五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

習学寮十二境記、その一

2011-03-17 02:56:32 | 五高の歴史

今日からしばらく習学寮十二境記を転載してみる
我が第五高等学校は熊本城の辰巳(北東の方角)、飽託郡にあり(熊本市黒髪2丁目)、南は白川にむかい、北は龍田山のすそ野に望む、土地高く爽にして邸あり、原あり、林あり、花あり、別た、よもの詠めの、四季に隋て麗しく、朝夕のけしきの、晴雨につれておかしかるけるうちに、甍をつらねて並いたてるぞ、習学寮なりける、(この時期に習学寮は1~4棟まで存在していた)

現在は習学寮跡という碑が建っているだけ


一たびその楼に登りて詠めやれば、山巡り野広くして遠方十里のはても、(その昔は眺められたかもしれないが現在は市内に高いビルが多く見えない・漱石が赴任したとき新坂から市内を眺めて熊本は森の都と言ったとか・・)尺寸の間にあつまり、花紅に柳緑にして、名所旧跡のながめも(旧跡の龍田山泰勝寺、豊国廟等は見えたことであろう)、枕席の下にあれば、これに対して頭を磨き、術を習い、文を書き、奇を読む、天機に触れて、何ものか、学びの種ならざるむ、此の種々のけしき我物になして、世のなりわいにも、たずさわらず、あけくれ、文をよむ、人々の羨ましいさよ、とよそ目にも思う斗なるぞ、またこれここに遊ぶ学びのともなりける、さるに、このとしまで、その景色を撰いて、ものせしもののなきは、いともいとも口おしきこと、と一日尋ねてきて、おのれに謀る者ありけり、己も常おもう所なりければ、げにもとうべないつつ今年戊成の年、うづきの始まるかた、聯いとまえたるほどに、先ず十二境の名どころを撰びて、その景色をも記さむ、とて筆をとるなり、

わがものにしてこそ物はたのしけれあくたの野べの四方のけしきを、なべて山川風景のわが学寮の窓にいりて、その詠めとなれるもの、みな我がものとしてこそ、境あるべければ、名のもとよりなきは、いうもさらなり、あるもNとても、わがうみの子に名つくるごと、それぞれこなたの名なくてやはとて、世のあざけりをも顧みず、名づけたり、その中には、むかしの名を、そのままとりたるもまじれり、から名をも添えしは、そなたの歌よまむ人のためにもとてなりけり、

以上のような文がその前置き解説というもので明治の人はこんな文句の文章を何の抵抗もなく読んでいた事を考えると何と言っていいか俺にはわからないがこの文章をよんで行くといささかの
抵抗はあるが理解することは出来た。この文章は稼堂、陳人という人が表したものである事をつけくわえる。