今から四半世紀も以前のことになりますが、1990年に刊行されベストセラーとなったノンフィクション作品(書籍)に、山崎章郎氏による『病院で死ぬということ』があります。
後に市川準監督によって映画化され、1993年のキネマ旬報ベストテンで第3位になるなど、こちらも大きな話題を呼びました。
当時、現役の医師であった著者は、数多くの末期ガンの患者たちの闘病と死に立ち合う中で、一般の病院は人が死んでゆくにふさわしい所だろうかとの疑問を抱くようになりました。医療の判断に任せるのではなく、自分自身の意思と選択で決める「自分の死」迎えるにはどうしたらいいのか。
人間らしい、おだやかな時間と環境の中で生き、そして最期を迎えるためにできること。死にゆく人と向き合う葛藤の中で、日本が終末期医療の在り方や緩和ケア、ホスピスなどを紹介し、後の社会にも大きなエポックをもたらした作品です。
実際、厚生労働省の統計によれば、第2次大戦以前の日本では、ほとんどの人が自宅で亡くなっていました。しかし、戦後間もない1950年代から急ピッチで病院で亡くなる方の割合が増え続け、1976年には初めて自宅死亡率を初めて上回るに至ります。さらに、この本が発売された1990年代以降もその増加傾向は続き、2005年には実に82.4%に達しているということです。
一方、先進各国における病院死の状況を見ると、フランスで58.1%、スウェーデンで42.0%、イギリス54.0%、アメリカ56.0%とされており、中にはオランダのように35.5%とその割合が3分の1程度の国も見られます。
日本で病院死が多い理由としては、核家族化が進むなどの家族形態の変化に加え、面倒な自宅死を避けたいとか、家族の死への責任を逃れたいと思う家族関係の変化があるでしょう。さらには、国民皆保険制度をベースとした医療サービスへの依存度の高まりなども、要因として挙げられるかもしれません。
しかし、高齢者が爆発的に増え、特に独居高齢者の比率が大きく高まることが社会問題化すると考えられている今後の日本において、病院以外の場所(例えば自宅など)で死ぬというのはそれほど現実的で、幸せなものなのでしょうか。また、「病院で死ぬ」という逝き方は、人生の最期を迎える老人にとって(現在も)それほど不幸なものなのか。
7月28日のニュースサイト「ダ・ヴィンチニュース」では、ライターの清水銀嶺(しみず・ぎんれい)氏が、「病院だからこそできる終末期の医療」と題する興味深いレポートを寄せています。
今から8年後の2025年には、約800万人いるとされる1947年~49年生まれの団塊の世代が後期高齢者(75歳以上)となり、社会保障の費用の急増による財政バランスの崩壊が懸念されています。
「2025年問題」として広く知られているように、(8年後には)現在でも慢性的な人材不足を解決できないまま医療施設はもちろん介護施設も足りなくなる事態が予測されています。
そうなると、家族が介護をするために離職を余儀なくされ、状況によっては貧困に陥るケースも考えられる。在宅での介護も介護施設への入所も難しい場合の第三の選択肢として、(いわゆる「療養病床」のような)療養的な機能を持った病院で人生の最期を迎えるケースも増えてくるだろうと、清水氏はこのレポートに記しています。
ここで言う「療養病床」は、手術や高度医療機器を使用した積極的な治療は行なわずに、投薬や検査など一般的なリハビリを行なう長期療養機能を持つ病院(病床)を指す言葉ですが、高齢化に伴う医療費高騰の要因となっているとして、本年度をもって廃止されることが既に決定されています。
しかし、現実は、急性期病院では国が定める診療報酬の関係で90日以内の退院を求められ、その後に国が認める回復機能を持つ病床へ移ったとしても、(そこはあくまで介護施設へ入所したり在宅に向けて準備を行なったりする場所で)最長でも180日までしか入院できない決まりです。
一方、患者さんの身体機能が一人では生活できないほどだと受け入れてもらえる施設は高額な費用を要する所が多く、さりとて、リーズナブルな料金で面倒を見てくれる特別養護老人ホームとなると空きが少ないというのが現状です。
結局、療養を伴う(医療の必要のある)患者のその後の受け入れ先としては、「介護老人保健施設」などが想定されているようでが、そうした施設も充足している状況にあるという訳ではありません。
さて、内閣府は「高齢者白書(2012)」の作成に当たり、55歳以上の人を対象にしたアンケート調査で「治る見込みがない病気になった場合、どこで最期を迎えたいか」について聞いたところ、「自宅」が54.6%で最も多く、「病院などの医療施設」が26.4%に過ぎなかったとしています。
厚生労働省ではしばしばこの数字を引き合いに出し、「だから、高齢者は自宅で療養し、介護を受け、自宅で看取られるのが幸せなのだ」として、(病院や施設に比べて公費負担の少ない)在宅による療養や介護に誘導する政策の根拠としています。
しかしその一方で、在宅介護が家庭生活に与えるコストや負担は依然として極めて大きく、生活に身近な場への介護施設の整備も思うように進んでいない現状もあります。
老々介護の状況の拡大が不安視される中、自宅での介護や療養にかかる家族の負担は、今後ますます大きくなっていくことでしょう。例えば、身体の動かない夫の面倒を見るのが年老いた妻であるとすれば、夫が逝った後の妻の療養や介護は誰が面倒を見るのかといった問題もあります。
子どもには迷惑をかけたくないとする高齢者が増える中、できれば医療の環境の整った病院で、安心して最期の時を迎えたいと考える人が多かったとしても、それは当然と言えば当然です。
必要な人に必要な時、必要なだけの医療を的確に提供するためには、一カ所に集まってもらったほうが効率がいいのは言うまでもありません。
そのように考えていった時、「医療の専門家が常に見守ってくれている環境だからこそできるサポートがあるのなら、病院で亡くなるのは決して悪いことではないのかもしれない」とこのレポートを結ぶ清水氏の意見も、ますます重みを増してくるのではないかと思います。
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