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龍田山の様子
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龍田山の様子
習学寮十二境記の十に五高の裏にある龍田山の事がある。以下それを転載するがコピーがよく見えないので文書がおかしいところがあることは容赦願いたい。これを表したのは黒本先生で明治31年だそうで今から約110年の昔の龍田山の様子である
さて千人の岡のうえに、は山しげ山のそそりたてるぞ、問いはでも、この山としらるべき、能因法師が歌枕に、黒髪山は、白川の辺にありとやらに掛ける、これなり、今は立田山といえり、泰勝寺という、済家の大刹那のありて細川殿香火の場なりしが、今はあらためて殿の別業となし、そのうちに、祖先の神を祀り給えり、むかし、加藤肥州候のいはいまつり給いし、豊国大明神の社のなどもありて、山路の露ふむわけて登れば、境内にありし石とやらん、苔むして、累々とたてり、うえにつたもみじのたいしげれるに、今は音づるヽものとては草むらの虫の音その麓に拝聖庵などいう名所もありて、由比の正雪が昔をしのぶ、巨岩などもあれどという人はまれなり、いづれも有為転変の世のすがた窓より詠めるやるにもそぞろに悲風の煙嵐蒼芥のうちより来るを覚えるべし、この山を楼ごしにながむるけしき古の人の高どのうえに山のいでしけるを垣のそと行く人の髪をみるがごとし、といいけるに、よくかないて、その名あだかもこの寮のために設け足らんがごとくそのをかいより、雲の朝に帰るもあり、夕にたち出でてゆくもあり、雲にはこころなけれども、見る人に、こころにあれば興味も一入なりけり、
いででいなばあめの下おはヘうば、
玉のくろかみ山のみねのむら雲
今日の龍田山に登れば情景はほとんど変わっていないが、異なるところと言えば龍田山自然公園として熊本市が整備していることであろうか、山路の露をふみわけて登ればというところなどはアスファルトで舗装され付近の人たちの日頃の散歩道路としてまた体育系学生の鍛錬の場として日々利用されている。
参考 泰勝寺跡・妙解寺跡(立田自然公園と北岡自然公園)
泰勝寺は熊本市黒髪四丁目にある細川家菩提寺跡で屋敷、庭園、墓地の部分に分かれ全区域が県指定の史跡となっている。寛永九年(1632)の細川氏入国後、藩主忠利の父忠興(三斎)は八代城に入って小倉に立てた藤孝(幽斎)を祀る泰勝院を八代に移築した。熊本城主となった忠利は寛永14年(1636)立田山山麓に祖父母(藤孝、麝香の方)と母(玉子ガラシャ)を祀る寺を建立した。これに泰勝院(三斎の院号)と名付けた。忠利の死後その子光尚は京都妙心寺の住職大淵和尚を泰勝寺の住職とし、正保三年(1646)忠興の死去後、藤孝夫妻、忠興夫妻の四廟が並んだ。(四つ御廟)光尚は八代の泰勝院を廃して立田山に併せ瑞雲山泰勝寺と改めたが綱利の時龍田山と改称した。
忠利以降は九代治年までは妙解寺(寛永19年・1642)忠利の菩提を弔うため北岡に建立された寺をいう。妙解は忠利の院号で妙解寺に葬られたが十代成茲11代斎樹は再び泰勝寺に墓が立てられた。明治初年の神仏分離令で泰勝寺と妙解寺を廃止して本堂を祠堂に改め別邸とした。泰勝寺跡は昭和三〇年以降熊本市が庭園部分を借受一般に開放している。池と山林の調和の妙で三斎好みの仰松軒、苔園、梅園がある。その他伝宮本武蔵供養等もある。一方妙解寺跡は熊本市横手二丁目にある菩提寺で神仏分離令で熊本本邸になり昭和三〇年熊本市が一部を譲り受け、一般に開放している。寺の裏山には忠利夫妻はじめ歴代藩主、子女の墓地となっている。自然の丘陵を生かした園内には、ロックガーデン、バラ園が設けられている。(熊本県大百科事典から)