五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

くまもと歴史文化倶楽部

2011-03-27 03:23:56 | 雑件
第38回くまもと歴史文化倶楽部例会に参加してきた。この会に参加して既に3年になるだろうか、この代表世話人が吉丸良二氏である。吉丸氏については既に紹介したことがあるかと思うが
ここでは「菊池一族の歴史と千本槍・能面」ということで菊池神社宮司坂本杲(あきら)氏の記念講演について記載したい。
坂本氏は昭和20年熊本の大津のお生まれだそうで菊池神社第15代の宮司であり、菊池一族の末頴娃にあたるそうである。講演の内容についてはどうせ話を聴きに行くならと菊池一族や肥後菊池氏関係の読み物を読んで資料を頭に入れて聞いたが特に新しいことはなかった。

菊池一族は平安時代から、室町時代の後半まで約450年にわたり現在の熊本の菊池市を中心として活躍した豪族である。菊池一族が日本の歴史に登場するのは承久の変の時や、特に2度の元寇のときには10代当主菊池武房は、竹崎季長(たけざきすえなが)ととも蒙古襲来絵詞にあるように活躍している。菊池一族は1333年には鎌倉幕府の鎮西探題を攻撃し全員討ち死にしている、しかし1335年には新田貞義とともに箱根で足利尊氏と戦いその戦いで菊池千本槍を編み出している。これは元寇のときに蒙古軍の戦術を参考にしたのではなかろうかという紹介があった。15代当主菊池武光は1359年征西将軍懐良(かねなが)親王を奉じて筑後川の戦いで室町幕府側に勝利している。このようにして菊池一族の九州を中心として活躍している。菊池神社では初代1070年に藤原則隆が菊池の領主に着任して菊池姓を名乗って以来24代1520年守護大名を大友氏(義鑑)に奪われるまでを当主としているそうであり、歴史では26代まで出てくる。

菊池一族は常に天皇家を守っていたようで、南北朝時代には南朝方(後醍醐天皇)を奉じて戦っている。
この故事に習いここでは五高の寮歌、明治39年作成された作詞 文乙 吾妻耕一氏の全寮寮歌をまた五高七不思議の一つの白草原に関する伝説を紹介したい


寮歌 1、それ北韓の白雪に  血潮そめしは何故ぞ  朔北風は寒くして   白草原の月すごく    屍つみしは何故ぞ
   2,正義と道を窓として 活眼を世にそゝがずや 新勝の栄にえいしれて 甘き夢路をくりかえし  よろこびくるう時ならじ
   3~6は省略する
   7,今武夫原の春にして 鬱勃の気はらすべし  覚醒の歌高誦せば   天空高くこだまして   とわのひびきにどよむかな


白草原に関する伝説。
今を去る数百年前、南朝漸く衰えんとする頃、奮起する菊池一族がこの辺りで北朝方を迎え撃ったが、時に利有らずして、幾多の将士は陣没したが、未だ瞑せず、小雨降りしきる夜、ここに佇んで耳をそば立てれば鎧の触れ合う音、雄叫び、呻き声が聞こえると言う。
 
前述した寮歌はそれ北韓の白雪にある、白草原は明治三十四年四月から三十九年三月まで、五高工学部が設置されていた。この寮歌は39年日露戦争後の作だから白草原の名もそれにヒントを得たものであるとおもわれる。
白草原の図面には「器械体操場」と記されているだけである。その後工学部は高等工業として南地区え移転したので、種々の建物は、教室に、支度部屋に、住宅になった。