韓国の作家、ハン・ガンの『京都、ファサード』を思い起こすと、その感動が蘇ります。
一人称の語り手の「私」は恐ろしいほど自身の生の在り方を見つめています。
これはただごとではありません。
亡くなった友との交友を明晰にメタレベルから捉えるまなざしで語りながら、
その語っている出来事の細部に仕掛けが施され、最後の末尾の一行、
「この愛と悲しみの瞬間の全てが、いったい何を意味するのかが。」
に辿り着くようにセットされ、驚嘆します。
これぞ近代小説の《神髄》に向かっている、そう思わせます。
1月は福井県のあわら市、藤野厳九郎の故郷で、魯迅の『藤野先生』の話をし、
翌日は道元の開いた永平寺に行きましたので、
1月の朴木の会は一日伸ばしてもらい、2月1日にさせていただきました。
『藤野先生』はいかにも親しみやすく、教科書にも採用され、広く読まれていますが、
この作品も、プロットの底には、実は人類の生命の存続の在り方を
変形させる程の抑圧の姿が描き出され、
これまでの文学表現で語り得なかった表現の地平で語られていたのです。
魯迅研究の専門家たち、学校教科書指導書ではこれは捉えていません。
私見とは真っ向から対立します。
この小説の語り手の〈私〉は二十年程前の若き日に仙台医学校を退学し、
今、作家となって、かつての学恩ある藤野先生への敬愛が明快に語られた物語として
読まれていますが、私見では、これはこの藤野先生へのその敬愛を語ると共に、
中国四千年の歴史を背負った権力者、「正人君子たち」によって
中国民衆のもはや生き物としての在り方が壊されていることに〈私〉が直面し、
これといかに闘っているかが急所です。
かつて若き日に捉えていた藤野先生に対するまなざしとはとは全く異なる藤野先生の像を
想定して、初めて現在の〈語り手〉の〈私〉が今、藤野先生の写真に励まされ、
闘いの筆を執っている、これが語られているのです。
プロットを読んで、これを仕組んでいるメタプロットが読まれないのが現在の魯迅研究
と言わざるを得ません。
2月1日は鷗外の『最後の一句』についてお話しましたが、
これは鷗外記念会の雑誌『鷗外』に発表して、
鷗外研究の現状を広く皆さんにお知らせしようと思っています。
次回の朴木の会は2月22日です。
昨年暮れ、中国の西安と蘭州で『高瀬舟』『寒山拾得』について講演してきましたが、
これらと『最後の一句』、併せて三作を並べ、鷗外最後の小説と題して、お話しする予定です。
一人称の語り手の「私」は恐ろしいほど自身の生の在り方を見つめています。
これはただごとではありません。
亡くなった友との交友を明晰にメタレベルから捉えるまなざしで語りながら、
その語っている出来事の細部に仕掛けが施され、最後の末尾の一行、
「この愛と悲しみの瞬間の全てが、いったい何を意味するのかが。」
に辿り着くようにセットされ、驚嘆します。
これぞ近代小説の《神髄》に向かっている、そう思わせます。
1月は福井県のあわら市、藤野厳九郎の故郷で、魯迅の『藤野先生』の話をし、
翌日は道元の開いた永平寺に行きましたので、
1月の朴木の会は一日伸ばしてもらい、2月1日にさせていただきました。
『藤野先生』はいかにも親しみやすく、教科書にも採用され、広く読まれていますが、
この作品も、プロットの底には、実は人類の生命の存続の在り方を
変形させる程の抑圧の姿が描き出され、
これまでの文学表現で語り得なかった表現の地平で語られていたのです。
魯迅研究の専門家たち、学校教科書指導書ではこれは捉えていません。
私見とは真っ向から対立します。
この小説の語り手の〈私〉は二十年程前の若き日に仙台医学校を退学し、
今、作家となって、かつての学恩ある藤野先生への敬愛が明快に語られた物語として
読まれていますが、私見では、これはこの藤野先生へのその敬愛を語ると共に、
中国四千年の歴史を背負った権力者、「正人君子たち」によって
中国民衆のもはや生き物としての在り方が壊されていることに〈私〉が直面し、
これといかに闘っているかが急所です。
かつて若き日に捉えていた藤野先生に対するまなざしとはとは全く異なる藤野先生の像を
想定して、初めて現在の〈語り手〉の〈私〉が今、藤野先生の写真に励まされ、
闘いの筆を執っている、これが語られているのです。
プロットを読んで、これを仕組んでいるメタプロットが読まれないのが現在の魯迅研究
と言わざるを得ません。
2月1日は鷗外の『最後の一句』についてお話しましたが、
これは鷗外記念会の雑誌『鷗外』に発表して、
鷗外研究の現状を広く皆さんにお知らせしようと思っています。
次回の朴木の会は2月22日です。
昨年暮れ、中国の西安と蘭州で『高瀬舟』『寒山拾得』について講演してきましたが、
これらと『最後の一句』、併せて三作を並べ、鷗外最後の小説と題して、お話しする予定です。