確かな私ではなく、
「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」であるたくさんの私。

小説がおもしろく、文学評論が難しいと思うのは、小説は物語を語ることによって、
言葉や、言葉によって作られる概念の外にあるもの、
言葉からはずれるもの(言葉が抱えきれないもの)を内包する生きた人間を描写することができ、
読者はそれを読むことによって、世界に向けて目を開くことができるのですが、
そういう小説を解説したり評論したりしようとすると、折角の生きた物語を、
たちまちつまらない枠に押し戻してしまうように感じます。
しかしそれは読み手である私の器の問題で、プロットをなぞるような読みによって、
奥の深い重量感のある本物の小説のすごさが矮小化されてしまうのであれば
非常にもったいないことであって、誰かの導きがなければ、
ひとりで小説を読んでおもしろがったり感動したりできたとしても、
ただそれだけのことになってしまいます。
できるだけ、<作品の意志>を読み取り継ぐような読みをしていければ、と思います。