南阿蘇の整体店! 

自然いっぱいの南阿蘇村で、ミニログハウスの整体店
「ほぐし処 Ah Soco Soco」を営業中です!

体調に異変が・・・。

2012年06月29日 | 過去日記(土地購入まで)
長男坊が生まれた後に、仕事の方では人事部門から不動産部門に異動になりました。

これまた大変な部署で、お金が絡むドロドロとした世界が果てしなく広がっていました。
そこで人間の欲の深さというものを嫌というほど味わうことになったのです。
そして出張の回数も一段と多くなり、月に何回も九州内のいろんな県に、
胃の痛くなるような出張を繰り返さなくてはならなくなりました。

そういった出張の時に、前回お話した子供達からの動画メールが送られてきたのです。
ほんと救われました。ありがとう、ジュニアーズ!!

しかし、人事部門にいるときから体調に異変が起こり始めていました・・・。
夕方くらいになると、頭が割れるくらい痛くなる日が多くなり、最初の頃は
市販の鎮痛剤で治っていたんですが、だんだんそれも効かなくなり、ひどい時には
吐き気までするようになりました。

夢実行資金は、確実に貯まり始めていたんですが、それを実行に移すタイミングを
見つけられずにいました。子供達を田舎で育てたいといいながらも、どんどん大きく
なってきているし、職場でも年をとるに従って、だんだん責任ある立場になってしまって
いたので、身動きがとりづらくなっている自分に焦りを感じ始めていました。
(その時、33歳くらいでした。)

しかし、その数年後、想定外のビッグチャンスが訪れるのでした・・・。


仕事大好きな嫁さんに感謝!

2012年06月22日 | 過去日記(土地購入まで)
上の子を妊娠した時に、嫁さんは悩みに悩んだあげく、仕事を辞めました。
しかし、長男坊が1歳になると同時に、「育児だけは絶対無理。」ということで
子供を保育園に預けてパートで働き始めました。

しかも次男坊の時は、生まれて5,6ヶ月くらいで保育園に預けて働き始めました。
元々家に納まるタイプの女性でないということは分かっていましたが、女性の特権
ともいうべき授乳期の子育てを、なぜやらないんだろうと不思議でたまりませんでした。

自分におっぱいがでるなら、ほんと代わりたい気持ちでいっぱいでした。
当時は、残業手当も残業時間の半分くらいは貰えていたので、十分暮らせていました。
なので、保育費を稼ぐためにパートで働くという感じだったのです。

でも、今思うと、もし嫁さんが家に納まるタイプの女性だったならば、自分は
夢を追っかけて脱サラすることはできなかっただろうなと感じています。
たぶん、今頃は夢を諦めて生活のためにボロボロになりながら働き続けていたと
思います。

おかげで、そうならずに済みました。
嫁さんに感謝!


次男誕生!

2012年06月21日 | 過去日記(土地購入まで)
長男が生まれてから2年後(2003年)の11月に、
次男坊が誕生しました!(その時32歳でした)

二人目の子供は、女の子がいいなと思っていたので、いろいろ産み分け法を
研究しながら子作りに励んだんですが、出てきた赤ちゃんには、なんとかわいい
ちんこがくっついていました!!

「えっ、うっそぉーーー。」ってな感じでしたが、兄弟ふたりでケンカしながらも
仲良く遊んでいるのを見ると、男同士で良かったなぁと思う今日この頃です。

それにしても、小さい頃の子供達は、ほんとにかわいくてたまりませんでした。
当時、出張で長崎のホテルに泊まっていた時、動画のメールが送られてきました。

長男坊は、「お父さん、今なにしてるの? 気をつけて帰ってね」と、
言葉を覚えかけの次男坊は、「気をつけてね、帰ってね」と言ってくれて
いました。当時は、ほんと辛い出張が多かったので、うれしくて何回も何回も
見続けていたのを思い出します。

実は、その時のメールは今も大切に残してあり、たまに動画を見ては元気を
もらっています。

子供達は、大切な宝物です。


長男誕生!

2012年06月13日 | 過去日記(土地購入まで)
結婚して2年目の1月に長男が誕生しました。
2001年生まれですので、なんと21世紀世代になります。(その時、自分は29歳)

自分は姉が二人いますが、上の姉と10歳、下の姉とも8歳離れていて、
しかも歳の近い親戚もいなかったので、ずっと寂しい想いを持ち続けていました。

姉達が結婚して、甥っ子が3人生まれた時は弟ができた感じで、うれしくてうれしくて
たまりませんでした。当時、自分は東京に住んでいたので、帰省した時には必ず
3人を連れて温泉に行ったり、ファームランドに行ったり、サイクリングに行ったりと、
今子供達とやっていることと同じようなことを当時もやっていました。

しかし、長男が生まれた当時は、前回の過去日記でもお話したとおり、ほとんど
帰りが午前さまでしたので、疲れ果てていました。
昨日、子供達が生まれた頃のアルバムを久しぶりに見ていたら、子供の隣で一緒に
寝ている写真がたくさんありました。ほんと、疲れていたんですね・・・。

でも、当時は子供が元気の素でした。休みの日に公園で一緒に遊ぶことで、
身も心も癒されていました。

と同時に、子供が誕生したことによって、将来の夢を追い続けていいのかという
心の葛藤も生まれ始めていたのでした・・・。

お先に失礼・・・。

2012年05月25日 | 過去日記(土地購入まで)
前回お話したとおり、やっと仕事を覚えた頃にまた異動することになりました。

今度は実際に人事異動を担当する部署に配属になったのです。
そこは九州全体の人事異動を行うところで、自分は熊本と大分の担当でした。

これがまた大変な部署で、帰る時間が更に一段と遅くなり、
毎日が午前さまの状態でした。しかも年度末の頃は殺人的な状況になり、
夜が明ける頃にシャワーを浴びに家に帰る日が続きました。

本来、人事異動の通知は文書を郵送して行うんですが、最初の年は、文書発送が
間に合わず、異動の内命当日に全て電話で内命を行わなければなりませんでした。
あの日のことを今思い出してもゾッとします。

しかも2年目は、件数が桁違いに多い福岡の担当でした・・・。
「俺を殺す気かぁ~。」と叫びたい気持ちでいっぱいでした。

そんな状況でも将来の夢は捨てていませんでした。たまに別の部署の後輩とかと
飲みに行く機会があるときは、決して仕事の話はせず、将来の田舎暮らしの夢を
語っている自分がそこにいました。

そして、ある後輩が自分の話に影響を受けたのかどうか分かりませんが、
「大学に戻って研究をしたい。」ということで、さっさと退職してしまったのです。
「おーい、俺より先に辞めんでくれよぉ~。」と叫んでいました。

しかし、その時は土地購入資金を貯めるために、
身を粉にして働くしかなかったのです・・・。


地獄の日々再び・・・。

2012年05月20日 | 過去日記(土地購入まで)
前回お話したとおり、結婚により資金がスッカラカンになりましたので、
しばらくは今の仕事を続けて、土地購入資金を貯めることにしました。

当時、嫁さんとは同じ部署(総務部)で働いていたため、結婚により自分が別の部署に
放り出されることになりました。

ここからがまた地獄の日々の始まりでした・・・。

異動した先は人事部という部署で、いくつかある部署の中で一番人数の多い部署でした。
そこの庶務を担当することになり、福利厚生や給与の計算などをしないといけなくなり
ました。当時は手当の認定や取消などは手計算で行う部分が多く、しかも人数が多い
だけでなく、人事部にはいろんな給与体系の人がいたので、最初のうちは頭がこんがらがってしまって、
ちゃんと給与を支給できるか不安で不安でたまりませんでした。

また、庶務担当というところは、部長のお世話もしないといけないところでしたので、
飲み会も一気に増え、家に帰る時間も一段と遅くなっていきました。

そうした日々の中でも、たまに楽しみがありました。
たま~に嫁さんと帰りが一緒になる日があるときは、焼き鳥屋に寄って帰ったりして
プチデートを楽しみました。
今はふたりで出かけることはほとんどないので、なつかしく感じます。

しかし、翌年には一段と厳しい課に異動することになるのでした・・・。

こんなん出来ました!

2012年05月16日 | 過去日記(土地購入まで)
結婚式の引き出物の皿です。



自分で言うのもなんですが、なかなか味があるでしょ。

ちなみに下の写真は、嫁さんが陶芸教室に通ってた頃の作品です。



自分より明らかにセンスがあります・・・。
手先が器用なお父さんとお母さんのDNAをばっちり受け継いでるんでしょうね。

またいつか陶芸をできる日が訪れますように・・・。

嵐の結婚式となりました・・・。

2012年05月08日 | 過去日記(土地購入まで)
プロポーズした翌年の9月に、私達はレストランウエディングの「マリーゴールド」
で結婚式を挙げました。

なんと結婚したその年は、ノストラダムスの大予言の年、1999年であり、
しかも同時多発テロの日、9月11日だったのです。(実際には結婚した日の
2年後にテロが起ったんですけどね。)
おかげで結婚記念日を忘れずに済んでいます。が、嫁さんは去年の結婚記念日を
忘れていましたけどぉー!!
まぁ結婚して10年以上も経てばこんなもんなんでしょうねぇ~。

結婚式当日は、どしゃぶりの大雨で、式場に行く途中の用水路は、水が溢れて
洪水になっていました・・・。
披露宴での挨拶の言葉は、開口一番「お足元の大変悪い中・・・申し訳ございません。」
とお詫びの言葉から始まったのを今でも憶えています。

しかし私達の結婚式は、手づくり感いっぱいの式でした。
案内状、座席表、ウエディングケーキ、ウェルカムボード、引き出物など
ほどんどの物を自分達で作ってしまったのです。
特に引き出物は大変でしたぁ。なんと陶芸で大皿を作ることにしたのです。
身内中心の式でしたが、割れる分まで想定して70枚程作りました。
出来上がったあと、一枚一枚箱詰めしラッピングまで終わったのが式の1週間前
くらいで、くたくたで式の会場に持ち込んだのを今でも憶えています。

そんなこんなで、3月の結納から9月の結婚式まで、マリッジブルーに陥る暇もなく
嵐のような日々が過ぎ去っていきました。
そして結婚式当日、ほんとの嵐に見舞われました・・・。
(出席していただいた皆様、ほんとにゴメンナサイ。)

しかも結婚式や新婚旅行にかかる費用により、手持ちの資金は底をつき、
土地購入プロジェクトは振り出しに戻ったのでした・・・。

結婚することになりました!

2012年05月01日 | 過去日記(土地購入まで)
自分も27歳(1998年)になり、結婚適齢期を迎えていました。

しかし、半農半Xの生活を目指していたので、結婚はその生活が実現したあとに
同じ想いを持った女性が現れてくれるといいなぁ~と感じていました。

ところがです!
結婚の歯車が一気に回り始めました!!
陶芸仲間の彼女と八代の花火大会を見に行った時に、花火を見ながら
将来の夢を語っている自分がそこにいました。

「自分は今の仕事をずっと続ける気持ちはなく、田舎暮らしをして、そこで
子供を育てたい。」と話したところ、彼女は「そういう生活もいいよね。」と
言ってくれたのです。
「じゃあ、俺と一緒にそういう生活をしてくれる?」
「それってプロポーズ?」
「そうよ。」
ってな感じで、あれよあれよで結婚することになりました。

今思うと、ふたりともあまりにも簡単に結婚を決めてしまったのかもしれません。

そのツケが、数年後に返ってくるとは・・・。

自分の天職って、陶芸!?

2012年04月26日 | 過去日記(土地購入まで)
一時期、将来陶芸家になろうと本気で考えていました。

陶芸教室で土を触っている時間がとても心地よく、ストレス解消にもなっていました。
しかも自分で作った湯のみや茶碗を実際に食事で使うことができることも楽しみに
なり、完全にはまってしまいました。

自分の性格は単細胞なので、「もしかしたら、自分の天職は陶芸家かも?」と
またまた勝手に確信している自分がそこにいました。

そして陶芸の先生に、図々しくも「弟子にしてください。」と頼んでいる自分が
そこにいましした。

しかし、先生はひと言「やめといたがいいよ。」と・・・。

思い込みの天職は、あっけなく散り去ってしまいました・・・。



運命の本と出合ってしまいました!

2012年04月20日 | 過去日記(土地購入まで)
運命の風景と出合って以来、阿蘇方面の売地の広告を見つけては、
休みの日に実際に見に行ったりしました。

当時は、大分との県境くらいの物件が多く出ていました。実際に見に行った所は、
小高い山の頂上あたりで、360度見渡せる絶景の場所ではありましたが、
現実問題として実際に住むには相当覚悟が必要なところでした。

物件探しに苦労していたある日、本屋で特に目的もなく立ち読みをしていた時に、
運命の本に出合ってしまったのです!!

東京で暮らしていた時に、「自分で食べる分は自分で作らんといかんな。」と
感じると同時に「現金収入を得るための"手に職"もつけんといかんな。」と
感じていたことが、なんとその本に書いてあったのです!!

その本のタイトルは「半農半Xという生き方」というものでした。
最初その本を見た時、農は農業のことかなと思いましたが、X(エックス)って
???でした。

しかしその本には、「半農半Xとは、持続可能な農ある小さな暮らしをしつつ、
天の才(個性や能力、特技)を社会のために活かし、天職(=X)を行う生き方
、暮らし方である。」と書いてあったのです。

まさしくそれは、東京で暮らしていた頃に感じていたことそのものでした。
実際に半農半Xを実践している人がいることを知り、「自分がやろうとしていることは
間違っていないんだ!」と確信したのでした。

それ以来、将来の目標がはっきりし、自分の身体の中に一本芯が通ったのを感じました。

そして、土地探しと同時に自分のX(天職)探しも始まったのでした。


運命の風景と出合ってしまいました!!

2012年04月13日 | 過去日記(土地購入まで)
陶芸教室に通い始めたある日、陶芸仲間4人で南阿蘇村(当時は久木野村と
いっていました)の「そば道場」に行くことになりました。

その道場では、実際にそばを打たせてもらって、それを食べることができました。
悪戦苦闘しながらもなんとか出来上がり、前面ガラス張りのところで食べることに
なりました。
そのとき!運命の風景と出合ってしまったのです!!


ガラスの向こうには、南阿蘇の雄大な風景が広がっていました。
その風景に人目惚れし、「いつか自分はここに住むことになるな。」と
勝手に確信してしまいました。

その日以来、「田舎暮らしっていいなぁ。」から「よし、土地を探すぞぉー。
に気持ちが変化していきました。

しかし、この土地に出合うまで、10年以上かかるとは・・・。

運命の人と出会ってしまいました!!

2012年04月13日 | 過去日記(土地購入まで)
熊本に転勤になった最初の出勤の日、緊張でドキドキしながら
部屋に入ると、入り口のところで最初にあいさつしてくれたのが、
なんと今の嫁さんでした。

「えらいきれいかね~。」というのが第一印象でしたが、同時に
気が強そうで、簡単に人を寄せ付けないオーラを放っていました。
それが結婚することになるとは・・・。ほんと人生は何が起こるか分かりません。

職場の飲み方(熊本では、飲み会のことを「のみかた」といいます)で
話す機会があった時に、自分が陶芸に興味があって教室に通ってみたいような
ことを話したところ、彼女も乗ってきたので、西原村の陶芸教室に通うことに
なりました。でも2人ではなく彼女の友達を含めた4人で・・・。
(お友達のお二人ゴメンナサイ)

やはり人を寄せ付けない、ガードの固い彼女でありました・・・。

その時26歳の頃でした。

やっと、やっと熊本に転勤できました~。

2012年04月10日 | 過去日記(土地購入まで)
当時、故郷の熊本では、父親が闘病生活を続けていました。
働いている時から肝臓が悪く、退職後は病院通いが趣味のようになっていました。

自分は3人姉弟の末っ子ということもあり、いずれは熊本に帰らなければいけない
状況でしたので、職場へは転勤希望を毎年出していました。

自分自身にとっても、東京での生活を経験したことにより、自然豊かな熊本の良さ
を痛感していたので、早く帰りたいと思っていました。

しかし、現実は甘くありませんでした。東京は地方から上京してきた人が多く、
転勤希望を出し続けても「君みたいな状況の人はたくさんいるから。」とほとんど
相手にしてもらえませんでした。

そうこうしているうちに父親の容態はどんどん悪くなり、平成9年の春に、
第2の人生を楽しむこともなく、64歳の若さでこの世を去ってしまいました。
今思い返しても、自分の子供の顔を見せることが出来なかったのが残念でなりません。

父親の死後、実家では母親が一人で暮らしていましたので、仕事を辞めてでも熊本に
帰らなければならないと上司に相談したところ、一気に人事が動いて、その年の夏に
熊本に転勤できることになりました。

「親父、俺を熊本に帰してくれてありがとう・・・。」






「田舎暮らし」っていいなぁ~。

2012年04月08日 | 過去日記(土地購入まで)
「田舎暮らしっていいなぁ~。」と思い始めてから
この土地に出合うまで約16年かかってしまいました。

これまでの「山あり谷あり底ありの人生」をお話したいと思います。

自分は、熊本生まれの熊本育ちですが、高校を卒業してから約9年間
東京で暮らしていました。まさにそこは「東京砂漠」でした。
特に就職後の日々は、毎日疲れ果てて帰るような日が続きました。
終電で帰れればいいほうで、日によってはタクシーで帰ったり、
ひどい時には1時間以上かけて歩いて帰る日もありました。

所属の部署も国際部というところで、文字通り英語はもちろん
フランス語も飛び交うような職場でした。
自分も一応、語学系の学校を卒業しているももの、全く太刀打ち
できるレベルではなく、4人いる係の中で、自分以外が全員
東大卒という恐ろしい職場環境でした。

そうした日々を過ごしている時に、異常気象によるものだったと
思いますが、コメが大不作だった年がありました。海外からコメ
を輸入しなければならず、タイ米を食べた記憶がある方も多いと
思います。

その時に、「日本って、もろい国なんだなぁ。」と痛切に感じました。
経済大国だと偉そうにしていても、ひとたび食料危機が起これば、
食料自給率の低い日本は一瞬にして破綻してしまうんだと思い知ら
されました。

「そんな時代で最後に残るのは農家だなぁ。」、
「こりゃ~自分で食べる分は、自分で作らんといかんな。」と感じ、
その頃から「田舎暮らしっていいなぁ。」と感じ始めました。

その時24歳くらいの頃でした。