公開日:2019/09/04・2023/02/02
…前編からの続き
◆御祭神・産土神
創造神で万物を生み出す女神、伊邪那美尊を産土神として祀ったことは、社名からもよくわかります。女體神社はそんな村の鎮守なのです。
なお、産土神(うぶすなかみ、うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)とは、
日本の神の区分のひとつ。単に産土ともいう。産土神は、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す。その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。(Wikipedia)
織部という人は梅田地区に住んでいたようですが、単に「織部」という人なのか、「◯◯織部」なのか、「織部◯◯」なのか、口碑なのでもちろんわかりません。
もしかしたら、織部司(おリベのつかさ)という役所の役人か、あるいは元役人だった人かもしれません。あくまで想像ですが、想像するだけで楽しいですね。
※織部司(おりべのつかさ)とは、
律令制で、大蔵省に属し、錦(にしき)・綾などを織り、また、染め物をつかさどった役所。おりべのつかさ。(デジタル大辞泉)
※疋(ひき/ひつ/き・匹)とは、
鎌倉時代から江戸時代にかけて用いられた銭貨の数え方(通貨単位ではない)で、100疋をもって1貫とした(この方式によると1疋=10銭(文)となるが、疋と銭(文)を併用する慣例はなかったとされている)。また、初期の頃には1疋に換算する銭貨の数は定まっておらず、『徒然草』には1疋=30文とされている。1疋=10銭(文)とされたのは犬追物に使う犬1疋(匹)の値段が10銭(文)だったからという伝説がある(『奇異雑談集』・『貞丈雑記』など)。
通貨単位の貫は1000文、100疋に相当する。これらを区別するため、質量単位の方を貫目(かんめ、一貫分の目方の略)、通貨単位の方を貫文(かんもん)という場合もある。(Wikipedia)
『新編武蔵風土記稿』の梅田村の項に、
「◯雷電社 末社 稲荷 ◯女体社 二社ともに村の鎮守、以上粕壁宿仙乗院持」
と載るように、明治期の神仏分離までは本山修験の仙乗院が当社及び雷電社の別当になっていました。
なぜ、地元の寺院ではなく、粕壁宿の寺院が別当であったのかは、仙乗院が、第二世長雅の寛永9年(1631)に粕壁宿に移転するまでこの梅田村にあったためとのことです。なお、仙乗院というお寺は明治期に廃寺となり今はありません。
※別当(べっとう)とは、
神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。別当寺(べっとうじ)とも。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。(Wikipedia)
『武蔵国郡村誌』には
女体社、「村社」村の東方にあり伊弉冉尊を祀る。祭日十一月十五日
と載っています。
◆百万遍
また、説明板・祭典に「百万遍」とありますが、百万遍は、悪病除けの行事であり、正式には「悪病除祭」といいます。
元来(戦前まで)は、大人用と子供用の二つの「数珠(じゅず)」を荒縄で作り、鉦(かね)に合わせて「ナイダー、ナイダー」と叫びながら子供、大人の順で数珠を担いで氏子の家を一軒一軒回ったものでした。
数珠の大きさは、広げると大人用が八畳分、子供用でも六畳分あり、全戸を回り終えると、古隅田川に架かる梅田橋の上から鉦・御幣(ごへい)と一緒に数珠を川中に投げ込んで、当社の社務所で年当番が用意した小豆飯やけんちん汁を御馳走になったそうです。
しかし、戦争の激化により、物資が不足してきたため昭和16年が最後となり、翌年からは祭典だけを行うようになリました。
「参考:『埼玉の神社北足立、児玉、南埼玉「女體神社」』(埼玉県神社庁)」
◆境内
その他、宝暦2年(1752)銘の金幣(きんぺい)、寛政11年(1799)の社殿再建時の棟札などがあるそうです。
【女體神社】
続く…