つれづれなるまま(小浜正子ブログ)

カリフォルニアから東京に戻り、「カリフォルニアへたれ日記」を改称しました。

中国風信21 寧波の旅(『粉体技術』8-6, 2016.6より転載)

2017-09-18 00:50:11 | 日記
 春の出張の際、上海を起点に浙江省南部の沿海都市である寧波・温州の調査に足を延ばした。短い訪問だったが、大変印象深い街だった。まず、寧波の様子から。
 寧波は、上海の少し南、浙江省の沿海都市である。古くは宋代以来ながく日本との貿易拠点で、アヘン戦争後、上海などとともに最初に欧米に対して開かれた都市のひとつでもある。山がちの土地からは多くの人が出稼ぎに出て、20世紀前半には上海にたくさんの移民を出し、当時の上海財閥の主流は寧波商人だった。
 私は寧波は25年ぶりで、前回、改革開放の初期に訪れた時には、中心部にも高層ビルなどほとんどない古びた雰囲気の街だった。清代の蔵書楼である天一閣で文化的伝統を感じたり、郊外にある蔣介石の故郷・渓口で風光明媚な山間の景色を楽しんだりした。
 25年ぶりの今回は、上海から高速鉄道で二時間で、ずいぶん簡単に行けるようになった。寧波の街は、北からくる余姚江と南からくる奉化江が合流して甬江となって東海に向かう地点を中心に発達している。合流点は三江口と呼ばれ、昔も今も街の中心だ。西側は以前は城壁で囲まれた古い県城で、旧城内には天一閣や土地の神様を祭る城隍廟、時を知らせた鼓楼などがあり、城外の江に臨んで金融業者のギルド・ホールであった銭業会館がある。江を挟んだ東側には、商船業者の慶安会館があり、近代以前は両者が寧波の経済を握って世界に絹や陶磁器などの江南の商品を送り出していた。余姚江と甬江に挟まれた北側は、近代の対欧米開港後に外国人居住区として作られた租界があったところで、老外灘と呼ばれる川岸は、今も夜遅くまで若者が集まるにぎやかな場所になっている。現在、三江口のあたりは高層ビルの林立する経済・金融の中心地で、歴史上何度目かの寧波の発展を象徴する場所になっている。
 以上のような寧波の街の構造を上海と似ている、と思われる読者もあるだろうが、寧波人に言わせると、上海の方が寧波に似て発達したのだ、ということになるのだろう。
 春の温かい時期で、街のあちこちでは桜がきれいに咲いていた。1970年代の日本との国交回復後の日中友好ブームの頃に植えた樹が、根付いて花をつけているのだ。
 銭業会館の近くにある寧波教育博物館という小さな博物館を参観した。1844年にキリスト教の宣教師によって開校された中国で初めての女学校・甬江女中の建物を改造したこの博物館は、充実した展示がこの地域の文化の伝統を伝える場所だ。昨年、大村智博士とともにノーベル医学賞を受賞した屠呦呦(Tu Yaoyao)博士も寧波の出身だということで、専用コーナーで展示があった。彼女はこの地域の上層家庭で育った人で、活躍の背景には地域の文化的伝統があることがわかる。蔣介石も地元出身の著名な人士として紹介されていた。寧波では、中国共産党のライバルであった国民政府総統の蔣介石の評価は必ずしも悪いものではないようだ。
 寧波や温州など浙江省南部はキリスト教の根づいた土地で、立派な教会があちこちで目につく。大都市の目立つ場所だけでなく、山間部でも、村はずれに寺廟だけでなく教会が建っていることも多い。聞き取りをした老人も、さりげなくカトリックだったりして、「この辺はアヘン戦争以前からキリスト教の広まっていた土地だから」という。人民共和国成立前には、貧しい子供が通える学校は、無料の教会付属のものだけだった。しかし現在の教会は、ほとんどが改革開放後に新たに建てたものだという。

三江口の風景

中国風信22 温州への旅ー永嘉学派の故郷を訪ねて(『粉体技術』8-8,2016.8より転載)

2017-09-18 00:22:45 | 日記
 前回の寧波に続いて、この春に訪ねた浙江省南部の沿海都市・温州(ウェンチョウ)と近郊の様子を紹介しよう。 温州は、浙江省の最南部、福建省に近い瓯江 (オウジアン)の 河口にある人口300万人の大都会で、上海から高速鉄道で3時間、寧波からなら1時間で着く。浙江 省南部から福建にかけては、平地が少なく山がちで、古くから人々は外へ出かけて生計を立て、たくましい温州商人が育ってきた。たしかに高速鉄道の駅から古い温州駅前のホテルまでの道にも、両側から山の迫る場所もあり、土地は狭い。
 温州というと、がめつい商売をする温州商人の イメージがまず思い浮かぶ。少し前には、不動産 売買に進出し、中国各地でマンションを買い漁っては転売して巨利を手にする温州商人が名をとどろかせた。一方、歴史家にとっては、宋代に理財の学を集大成した永嘉(えいか)学派の拠点として、温州は文化の蓄積の厚い土地という印象がある。
 最初の日は、温州図書館で資料調査をした。図 書館は、7階建てでの新しいビルで、私達の目指す地方文献部は最上階でひっそりと専門家を待っていた。ここの地方文献部は、浙江省温州地域の地方志などを集めているが、それらは水準が高いものが多く、コレクションは充実していた。
 翌日は、温州市の北方、永嘉(ヨンジア)県の碧蓮(ピーリェン)鎮へインタビューに出かけた。永嘉県政府のある街は、温州から車で一時間弱の山間にある。片側4車線の広い道路や10階建てはあろうかと思われる堂々たる県政府ビルは、県下の人口が100万人を超えることを考えれば、納得である。さらに山間の道を一時間あまり行くと、目指す碧蓮鎮に着いた。ぽかぽかと暖かい春の日だったことも手伝ってか、町のたたずまいは、大変明るくて楽し気だ。ここに住む93歳の元教員を訪ねたのだ。

温州地区永嘉県碧蓮鎮の街なみ


 インタビュー場所は彼の自宅近くの八角亭という路地脇のあずまやだった。ふだんは地域の老人たちの集まる場所になっているようで、麻雀牌やトランプや蝋燭の並んだ祭壇などが置かれている。 インタビューしていると近所の年配の人々も集 まってきて、記憶が曖昧なところを補ってくれた。彼の子供たちはみな外へ出て、老夫婦の二人暮らしだが、近所の人たちに囲まれて落ち着いた晩年を送っているようだ。印象的だったのは、中華人民共和国成立後、もっとも大変だったことは何か、という問いへの、1958~60年の大飢饉の時期に食べ物がなかったことだ、という答えで、同じ話は他の人からも聞いた。この山間の町では、働き盛りの人たちの多くは外へ出て、他にも老人ばかりの「空の巣」の家庭は多そうだが、多くは豊かになった現在の暮らしに満足しているように見えた。
 聞き取りを終わって、アレンジをしてくれたXさんが、このあたりは風景が素晴らしいから、駆け足でも見ていけ、といって楠溪江(ナンシージアン)の風致地区に車を走らせてくれた。50元の入場料と書いてあるが、Xさんは「昔はタダで見ていたのに、去年から金をとるようになった。でも地元民だから構わない」と知り合いの管理人に話をつけてくれて、無料で入ることができた。アメリカのヨセミテ公 園を思わせる奇岩が屹立し、間を滝が落ちる風景は絶景だ。山や深い緑の渓谷に、菜の花や桃の花が映えて美しい。中国の観光地によくあるごみごみした感じのしない、再訪したくなる場所だった。 温州の人たちが都会から逃れて週末にやってくる 観光地として、現在、開発が進んでいるという。 生活の質を追求するようになった中国の富裕層を ターゲットにした観光開発は、各地で進められているが、豊かな温州商人の故郷では、他に先駆けて質の追求がなされているようだ。

永嘉県の楠溪江風致地区

中国風信23 歩平先生の逝去を悼むー日中の歴史認識の相互理解を求めて(『粉体技術』8-10, 2016.10より転載)

2017-09-18 00:13:54 | 日記
 今年(2016年)の終戦記念の日、歩平先生が前日8月14日に亡くなったというニュースに接した。中国社会科学院近代史研究所の所長であった歩平先生は、一般にはなじみが薄いかもしれないが、私たち歴史研究者の間では知られた人だ。日中関係史を専門とし、日中戦争をめぐる歴史認識についての両国間の相互理解を深めるべく、大きな力を注いでこられた。ご逝去は本当に残念である。
 歩平先生に初めてお会いしたのは、2001年に新潟で開かれた「東北アジア歴史像の共有を求めてⅡ」シンポジウムだったと記憶する。当時、黒竜江省社会科学院におられた先生は、「21世紀に向けての日中関係と歴史認識」という報告の中で、自身の“相互理解”に関する経験を話された。
 1948年生まれの歩平先生は、日本軍による重慶大空襲で親しい友人を亡くした父の話など、子供のころから日本が中国を侵略した残酷さを聞いて育ち、“日本の鬼”のイメージを強く持っていた。
 1986年に初めて日本を訪れた時、日本各地に広島や長崎の原爆被害を追悼する施設があるのを見て、鬼のような人々がなぜそのように自分の被害を強調するのかわからず、中国人として感情の上で受け入れにくかった。1994年に広島の原爆資料館を見学した時、絶対多数の被害者が直接戦争に参加していない女性や子供であることを知り、彼らが血まみれになって廃墟の中をもがいている姿に震撼した。とくに印象深かったのは、被爆した学生が遺した黒く焼け焦げた弁当箱で、天真爛漫に通学路を歩いていた子供たちが見えるように感じた。また、瀬戸内の大久野島の旅館で、かつて広島の被爆者の救護活動に参加した友人から当時の人々の苦難を聞き、戦争と平和の問題を明け方まで飲みつつ話した。その時から、日本各地で被爆者が追悼される理由がわかりはじめ、自分も手を合わせて追悼の念を表すようになった。
 日本人の戦争での被害について、多くの中国人はそれを知らず、自分も原爆資料館を見学したり多くの日本人と交流したりしなかったら、日本国民の戦争被害の感情を理解できなかったろう。
 同様に多くの日本人は、中国人の戦争における被害を深く理解することはできないし、中国人の戦争の被害者としての認識や感情がわからない。中国人と日本人は異なる社会環境になって、互いの歴史認識に大きな相違がある。この意味で、重要なことは相互理解である、と。
 大柄な先生が、訥々とした日本語で、ゆっくりと話されたこの報告に、私は強い印象を受けた。その後、2004年に歩平先生は北京の社会科学院に移って近代史研究所長の要職に就かれた。2006年、安倍総理と胡錦濤主席との会談で日中歴史共同研究の開始が合意され、その年の暮れに共同研究はスタートする。中国側委員会の座長は歩平先生で、その学識と人柄から、日中間の歴史認識の溝の縮小をめざすこの仕事に、もっともふさわしい人選だと思えた。
 日中歴史共同研究委員会は、三年の間、時に厳しく対立しながらも精力的に会合を重ねて意見を交換し、2010年1月に報告書を提出し、2014年に公刊されている。それによると、共同研究は終始真剣、率直で友好的雰囲気の中で進められ、両国の研究者は、学術的かつ冷静、客観的に討論し、討論や論争を進める中で相互理解を深めて、「たとえ相手の意見に賛成できなくとも、相手がそう考えるのはある程度理解できる」という学術研究領域の段階に達した。この意味で日中歴史共同研究は大きな成功をおさめ、今後の日中の相互理解の促進に建設的な意義があった、という。
歩平先生が、「私の名前は、ほ・へいと言います。ほは歩く、へいは兵隊の兵ではなくて、平和の平です」とおっしゃっていたの思い出す。謹んでご冥福をお祈りしたい。

【北岡伸一・歩平編『「日中歴史共同研究」報告書1・2』

中国風信24 中国で女性であるということー現代中国のジェンダー・ポリティクス(『粉体技術』8-12, 2016.12より転載)

2017-09-18 00:02:19 | 日記
 今回は、私たちのグループが最近刊行した『現代中国のジェンダー・ポリティクス-格差・性売買・「慰安婦」』(小浜正子・秋山洋子編、勉誠出版、2016年10月)という本から、中国のジェンダー研究者の最前線の議論を紹介しよう。近代以来、日本や西欧とは異なった歴史を歩んできた中国では、男らしさと女らしさの捉えられ方も、独自の変遷を辿ってきた。
 中国の近代の幕開けの時期、中国の男性知識人は、女権の実現は近代文明の指標であり、中国の富国強兵の前提条件だと考えた。男尊女卑の伝統社会で苦渋をなめてきた女性たちは、「一人の人間」としての権利を求め、男性と同じように社会で活動しようとした。
 中華人民共和国は、女性解放・男女平等を国是として掲げ、社会主義によってそれは達成されるとして女性の社会進出を進めた。ミシガン大学の王政教授は、近代以来求められてきた男性を基準とした(女性が男性並みになることによる)男女平等が極点に達したのは、毛沢東の「時代は変わった。男も女も同じだ。男の同志にできることは、女の同志にもできる」という言葉が流布した文化大革命の時期であるとする。女らしい服装は批判されてユニセックスの人民服をみなが着用し、高圧電線での作業など男性の職域とされた仕事に取り組む女性が「鉄の娘」ともてはやされた。このような社会主義中国の男女平等は、女性の地位を大きく向上させたが、一方で、家事などは相変わらず主に女性が担い続けるという二重負担(ダブル・バーデン)を伴うものでもあった。(毛沢東は「女にできることは男にもできる」とは言わなかったのだ。)
 1980年代から改革開放の時代が始まって、抑圧されていた個性や自由の追求が始まった。男女ともにファッションは多様化し、化粧やスカートも広まって、おおっぴらに女らしさも表現されるようになった。
 しかし自由の拡大は、社会主義が達成した平等を掘り崩した。経済的な格差が広がり、都市と農村の格差だけでなく男女の格差も広がった。社会主義時代、男性と大きくは変わらなかった女性の就業率も収入も、現在ではかなり差が開いていることを、南京師範大学金陵女子学院の金一虹教授は詳細に明らかにしている。(とはいえ、日本の男女格差は世界でも際だっているので、日本に比べれば差は少ない。)
 しかも、自由な市場の発達は、社会主義時代には存在しなかったセックス・マーケットの出現と成長をももたらした。現在の中国都市には、華やかなショーに登場するタレントもどきの高級娼婦から、出稼ぎ労働者が消費する下級売春婦まで、多様なセックス市場が存在している。中国人民大学の宋少鵬教授は、現代中国の権勢のある男性の男らしさは、性的な消費を含む男性としての気概として求められるようになり、一方、出稼ぎ労働者は性的な欠乏からセックス・マーケットを求めるという。前者は、高位の政治家が愛人を囲うのがおきまりの腐敗のコースとなったのはなぜかを説明もしている。中国社会が、改革開放時代に新たなジェンダー秩序を構築する-すなわち男らしさ、女らしさを定義し直す-プロセスは、まず新たなセックス化として実現し、男性間の格差の拡大と女性の収入の低下が多様なセックス・マーケットを発展させたのである。
 以上のような改革開放の進展する現代中国の男らしさと女らしさのあり方は、非常に市場化・商業化されたもので、それは社会主義時代の反動という側面も少なくない。単純にどちらがよいとはいえない変化の様子には、どのような男女のあり方が理想なのか、考えさせられるものがある。