かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

粕壁宿の市神さま・八坂神社

2022-05-30 19:30:00 | 神社
更新日:2022/05/30公開日:2019/01/11
粕壁宿の市神様

一宮交差点
粕壁宿(春日部大通り、旧日光街道)に入る三叉路(一宮交差点)の少し右手前に、八坂神社(やさかじんじゃ)が鎮座しています。
天王様 八坂神社
八坂神社といえば、京都市祇園の八坂神社がよく知られていますが、八坂神社の関連神社は、日本全国に2千数百社あるといわれており、春日部のこの八坂神社もその内の一社です。

近くには東八幡神社、東町大下稲荷神社、日枝神社などがありますが、この八坂神社粕壁宿の市神様と言われています。

八坂神社




境内の案内板

粕壁宿は、日本橋から九里ニ丁(約三六キロメートル)の距離にある。幅は約九メートルの道沿いには、約一・一、キロメートルもの町並みが続いていた。嘉永二年(一八四九)には、人口は三七七九人、旅籠屋は三七軒あった。宿の入り口にあたる八坂神社は、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれた。明和七年(一七七〇)に火災に遭い、詳しい由来は不明だが、宿の市神として信仰された。神社の祭礼は、現在の春日部夏祭りの起源でもあり、江戸時代には毎年絽六月(旧暦)に行われた。


江戸時代後期の八坂神社周辺・重要文化財 五街道其外絵図 日光道 巻第ニ 東京国立博物館所蔵)

◆残念なこと

ところで、神社を訪れると、社殿が新しいとに気づきました。実は、平成22年10月25日に放火被災により社殿が神輿共々焼失してしまいました。その後、関係者の多大なご尽力により、翌年の祭礼までに復興再建され、そして、祭礼は無事齋行されました。


八坂神社復興の碑

◎ご祭神 須佐之男命(牛頭天王)

◎祭礼日 七月十五日

(現在七月中の土曜日)

 

 明和七年(一七七〇年)の火災によって社殿が焼失したため、勧請の由来は不詳である。

 

 

 明治以降は、須佐之男命を祭神としてお祀りしているが、神仏分離以前は「牛頭天王」を祀っていた事から、今でも「天王さま」の通称で親しまれています。

古くから粕壁宿の守護神として信仰厚く、元来例祭は、七月九日から十五日まで一週間にわたって行なわれていました。太平洋戦争後は一時中断していましたが、復興が模索される中、春日部市制二十周年の昭和四十八年からは市民夏祭りとして、毎年七月中旬に例祭が執行され、神輿渡御と山車・屋台巡幸が盛大に行なわれています。

 

 氏子区域は、旧粕壁町一体の町会であり、通常は宮元である一宮町から総代が選出され、各町会並びに自治会の参加協力のもとで神社の管理運営を行なっています。

 

 去る平成二十ニ年十月二十五日夕刻、放火被災により社殿が焼失。その後、復興奉賛会を組織して工事を施工し、翌平成二十三年七月に社殿が再建され、内陣他調度品も整えて夏祭りが例年通り無事齋行されました。 

ここに後世のため、神社由緒を記します。

 

平成二十四年七月吉日

 

 八坂神社氏子中 粕壁二十四町会

先の案内板もこの復興の碑のいずれも勧請・創建の由来は不詳となっています。

郷土史家の須賀芳郎氏は、自身の著書『春日部の神社』(1996年)において、

 鎮座年月日は、不詳なれど、『武州古文書』の中に、延文六年[一三六一]の市場祭文に『下総州春日部郷市祭成之』とある。

 

これは、春日部市に市場が開かれ、市神様に祈願したときの祭文であることがわかる。春日部では、近在の農民の経済流通の手段として、四・九の日に市がたてられ、米の相場・反物の取り引き・生活物資の取り引き等が盛んに行なわれていた。中世の頃は物と物の交換市であったようである。この市は、昭和ニ十九年頃まで盛んであった。[これを六斎市と言う。]春日部付近では、越ヶ谷・岩槻・杉戸宿でそれぞれ市が開かれいた。

このことから類推して、この神社の創建は中世の頃と思考される。

と述べています。なお、日本史の区分では、中世は鎌倉・室町時代とされています。要はわからないと言うことだと思います。

明和7年の被災焼失に加えて今回(平成22年)の被災焼失、いずれも地域の人々の力で無事に復興再建されました。これらの被災も八坂神社の歴史の一頁としてこれらも末永く語り継がれていくことでしよう。 

◆ご祭神  

八坂神社のご祭神は天照大神の弟神須佐之男命(すさのうのみこと)です。そして、須佐之男命『備後国風土記』(びんごのくにふどき)逸文(いつぶん)の蘇民将来の伝承から、牛頭天王 (ごずてんのう)と同一神と考えられてきました。

その伝承とは、

昔、貧乏な兄・蘇民将来(そみんしようらい)と裕福な弟・巨丹将来(こたんしようらい)兄弟のところに、旅の途中の汚れた身なりの旅人(武塔神、のちに牛頭天王と呼ばれる)が訪れ一夜の宿を請いたのに対し、ケチな弟は冷たく断った。一方、兄の蘇民将来(そみんしようらい)は、貧しいながらも、温かく迎え手厚くもてなした。それから数年の後、再び訪れた牛頭天王は、兄の蘇民将来に子孫が代々疫病にかからないための芽の輪(めのわ、疫病除けの呪符)を授けた。そのとき牛頭天王は、「われは、須佐之男命なり」と名乗った、と言う。

というものです。この伝承は、蘇民祭として、東北地方を始め日本各地に今も残っています。 そういえば、十数年前でしたか、下帯姿の男性の写真(JR東日本のポスターだったと思います)が物議を醸したことがありました。

また、須佐之男命牛頭天王も、どちらも大変な荒神(あらがみ)という点で共通していることも同一神と見做された要因の一つと言う説もあります。 

牛頭天王

なお、牛頭天王はインドの祇園精舎(ぎおんしようじゃ)の守護神、または、朝鮮半島の新羅にある牛頭山の神とも言われ、古くから疫病除けの神とされてきましたが、インドや経由地の中国、朝鮮半島などで、牛頭天王を信仰したという痕跡が認められないことから、近年の研究では、牛頭天王は、日本独自の神という説が有力とのことです。 

なお、牛頭天王を祀っている神社は、明治元年(慶応四年)神仏分離令まで、天王社天王様などと呼ばれて人々の信仰を集めてきましたが、神仏分離令後に於いては、現在の社名八坂神社となりました。

◆疫病除け

そして、この八坂神社が粕壁宿の入り口に鎮座している意味を考えてみました。そして、八坂神社の鎮座の意味は、粕壁宿に疫病が入り込まないように、という、宿場の人々の疫病除けの強い願いがあったのではないかと思いに至りました。疫病除けの願いは昔も今も変わりません。

境内

境内は、さほど広くはありません。神社によく見られる御神木も見当たりません。いくつか石碑も残っていますが、光と白カビの関係で、文字は良く見えません(見えても、解読できませんが)。

そんな中、こんな石碑がありました。

柳内匠の筆小塚(表面)
柳内匠は神事舞太夫をつとめる宗教家で、寺子屋で子どもたちに手習いなどを教える師匠(先生)。この地域の子どもたちの教育に多大な功績を称え、その子弟らが建立した筆小塚だそうで、貴重な石碑と言えます。

(裏面)
他にも


白カビで読めません。
その隣には、


猿田彦大神の文字が見えます。側面には、文政二年の文字、文政二年は西暦1819年です。今年は、2022年、200年以上前、まさに歴史。


※注記:ブログに、書いたことは、絶対ではありません。歴史には、その解釈に諸説があります。あくまでも、筆者の考え、意見ですので、どうぞご理解ください。

【八坂神社】