五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

もののふの原・・・武夫原のこと

2011-03-24 04:01:02 | 五高の歴史
これは校の西にあり、千代の林をわきいりて、あらしの音も少なくなりぬれば、やがてこの原にいずるなり、ここにて体操を習いければ、かくは名付けたり、春秋の時に従がいて、浅芽生のしげみに、百草の花咲き出づる、目もあやなり先、春の日影の麗らかに、風のどかなる頃は、すみれ花咲く、床のべに、草枕して文みるもよく、夏の夕のたえがたき頃は、千代の林に入りて、物考えるも、心よげなり、しかはあれど、秋もはや夜寒の頃となりまつむし、きりぎりすの声弱り行く、旅のよすがら、衣かりがね、鳴きわたるほどは、いつしか袖の露しげく、思郷の情、とどめがたくやあらん、さて三冬の寒さ時ともなればいよいよ風さえ、霜こおりて満目荒涼の空、木枯らしのさとふきたつよと見れば、やがてあられのたばしる日、ともいわず、この原にうちむれて、身のよろこびも、かろげにきなし、銃をとり、あなみ揃えて、武を演ずる、中々にあはれなれども是ぞ、真のもののふのみさほどというものにて、おほけなくもこの身はゆくゆく、吾がすめらみことの門守なり、外つ国人の侮をふせぐものぞととのただ一すじの志のあつければこそ、その寒さにも堪え忍ばるべけれ、
  一すぢの矢竹こころは玉あられふるとも何にかもののふのはら、はらのすみに弓場もありて、時々ゆづるの音のきこゆる、いといさまし、


        現在の熊大グラウンド

以上は十二境の十一番にある練武場のことでこれが武夫原の起こりであると思われる。場所の位置は当時と同じ所で変わっていない、この広場では明治から大正にかけては五高・七高の対抗野球戦も行われていた。しかし平成50年代に周囲の樹木を取り払い周囲を拡張し陸上競技の為の一周300メーターのトラック、サッカー場、ラグビー場の各一面を整備した。そして夜間照明設備を設置したので、それ以来近代的なグラウンドとして学生の体育授業に、スポーツサークルの練習、運動に利用されている。そのため昔を思い出させるものはなにも残ってはいない。