公開日:2019/03/12・更新日:2022/07/18
◆新町橋
高札場から100メートル程の大落古利根川に架かる橋は新町橋です。今は、ごく普通のコンクリートの橋ですが、江戸時代には大橋と呼ばれ、あの松尾芭蕉一行も陸奥の旅の際渡ったとされる歴史がある古橋です。
ポール型の案内板
新町橋全景
新町橋のプレート
よく見ると、「しんまち“ばし”」ではなく「しんまち“はし”」です。
新町橋
新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29m)、横3間(約5m)の板橋で、高欄が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように仮橋が架けられていた。新町橋の上流には上喜藏河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い六月中旬〜八月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。
平成二十七年七月
春日部市教育委員会
幕府が費用を負担すると言うことから、この橋が日光道中の重要な橋だったことがわかります。東北の大名の参勤交代の時に必ず渡る粕壁宿唯一の橋でした。現在の橋は平成17年3月竣工。
この付近は、下流の中川合流点から約15kmの地点。
ポール型の案内板の絵図 手前が粕壁宿
プレートの絵図をよく見ると、江戸時代、大落古利根川は、武州埼玉郡と葛飾郡との境だったようです。また、この大橋を渡ると幸手領の八丁目村字新町字大橋板橋と言う地名でした。
◆上喜蔵河岸
そして、橋のたもとには、上喜藏河岸と呼ばれた船着場(河岸)がありました。下流の碇神社がある碇山付近には、「下喜蔵河岸」があり、こちらが「“上”喜蔵河岸」でした。
公園橋の近くに設置されている「大落古利根川周辺地図」にある「上喜藏河岸」の写真。郷土資料館にあるジオラマを撮影したもの、許可を得て撮影しています。
見た感じですが、こちらの「上喜蔵河岸」の方が水深はありそうです。
対岸から見ると、
今は、集会所が建っています。
河岸の石垣は、集会所が新築された際、上部がコンクリートで固められてしまいました。
◆石の積み方
以前は、全長11.2m、地表面から約70cmの高さで2〜4段が残っていましたが、今はどうでしょうか。個々の石は正方形、五角形に整形されている輝石安山岩で、一つの石の上には上の石の約1/2が積まれた状態で、ほぼ横方向へ目地が通った布積みで、近世城郭建築の石垣で見られる切込ハギと呼ばれる工法によって隙間なく整然と積まれていました。
以前、見た時には「えっ、こんなの?」と思いましたが、それでも、なんとなく往時の面影が感じられだのですが。
今は、こんな感じ。
上部がコンクリートでガッチリ固められています。
今は、2〜3段程度?、仕方がありませんね。
ここのところの雨で、心なしか、古利根川の水嵩も増してきました。水嵩が増えると、暑い暑い夏がやってきます。