五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

構内の散歩(黒髪北地区)について

2011-03-07 04:23:40 | 五高の歴史
黒髪北地区に入構した見学者が構内を散策すれば記念碑の多いのに驚かされる。120年の歴史をほこる五高の跡地であると言うことだろう

漱石が明治30年の開校記念日に五高の教員総代として『夫れ教育は建国の基礎にして師弟の和塾は育英の大本たり』と祝辞を述べているが、この文字は記念碑として構内の西側に建っている。これは祝辞としながらも日清戦争後の軽佻を批判した若者に対する格調高い漢文調で語られているこれを始めとしてそれぞれの碑は現代の若者にいや国民に語りかけている。五高記念館の名前が続く限り、武夫原がある限り現代の教育者の心の糧になり続くことであろうと思う。
一方に展示室を眺めれば濁世の波を思い出し、曽て若い青春を散らした五高の校風、質実剛健剛毅木訥の教育精神をも伺い知ることが出来る。

構内にある歴史的記念物を紹介する。重要文化財に指定されている正門(通称赤門)を入りサイン・カーブを通っていると、ラフカジイオ・ハーンの碑とレリーフを左手に見て、右側には竜南健児の像が五高時代の昔を思い出させる。つづいて中門を隔ててこれも重要文化財である五高記念館が見えて来る。このサイン・カーブの両側とも五高時代は植物園であって薬園由来の碑がある。植物園について説明する。「宝暦の改革を行った細川重孝(細川藩六代藩主)は領民が天寿を全うしないで、世を去るものが多いのを哀れんで、その苦悩と不幸を救済せんが為に、宝暦六年に竹部に薬草や薬木を植えて御薬園を創設した。これを「蕃滋園」と称して、薬物の研究や薬の製造を行った。現在の薬園町はその名称の名残である。
薬草園は廃藩置県に伴い、細川家からその栽殖の草木は全て藤井家に下賜された。明治20年の第五高等中学校の設立に際して、中門の左右に植物園が出来たが、それは主として明治二十三年「御薬園」の珍しい草や樹木、150種が保管者であった藤井家の当主歌子未亡人から寄贈されたもので、これが熊大理学部植物園の基礎担っている。今尚五高中門付近ではその往時が偲ばれる樹木が残っている。それでは蕃滋園とは、説明では以下のような文書があった。
田山に近い建部の地に宝暦6年(1756)に開かれた七ケ所の薬草園の一つである中央薬園として経営された。開園当初の薬園は500坪余であったが、天明年間には1485坪余となり隆盛を見ている、藩主の来園も数回かあった、薬園の管理は藤井家が当り外来の薬草、薬木を始め、藩内で集められた種類も数多く植えられていた。明治の廃藩置県で廃園になった。明治6年に作成された「蕃滋園植物目録」には829種が収められている。植物園には漢文教授であった黒本植先生の「栽ゑておくかたみの小松色そへよ学びの園の文の林に」の碑文が刻まれている。ここには第五高等学校跡の碑もある。
こうして記念館に到達するのであるが右側の通路を下れば漱石の像と句碑が建っている。
記念館の右側の建物はこれも重要文化財に指定されている階段教室を持った化学教室であり記念館の裏に廻れば習学寮跡の碑が見られる。
西側のグランドはこれこそ「武夫原頭に草萌えてと」歌われている武夫原運動場である、
南側の体育館の前には講道館柔道の創始者嘉納治五郎の碑が現代の若者を見守っている。曽ての五高の敷地を隅から隅まで散策すれば昔の五高時代の歴史を窺い知れる。
一番北側には昭和6年に天皇の行幸があってこの時の五高の行幸を記念して行幸記念碑が建っている。これらの遺蹟のキャプションを読んでいくだけでも五高の歴史を知る手がかりになるのではなかろうか・・