最勝院
本堂
境内
もう少し最勝院のことを続けます。お付き合いください。
前回、建武二年銘の板碑「青石塔婆」のことに少し触れましたが、須賀芳郎氏の『春日部の寺院』(1996年)によると、昭和の初期には、春日部重行公の墳墓の上にあったそうです。おそらく重行公の追善供養のため建てたと思われます。
当時、板碑は二つに割れていたので、新町橋のたもとの鋳かけ屋(今は石材店?)で周囲を銅板で補修したとのことです。
そして、この板碑、いつしか行方不明になっていまいました。これは事件ですね。
さあ、ここからが板碑の旅(たび)の始まりです。
板碑の旅
まず、東京の人(収集家?)の手に渡り、戦時中に、新潟県の旧家に疎開。
その後、新潟県立博物館(当時の)が所有していましたが、終戦後、同博物館がアメリカ進駐軍の本部になり閉鎖。
そして、新潟県の豪農といわれた伊藤家に引き取られ、最終的には、同家が設立した「北方文化博物館」(新潟県新潟市)に収蔵・保管されていたそうです。
そのことを人伝てに聞いたかすかべの市の関係者が現地調査をして確認、最終的に当時の市長自らが現地を赴き、板碑の返還をお願いしたそうです。
幸いにも「北方文化博物館」のご理解を得ることができ、昭和52年(1977)、無事、当地へ里帰りされました。よかった!!
その時、板碑の裏面に「粕壁最上寺より出土」と書かれていたことが決め手になったとのこと。それにしても、「最上寺」って、、、
もしかして、建武二年の頃の寺院名は「最上寺」? なんて、そんなことはありませんよね。
この板碑、今は本堂内にあるそうです。一度見てみたいなぁ。
なお、「北方文化博物館」(ほっぽうぶんかはくぶつかん)については、こちら
↓↓
因みに、「北方文化博物館」は、藤の花が有名だそうです。この点も藤の街かすかべとのご縁を感じます。
なお、須賀芳郎氏の『春日部の寺院』には当時の市長などのお名前が書いてありますが、ここはあえて参考にとどめお名前は省きました。
句碑
最後に一句、墳丘の前にあった句碑
さきたまの空
蒼然と 雁渡る
花人(?)
この句は季語の雁からすると秋を詠んだ句なのでしょうね。
注記:本記事は当初2019年4月2日にエントリーしましたが2021年5月14日にリライト、2022年10月26日に再エントリーしました。