五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊本城 城彩苑公開記念講演から

2011-03-06 05:04:42 | 熊本城を散策する
熊本城、城彩苑が今日から公開された。それを祝してだろう歴史記念記念講演が行われたので応募しておいた処今日の分と19日の北野教授の分2件だけ当たった。
希望者がそれほどまでに多かったかのか、市政だよりに載っていたので希望者も多いのだろう。以下にその概略を述べてみる。90分の講演をメモしたものをそのまま転載した。ここに掲げるのは講演者、松本寿三郎(としお)氏で演題は「清正の肥後支配」であった。

明治40年頃に書かれた「清正伝」とか「加藤清正口伝」を加藤清正の肥後支配を伝えていた。清正の死後50年位して書かれた最初のものである。江戸時代には仁書物語があった。
しかし近頃は一等史料から真実の姿をもとめている。それは小西行永伝は手紙を収集、また細川幽斉に関する手紙を収集して、その他清正400年祭を記念して清正と本妙寺展で研究が進んだ
これらは平成22年10月自分が収集したもので報告している。肥後の経営は
それでは肥後の経営はどうなっていたのか?細川が肥後に入国したときには殆ど出来上がっていた。清正が基礎を作っていたものを細川は部分的に広げていった。
それではそれ以前の肥後はどうなっていたのか、戦国時代は国司の菊池一族と阿蘇一族を中心として島津、大友、龍造寺等が勢力を競い合い肥後はその草刈り場になっていた。戦いに勝つた方は住民を連れて行き奴隷として使役した。殺したものは耳だけを鼻だけを切り取った。耳塚、鼻塚はその名残である。このことは宣教師の記録に載っている。そのため村に住民がいなくなると村は空虚になってくる。ここに登場するのは大名である。大名は住民の生活を守ることが第一義である。国衆一揆の例で山鹿の上村城の戦いでは百姓は皆奴隷にされている・・国内に置いてはどの国も大同小異であった。秀吉の統一から安心して生活出来るように即清正の時が肥後の始まりであった。
秀吉は佐々成政を配置する。天正15年島津、大友に攻められ秀吉に援軍を頼む。島津は秀吉に従わない。・・秀吉の島津征伐、島津の降伏・・大名の配置を始める
戦国大名は自分で平定した土地であるので自分の領地である。
戦国大名と近世大名
これに対し家臣に任命され派遣された大名が近世大名である。九州は遠距離であったからか、島津、大村、宗、立花等々は今までの領地を安堵されている。近世大名は植木鉢大名である。人民はそこに居る。大名と家臣団は動く、肥後に於いては国衆一揆が起こって佐々は領土の召し上げ家臣団は浪人になる。
そして慶長16年(1588)清正19万5千石と行永14万5千石が与えられた。この時太閤検地が行われ一反が300歩の制度が作られ一間の長さが指示されている。
全国検地の史料は鹿児島の尚古集成館に残されている。それによると肥後国を測量し石高は52万石で、これは肥後52万と豊後街道沿い九重と国崎で郷村帳を作成しているが、加藤195,00石、小西145,000石後の部分は直轄にしていたようである。天草と球磨は他の管理、清正の城は古城に本拠を定める。20万石では家臣は150人~1000人必要,・・19万5千石では800人必要、清正は7~800名を必要としていた。家臣を集めて経営していた、所謂社長である。早速に朝鮮出兵一万人を出している。これは必要とする人数である。
専門の武士は800~1000人であるが、清正は編成には苦労したようである。さやかに逃亡した者戦争しても難しい状態であった。
創建の時代には新大名は新城を作る。自分の城を造る。このためには年貢を集める食糧、苦労がある。人々が従うにはどうすればよいか、社長の力量が問われる。支配者は実直で律儀で肥後の国を支配する異色への参加である。代々の大名とは違う。家臣団の中心は支配者との友達であった。領内の把握は国衆一揆の次の有力者であった。
天正16年の定書の中に「百姓を村に帰して生産に従事することを保証する」「領民を勝手に使うことを禁止する」「公明正大に北里氏に通知を出している」「村の有力者は勝手に年後は採らないこと」清正は朝鮮に於いてもこのことを実践している。農民は突出している。近世大名は私意的には行動を取らないこと。100石に5人は秀吉の政策で後では4人減らしている。
20万石で1万人・14万石で7千人の郡役が必要である。秀吉は前述の郷村帳を作っている。家康の慶長10年の帳簿が残っている国絵図では全国を把握している。
熊本城の築城天正19年に細工町の史料、図面一町内の図面がある。古町、万町等・・道幅2間天正19年同じ業種を集めて新町を作る。米屋町、細工町、魚屋町、桶屋町、鍛冶屋町、利潤の追求して熊本城の築城へ、海外渡航朱印帳で貿易にこれは幕府の許可を受けて行った。貿易の例としては小川の商人が台湾総督と争ったり、アンコールワットに落書きした森本右近太夫の例がある。貿易の利潤で築城していた・・。しかし寛永14年には鎖国が行われている。
慶長5年(1600)家康と光成の間で関ヶ原の戦いが行われた。清正は東軍、光成は西軍であった。九州での東軍側は加藤、黒田、位で大友、島津、鍋島、立花、小西は西軍に組みした。
結果は家康の勝利で清正は一国支配で20万国から54万石の大大名へ、
太閤検地の結果慶長国絵図と郷村町を作成した。将軍になると日本全土を支配する。縦横4メーターくらいに残してある。この中で特徴は1605年頃で部分的には異なっているところもあるが、米良氏の領地が肥後藩に含まれている。人吉藩の領地は湯前の先までである。領主米良氏は菊地一族の出である。米良が宮崎県に含まれたのは昭和五年のことである。米良の地は山、森林で産業はなかった。
一国支配になると検地を行う。二〇年を経過すると検地をやり直す。飽田郡、託麻郡の検地、天明新田の開発等々と時代と共に発展し、結果・慶長総国検地が行われ肥後は実績当高75万石から95万石あったようでこのことは細川幽斎と忠利の手紙から伺える。
幕府は太閤検地を重視し、加藤が秀吉から貰ったときの石高を貰う。業高54万石で老中の名前で公文している・・・肥後52万石と豊後2万石を併せて54万石、あとの20万石は無役高でありこのことは細川の公式記録にもない。
幕府の立場としては今までの大名の席次が狂うことで江戸城に於ける座席の序列にも影響を及ぼすので、郡役高54万石、無役高を20万石として処理していた。
治水、干拓、茶床、鍛冶床、里山のこと、郷山等ははすべて無役高である。
藩の石高には入っていない。