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宇土櫓と武者返し石垣
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大天守と小天守
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熊本城の石垣
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坪井川長塀
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暗がり通路
熊本城の城彩苑公開記念講演会として先の松本寿三郎氏の講演と北野隆氏の講演会の参加が当たったので19日の土曜日には北野氏の講演を聴きに行った、演題は熊本城の特徴と言うことで以下にメモしたものを啓上する。
大天守,小天守、宇土櫓の建築の変遷について
清正が築城した熊本城は、櫓がおおいそれも高い櫓が非常に多い、瓦に慶長4年8月吉日の刻印がある物が多い,平瓦、丸瓦、・・・これはふつう朝鮮瓦と言うが、熊本城は慶長6年(1601)~慶長12年(1607)に完成したと言われているが先の朝鮮瓦にわ瓦に慶長4年8月吉日の刻印がある物が多いので既に慶長4年には築城にかかっていると思われる。
お城の建築の土木工事は普請方であるが建築工事は作事方である。これらは滴水瓦と言われこの時代の瓦の文様は加藤家の家紋である。
慶長5年に清正の女山の普請という記録がいる。森山氏の説によれば、女山は現在の第一高校あたりのあたりの地かと思われこれ石垣の普請と言うことである。女山は元の城にて清正は男山にかけて縄張りを巡らし、その後男山と一緒にして、宇土櫓の所を女山、大天守のあった方を男山と考えた方がいいようである。この時代はまだ清正は小西との間で肥後の半分づつをを領していた、いわゆる半国領主の時で、慶長3年から宇土櫓を加えた全体特に一国領主になってから男山を加えた全体を含めたものをいう様になったと考える方がよかろう。
大天守だけの図面は山口公立文書館の図面あって、この時代までは藩主の城は本城と支城があって、肥後では元和元年の一国一城令が出てから支城である南関城、宇土城、佐敷城、水俣城、矢部城が取り毀しにあっている。全国このような状態でこのため慶長2年から21年にかけて中国地方の支配者毛利元就がどうすればいいかこの対策のため九州地方を探偵させている。この探偵者は京町の籐兵衛宅に泊まって熊本城の図面を写したものと思われ、この図面から見えることは本来大天守だけで小天守は慶長17年までなかったということである。宇土櫓も天守は小天守だけで小天守はなかった。
九州偵察に来たのは慶長17年であるので、宇土城、水俣城、矢部城などは1612年にわ既に取毀しされている。その時宇土城を持ってきたのが小天守になっているのである。慶長12年に大天守、慶長17年に宇土城を持ってきた。支城は関が原の戦い以後で宇土城は既に加藤の宇土城になっていた。清正の隠居城を作る目的であった。慶長12年頃の小西の城の上に加藤の城を造っている。大天守の建築は慶長12年で小天守の石垣は慶長17年のものである。寛永9年(1632)宇土櫓移転のため幕府に寛永11年に許可願いを出している。宇土櫓の位置が全然違う、宇土櫓が描かれているのは数寄屋丸とおなじ位置で、石垣の所からは向こうの石垣の所に宇土櫓があった。石垣、犬走りから言えることは多分細川の時寛永2年6月11日には熊本には大地震がおそっている。たぶんその時壊れたので修理したのか、この時焔硝倉が暴発して城内の50人が死亡している。
即ち石垣は継ぎ足したもので櫓の隅の所、内側の所と隅のところで模様が違っている。「古外様櫓」と呼ばれ、宇土という名前をあつめ小西の家臣達を城内に集めたものである。此は寛永2年以降から9年以前のことであり、古材を使っている。古材を使ったと思われる平左衛門丸がありこれは三井寺と同時代のものと同じであるので、慶長5年頃の建築と思われる。
宇土櫓も慶長5年くらいであろう。熊本城の天守を作ったという記録は、黒田が薩摩征伐に慶長5年にあり、慶長12年に、清正は大広間について15年に備州から熊本へ絵描きを送っていいと言うようなことを言っている。名古屋城の築城の手伝いに行っている。しかし名古屋城は慶長15年に造られているが清正は既に死亡している。加藤忠広の時代である。そして女山と男山一帯化して隈本を熊本に改名している。
創建の熊本城からみれば復原工事は模写である。模型である。石垣は本物で建物は模型であるとかんがえるべきである。文化財の価値というものは?2様の石垣は加藤の時代と細川の時代である。荻生狙來は「石垣は加藤清正の一流あり、飯田覚兵衛、三宅角左衛門の両角をして石垣の名人・・・と言っている。
熊本城ののり面とそり面、、、武者返しの石垣、穴太衆の「石垣秘伝の書」三井寺と同じで穴太衆は穴太村から穴太石工が各藩のお城築城に参加している。
以上がメモしている主なるものであるが、今日の場合最初の挨拶で新資料を持ってきたと言うことであり内容については意味が良く理解出来なかった。山口文書館の資料についての説明は何時の日であったか聞いたことがあったが、今回はその時より自分の不勉強のためか意味が理解が出来なかった。