公開日:2019/06/22・更新日:2022/09/16
春日部八幡神社参道入口にある「都鳥の碑」については、以前ご紹介しました。
今回ご紹介するのは、かすかべにある「業平橋」です。
◆業平橋
▼東京の業平橋
私は単純なので、東京の「業平橋」を、東京都隅田区にあり、隅田川に架かっている橋だとばっかり思っていましたが、実は、隅田川ではなく、大横川(現、大横川親水公園)に架かっているそうです。初めて知りました。
そして、今は、「東京スカイツリー駅」という駅名に変わりましたが、以前は「業平橋」という名の駅もありました。東武伊勢崎線の終着駅で、押上駅とも地下通路で繋がっていました。高架状のプラットフォームで、改札口までかなり距離があったと記憶しています。
東京にある現在の「業平橋」は、昭和5年(1930)に架けられた橋で、近くにあった「業平山南蔵院」(現在は他所に移転している)という寺院の境内にあった「業平天神社」(現存せず)に因んで橋の名としたそうです。墨田区には業平と言う地名もあります。
▼かすかべの業平橋
一方、かすかべにある「業平橋」は、市立豊春小学校正門の東側に架かる全長十メートルほどの小さな橋で、明治21年(1889)に岩槻新道(現、県道2号さいたま春日部線)が開通した際に架けられた橋です。もともとは川の百メートルほどの上流に架かっていたとのことですが、その名のとおり在原業平が渡った橋と言い伝えられています。下を流れているのは古隅田川。
とても小さい橋なので、思わず通り過ぎてしまいました。もしかして、と思い戻って橋名を確認すると確かに、
『春日部市史 第6巻 通史編Ⅰ』には
業平橋
岩槻道の古隅田川に架かる橋で、昔、在原業平がこの橋を渡って旅をしたと伝えられている。かつては、この付近「業平団子」を売る店もあったという。
団子屋さんがあったのですね。もちろん今はありません。
ところで、在原業平は橋を渡って、と書いてありますが、果たして業平は橋を渡ったのでしようか? 伊勢物語には、渡舟に乗って川を渡ったと書いてありますが、、、。
◆隅田川が国境
業平の物語の時代は平安期であり、この時代から室町時代までは、隅田川が武蔵・下総の国境だったと伝えられています。昔の利根川(現在の古利根川)や隅田川(現在の古隅田川)は、今はその面影もありませんが、往時、大河だったといわれています。
従って、その当時、大河に橋を架けるとはとても想像できません。昔の橋は、最初は丸木橋のような素朴な橋で、そして時代とともに次第に堅固な橋になっていったのでしょう。
また、当時、川の流れがまだ一定していない濫流時代であったためか、今の川よりも川幅も広かったと言われています。その後の度重なる洪水や火山の噴火などによって土砂が徐々に堆積し、流路も変遷し、川幅も狭まったものと考えられます。
そのことは、春日部八幡神社境内付近が、平安〜室町時代に形成された河畔砂丘(浜川戸砂丘)の名残りであると伝えられていることからも想像できます。
春日部八幡神社の境内にある説明板には、
このように、隅田川は、今は流れも細くなり、名も“古”隅田川と変わっています。
◆後の鎌倉街道?
古隅田川の流域にある新方袋の満蔵寺門前にある「梅若塚の伝説」などからも、この辺りが武蔵国と下総国の国境で、京の都から陸奥への古道の通じていたことが伺えます。
春日部八幡神社の参道前の道は、鎌倉街道だったと云われています。また、奥州道とも。
もっとも、
「鎌倉街道」という単語自体、鎌倉時代にはなく、江戸時代の文献で現れるそうで、江戸時代の人々が、村内の廃れた道をかつての「鎌倉への道=鎌倉街道」ととらえ、それが歴史的事実扱いされていった可能性もある。(読売新聞2019.6.19朝刊「文化面」)
そうですので、
八幡神社参道前の道がいわゆる鎌倉街道だったかどうかはわかりません。
また、郷土史家の須賀芳郎氏も
江戸時代に入り道路の制度が整ってからは、必ずしも鎌倉へ往来する道路でなくとも、古くから開かれていた道路をすべて鎌倉街道の名で呼んだもののようである。
市内で鎌倉街道とよばれているのは二路線ある。
ひとつは現在の春日部八幡神社前の道で、春日部治部少輔(かすかべじぶしょうすけ)が鎌倉への通路として利用したと伝えられる。(ふるさと春日部『かすかべの歴史余話・鎌倉街道』須賀芳郎/著 1977年~)
と書いています。
平安時代、鎌倉街道と呼ばれる道はなかったと思いますが、後にそう呼ばれるような古道は既にあったのではないでしょうか。
そして、東海道を下って来た在原業平がその古道を通って当地の国境にまで到達し、隅田川に架かる木橋(?)を渡ったのでは、と勝手に想像しています。
でも、業平は渡舟で隅田川を渡ったのですよね。私はそう信じています。
続きます…
【業平橋】