かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中4番目の宿場町・粕壁宿

2024-05-25 19:30:00 | 地域発信情報
更新日:2022/04/12・公開日:2019/02/22
日光道中の宿場町
江戸時代に徳川幕府が整備したとされる五街道の一つ日光街道の起点はお江戸日本橋、そして日光東照宮までの間、21の宿場がありました。
春日部駅東口を出て公園橋通りを真っ直ぐ行くと2つ目の信号のところでかすかべ大通りとの交差します。その交差点のところにある信用金庫さんの前に次のような案内板が建っています

案内板
日光道中 粕壁宿  
日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道とされていました。しかし正徳六年(1716年)に五街道の名称について御触が出され、日光街道は海のない国を通るため日光道中と改められました。
粕壁宿は、江戸時代元和二年(1616年)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録によると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場」1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋」などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋側より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。
※1:正徳6年の御触(法令)とは、江戸時代、6代将軍徳川家宣の政治ブレーンとして活躍した学者・新井白石らが提言したとされる「正徳の治」により出された御触(法令)。以後公式には「日光道中」の表記が使用されたが、地域の古文書などには依然として「日光海道」の表記が用いられている例もみられるとのこと。
※2:本陣・脇本陣は幕府の役人や大名等が宿泊・休憩するところ。粕壁宿にはそれぞれ1軒ずつあり宿役人がこの役を勤めたが、近世後期には、旅籠屋を営む家がこれを担うようになった。

大落古利根川の遊歩道「古利根 きらめき通り」にある案内板
ここには、
粕壁宿

 粕壁宿は現在のかすかべ大通りにあたり、江戸日本橋から千住、草加、越谷(越ヶ谷町と大沢町)に続く日光道中4番目の宿場町でした。江戸からの距離は9里2町(約35.6km)、宿場内の通りの長さは、24町35間(約2.7km)、道幅5間約9mでした。町並みは通りに沿って南北10町25間約1.1kmにわたり、天保14年(1843)ごろには家数773軒、人口3701人を数えました。粕壁宿には人馬の手配などを行う問屋場が1か所あり、宿泊施設である本陣と脇本陣が各1ヶ所ありました。また、一般旅客も泊まることができる旅籠は45軒でした。 

と書かれています。これら二つの案内板を読むと粕壁宿のことが概ねわかります。

◆粕壁宿と旅人たち

そして、多くの旅人がこの粕壁宿を行き交い、一夜の宿をとりました。その中には、参勤交代の東北諸藩の大名の他、意外な旅人もいました(ただ通行しただけの人も宿に泊まった人も)。

儒学者の林羅山、俳人松尾芭蕉と弟子の河合曾良、測量家の伊能忠敬、遠山の金さんの父で幕臣の遠山金四郎景普、そして架空の人物ですが、膝栗毛文芸でおなじみの弥次さん喜多さん、どうやら、弥次さん喜多さんは東海道だけではなかったようです。

そして、

明治天皇や最後の将軍も

明治時代には明治天皇も東北巡幸の際にご休憩されたとのことです。そして、明治33年(1900)6月5日に、徳川幕府最後の将軍徳川慶喜も鷹狩目的で粕壁宿を訪れていたと言われています。

慶喜は、その日上野発の汽車に乗り、大沢町(越谷市)に宿泊、翌6日と7日は粕壁町の最勝院近くの商家(今はありません)に宿泊したそうです。

参考文献:下記の展示パンフレット

  1. 春日部市郷土資料館夏季展示(47回)「最後の将軍がみた春日部ー野鳥と御鷹・御猟場ー」(会期2013/7/23〜9/8)
  2. 同(51回)「旅の途中でひと休みー江戸時代の旅と粕壁ー」(会期:2015/7/7〜9/8)

なお、春日部市郷土資料館には、粕壁宿のジオラマが展示されています。例えば寺町付近は、


徳川慶喜宿泊地跡(許可を得て撮影しています)


ジオラマは結構精巧に出来ていますので、江戸時代の本陣・脇本陣等の場所など現在の街並みとを比較してみるととても面白いと思います。機会がありましたら是非お立ち寄りください。


日光道中粕壁宿・倉松落大口逆除「めがね橋」(其のニ)

2023-07-31 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/04/10・更新日:2023/07/24

◆レンガの積み方



 アーチは、レンガ縦小口の三重巻き立てで、面壁や袖壁は、レンガの小口の段と長手の段を交互に積む「イギリス積み」と言われる積み方です。

 なお、レンガの積み方には、この他「フランス積み」というのがあるそうです。  

ちなみに、

「イギリス積み」とは、レンガの小口(こぐち)を見せる小口(こぐち)積みと長手(ながて)の側を見せる長手積みを各段交互に積む方法。つまり、一段目はレンガを「横」(ながて)に長く並べ、その上の二段目はレンガを「縦」(こぐち)に積み、次の三段目は再び「横」に積む、以後これを繰り返す。つまり一段おきにレンガの向きが異なる積み方。

 一方、「フランス積み」とは、同じ段に小口と長手を交互に積む方法。同じ段「縦→横→縦→横」と繰り返して積んでいく積み方。

 なお、明治20年頃からは「イギリス積み」が多くなったそうです。

◆土木学会「選奨土木遺産」

 埼玉県内に残る煉瓦造りの樋門としてはニ番目(注2)に古く、4連のアーチ構造は、優れた施工技術により美しい原形と強度を保持していることから、土木学会の「現存する重要な土木遺産」のAランクであるほか、平成17年(2005)には、社団法人土木学会の土木学会選奨土木遺産に、選奨されています。

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↓↓

平成17年度 土木学会選奨土木遺産 一覧

◆近代化産業遺産

 また、平成19年(2007)には「春日部市の赤煉瓦建造物」として経済産業省の「近代化産業遺産」にも選出されています。

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注1経済産業省 近代化産業遺産

東京駅、碓氷峠鉄道施設群、喜多方市の赤煉瓦製造関連遺産と建造物、埼玉県では、熊谷市の片倉シルク記念館(昨年、見学に行きました)等

注2:以前、このめがね橋が埼玉県内に残る煉瓦樋門としては、このめがね橋が最古と言われていましたが、大落古利根川(葛西用水・逆川)の下流に残る谷古田領元圦(やこたりょうもといり・越谷市)がこの「めがね橋」より2ケ月ほど古いことが分かり、今では「最古級」と表現されています。

今回、埼玉県の指定文化財になったことで、少し溜飲が下がりました。

レンガ樋門が多い理由?

全国的に見ても埼玉県ほど多数のレンガ樋門が建設された地域はないそうです。現存するものは20基ほどですが、造られたのは200基(水門を含む)にも及ぶという調査もあります。

埼玉県にレンガ樋門が多い理由として、明治21年(1888)に深谷市で製造を開始した日本初の機械式レンガ工場・日本煉瓦製造株式会社との関連ではないかと、指摘されていましたが、春日部市教育委員会が倉松落大口逆除からはげ落ちたレンガを調査(平成11年)したところ、日本煉瓦製造株式会社の製品であることを示す刻印は発見できなかったそうです。 
明治期の利根川・荒川中流域には、瓦製造から転じた在来技術による中小レンガ工場が多数あったとされ、この樋門のレンガは、そうした中小工場の製品である可能性が推測されます。

なお、日本煉瓦製造株式会社は、昨日発表された新壱万円札の顔となる渋沢栄一翁が設立した会社です。 

↓↓

旧煉瓦製造施設/深谷市ホームページ

【倉松落大口逆除】    

次回に続く… 

参考文献(次回を含む)

  • 独立行政法人水資源機構:『水とともに』2009年5月号 NO.68  
  • 農山漁村文化協会:『ひとづくり風土記11・ふるさとの人と知恵 埼玉』1995年
  • 埼玉県教育委員会『埼玉県の近代化遺産』1996年
  • 是永定美著:『利根川・人と技術文化』(雄山閣出版)所収「利根川の煉瓦造水門」1999年3月
利根川―人と技術文化

利根川―人と技術文化

  • 伊東 孝著:「日本の近代化遺産」岩波新書(新赤版)695 2000年10月20日発行 
日本の近代化遺産―新しい文化財と地域の活性化 (岩波新書)

日本の近代化遺産―新しい文化財と地域の活性化 (岩波新書)


日光道中粕壁宿・倉松落大口逆除「めがね橋」(其の一)

2023-07-24 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/04/10•更新日:2023/07/24

◆埼玉県指定文化財『めがね橋』

 市内・八丁目地内に市内15軒目の埼玉県指定文化財(有形文化財『建築物』)の通称めがね橋旧倉松落大口逆除(きゅうくらまつおとしおおくちさかよけ))と付(つけたり)倉松落大口逆除之碑(くらまつおとしおおくちさかよけのひ)」があります。

 「めがね橋」と言えば、長崎県長崎市の中島川に架かる国の重要文化財「眼鏡橋」が有名ですが、東武鉄道スカイツリーライン春日部駅東口から北東に歩いて1kmほどの住宅地にも「めがね橋」と呼ばれる「橋」があります。

 しかし、この橋、もともとは「橋」ではなく、洪水が水路に逆流するのを防ぐための樋門でした。

 正式名称は、前述の通り、倉松落大口逆(くらまつおとし おおくち さかよけ)

 この樋門は埼玉県を流れる旧倉松落に設けられたもので、明治24年(1891)に完成しました。 


案内板


詳細は、こちら

↓↓

めがね橋 付 倉松落大口逆除之碑





 かつての樋門は、上部が拡幅され、今は市道が通る道路橋として利用されていて、その美しい形から「めがね橋」と呼ばれています。なお、めがね橋に接合している橋は「大口橋」

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下の出っ張りは「角落とし」と呼ばれる部分。水は濁っています。

 4連アーチは、埼玉県内では、他に現存例がなく、翼壁の最上部にあるレンガの角をのこぎり状に突出させた「角出し(かどだし)」の装飾も珍しいとされています。



写真の右下に僅かに角出し(少し出っ張っている)が確認できます。


 続く…



日光道中粕壁宿・夏祭り

2023-07-17 19:30:00 | 地域発信情報
 毎年の7月中旬に粕壁宿で盛大に夏祭りが行われています。

 今年、令和5年(2023)は7月15日(土)、16日(日)の2日間、春日部駅東口のかすかべ大通り(旧日光道中)で行われました。


ポスター(16日)

 この3年、長引くコロナ禍で、中止を余儀なくさらていましたが、今年は4年ぶりの開催です。

 コロナ禍で皆さん暗い気持ちで過ごしてきたので、今年は大いに盛り上がりました。
子ども神輿
大勢の人、人、人


和太鼓共演



 今年は来年になく気温が高く、加えて人の熱気で息苦しさを感じたので、御神輿パレードを見ることなく焼き鳥を買って早々に引き上げました。

 夏祭りが終わると本格的に夏になります。それにしてもこの暑さ、ちょっとバテ気味になりました。





日光道中粕壁宿・命と財産を守る水塚(其の一)

2023-07-10 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/11/06•更新日:2023/07/10

◆8年前

 8年前の平成27年(2015)9月に、台風17・18号の影響で「平成27年9月関東・東北豪雨」と言われる豪雨災害が発生しました。

 特に茨城県常総市付近では鬼怒川の堤防が決壊し、常総市役所の本庁舎まで水に浸かるなど多くの家屋が全半壊する甚大な災害でした。車で近くを通る時に、いつも思い出しています。

◆今年(令和5年)も

 そして、今年隣接する越谷市で予想を超えた大雨による浸水被害が発生しました。

 今日も早朝から九州地方に線状降水帯が停滞し、河川の氾濫の様子がテレビの画面越しに伝わってきます。

 毎年、9月、10時の台風シーズンには、さらに広範囲で被害が出て、大切な命や財産が失われてていきます。

 自然の猛威の前には人間はなす術もありません。

 ところで、「水塚という避難施設をご存知でしようか?

 「水塚って? と思われる方も多分多いのではないでしょうか。

 そこで今回はこの「水塚」について私見を交えて数回に分けて書いてみたいと思います。

水塚

 水塚(みづか、みつか、みずか、みずつか)」は、洪水の際に避難する盛り土で嵩上げした水害時の私設の避難施設です。敷地の一部を1~3㍍程度、場所によっては5㍍の高さに土盛りし、河川の氾濫(はんらん)時には水没せず、押し寄せる水から母屋を守るために築いたといわれています。
 台上の広さは50平方㍍程度で、災害時の食料備蓄用に蔵などを建てました。

 また、関東の利根川、荒川中・下流域では「水塚」、淀川下流では「段蔵」、信濃川下流では「水倉」、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)や筑後川下流では水屋(みずや)と呼ばれています。

 そういえば、木曽三川の下流の河口部には、「輪中(わじゅう)」とよばれる土地がありましたね。昔、授業で習いました。「輪中」は洪水から村を守るために、周りを堤防に造って囲んだ土地のことで、輪中に住む人々は、昔から堤防を造ったり洪水の時に助け合ったりしてみんなで協力してきたのです。その「輪中」にもこの「水屋」がありました。

◆巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」

 8年前の平成27年、宮代町郷土資料館で「水塚」に関する巡回展を拝観しました。その直後、前述の「平成27年9月関東・東北豪雨」が起きました。堤防が決壊し、集落が水に浸かる様子がテレビのニュースで流れ、今更ながら自然の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。そして、今回の九州地方の台洪水被害です。

 巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」のことは、こちら

↓↓

平成27年度巡回展「埼葛・北埼玉の水塚」開催しました。 | 埼玉県宮代町公式ホームページ

 巡回展の資料をまとめた『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会報告書第7)によると、

埼玉県東部地域の歴史地理的概観
行田市から三郷市に至る埼玉県東部地域は、その大半が加須低地、中川低地といった沖積平野に立地する。低地の標高は、北部の羽生市・加須市で10〜13㍍ほど、南部の八潮市・三郷市付近では1〜4㍍ほどである。勾配は平均0.2%ほどということになる。低地を取り巻く台地部に立地する市町でもその標高は20㍍にとどまる。
こうした低地は、完新世への移行とともに渡良瀬川や思川水系の河川が、大渓谷を埋めながら奔放に蛇行を繰り返して南流することで形成された。やがて関東盆地運動とともに、この流域に利根川が流入することで、遅くとも中世期には、現在の様子に近い低地が完成されたとみることができる。坂東太郎「利根川」が時に荒れ狂いつつも、多くの恵みをもたらしながら「江戸湾」に注いでいた時代である。
近世初期、江戸幕府が開かれると、徳川政権は江戸の町を水害から守るとともに、水田や舟運の便を確保するために利根川の東遷、荒川の西遷に着手する。特に、利根川東遷事業は、当地域と密接な関係を持っている。
幾多の難工事と多くの犠牲を繰り返しながら17世紀の後半には、この歴史的土木工事は成就する。
「治水」は、古くから領主階層のための重要なボイントであったといってよいであろう。中でも、利根川の東遷と荒川の西遷は事業規模、その成果などの点から見て最も重要かつ完成度の高い事業であった。
流路変更 がなされたとはいえ、古利根川、倉松川、中川、大場川、綾瀬川などの河川が、相変わらず氾濫を繰り返していたことは想像に難くない。そうした地理的特徴も手伝って、加須低地から中川低地には、大小多数の河川後背湿地が残された。同時に氾濫土は自然堤防となって微高地を形成することとなる。近世村落は、こうした河川自然堤防などの微高地上に発達する傾向を示す。そして村落周辺の後背湿地を水田として開発し、耕地と密着した暮らしが続けられてきた。
微高地上の集落は、大水が出ると浸水被害をまぬがれない。こうした被害を軽減するための知恵の1つとして築かれたのが「水塚」であった。 
以下略
引用:『埼葛・北埼玉の水塚』(東部地区文化財担当者会報告書第7) 

 確かに、水は豊穣の恵みをもたらす反面、大事な命、財産を奪っていくものだったのです。そのため、農家の皆さんは、各自で敷地の一部に盛り土し、蔵を建てて水害に備えたのです。それが「水塚」なのです。

 埼玉県東部地域の北は行田市や加須市から南は八潮市、三郷市の地域には、今でも約1220基以上ほどの水塚が残っているそうです。

 水塚の歴史は、江戸時代の「日光道中絵図」にも描かれているように、江戸時代にまでさかのぼります。そして、明治時代に最も多く造られました。

 また、昭和22年の「カスカスリーン台風」の後にも水塚が設けられ、10基ほどが確認されてるとのこと。さらに平成期に築造された水塚もあるそうです。

 治水対策整備が進んだ現代も先人たちが残した出水に対する警戒意識は引き継がれているかもしれません。

 その一方、「無用の長物」として主屋の改築などに伴い消滅する水塚も年々増え続けているそうで、いずれ消滅する日が来るかもしれません。

 続く…