かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・碇山のイヌグス(其の三)

2022-08-06 19:30:00 | 地域発信情報

公開日:2019/01/24・更新日:2022/08/06

◆なぜ当地にイヌグスが?

ところで、なぜ、碇山(碇神社)にイヌグスが植えられているのか? 

また、どうして、イヌグスなのか? などは、誰も教えてくれません。

そんな中、偶々興味深かい文章を見つけましたので、私見を交えてご紹介させていただきます。

記念樹?
熊本県水俣出身の民俗学者谷川健一(たにがわ·けんいち、1921−2013)は、著書『日本の地名』(岩波新書、新赤版495、1997)で、同じく民俗学者折口信夫(おりぐち·しのぶ)の『上代日本の文学』の文章を引用して、次のように述べています。
折口信夫が、

 我々の祖先(オヤ)たちが、此国に渡って来たのは、現在までも村々で 行わてれいる、ゆいの組織の強い団結力によって、波濤を押し分けて来ることができたのだろうと考えられる。その漂着した海岸は、“たぶ”の木の杜に近い処であった。其処の渚の砂を踏みしめて先、感じたものは 青海の大き拡がりと妣(ひ)の国への追慕とであったろう。
※妣(ひ)の国=母、亡き母のくに、つまり母国。
と言っており、
これを受けて、谷川健一は、

折口は南の島から漂着した日本人の祖先の記念樹がタブの木であったと言っている。
タブの木は、イヌグスといって、クスの一種である。クスノキ科には、クスノキ属、タブノキ属、シロモジ属、クロモジ属、ゲッケイジュ属、カゴノキ属がある。このうちタブノキは本州の暖地、四国、九州、琉球、台湾、中国などに分布する。
ー中略ー
 タブの木は、直径ニメートル、高さ十五メートルからニ十メートルに及ぶものがある。建築材や家具材に適している。船材としても珍重されたことは、奄美大島の住用材で、戦後なってもタブの丸木舟を作り、田船として使ったり、あるいは奄美大島と加計呂麻島(かけろまじま)との間によこたわる瀬戸内を横断していたことで分かる。
 折口は、さきの文章でゆいの組織の強い団結力によって、波濤を押し分けて来ることが出来たのだろうと考えられると言っている。「ゆい亅と言うのは共同作業のことであるが、もともと、物を結びつけることを言う。私(谷川健一)はこのことから同族集団あるいは地縁集団が、丸木舟と丸木舟を結びつけ、安定をよくして波浪を凌いだことを想像するのである。折口もそのような光景を想定していたのではあるまいか。タブの木もたんに民族渡来の記念に植えたのではなく、その舟に乗って渡航したことを示す大切な思い出の樹であった。

と述べています。 
旧(もと)の木
また、民俗学者の柳田國男は、自身の著書『海上の道』において、日本民族の渡来について、日本文化の源を沖縄を通して南方に求めようとする仮説を唱えました。
有名な「椰子の実」と言う歌は、柳田國男の話を聞いて作ったとされる島崎藤村の詩です。自分も小学生か中学生の時習いました。

『名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実ひとつ 故郷の岸離れて 汝(なれ)はそも波に幾月 旧(もと)の木は、生(おい)いや茂れる 枝はなお影をやなせる ー以下略 ー』

の、特に旧の木は、生いや茂れるの部分は意味深ですね。旧の木は、タブの木だったのでしょうか?

なお、クスノキについて言えば、2019年1月2日放送のブラタモリ『太宰府天満宮』編で、 

太宰府天満宮には、クスノキが生い茂る林がある

と、言っていました。鎮守の森としての役割の他、天満宮の造営・補修の部材としての用途もあったようです。

もっとも、碇神社のイヌグスは、そのような大袈裟な理由ではなく、案内板の説明にある通り、後代には、船頭さん達の船着場の目印になりました。植えた当初は、単に碇神社や屋敷を守る鎮守の意味だったのでしようね。

でも、我々の祖先の思い出の樹(記念樹)と考えた方がロマンがあるとは思いませんか?
 
日頃何気なく見ている景色もいろいろ考えると、とても面白いですね。


おわり
 

【参考図書】

日本の地名 (岩波新書)
作者:谷川 健一
岩波書店