夕闇が覆いだした刻、夏原は駿河台下のしもた屋が立ち並ぶ路地を歩いていた。とある店の前で立ち止まり、生成りの麻地に墨文字でしたためた趣味の良い暖簾をくぐった。
そこは十人も入れば一杯になるくらいのカウンターだけの店だ。すでに数人の客が点在していた。その時、分厚い白木の卓の向こうから夏原を呼ぶ声がした。
「マスター」
声の主を見るとカラヤンだった。卓上にはすでにビールと小鉢が置かれていた。夏原は一瞬迷ったがカラヤンが手招きするので見ると、丁度横の席が空いていた。その椅子に置いていたレコードをカラヤンはどけた。
「ここでマスターはないだろう。恥ずかしいよ。それよか一人なの」
「一人ですよ。レコード漁りで疲れちゃって。マスじゃなかった夏原さんもでしょ」
「まあ、そんなとこかな。この店はよく来るの」
「時々です。今日みたいな時に。初めてですね、ここで遇ったのは。もっとも夏原さんは月曜日しか来れないわけだから」
「お知り合いで」
割烹着の店主が二人に問いかけた。
「うちの店の常連さんですよ」
と夏原は言ったものの、ここでは自分の素性を明かしてはいなかった。必要最小限の事しか喋らない店主はそれ以上の言葉を投げかけてこなかった。
「ボクにもビールを」
店主は頷くと、程よく冷えたビールをグラスとともにテキパキとした動作で差し出した。
「面白いものあったの」
「こんなの買ったんだ」
先程椅子からよけたレコードを出して、カラヤンは少し照れながら夏原に見せた。
「渋いものを手に入れたね」
『ジャスト・アス』のジャケットを手に夏原が言った。
「前に店で聴いた時、印象に残ってたんです。リチャード・ワイアンズのピアノは大向こう受けのする派手さはないけど、しみじみとした味わいを感じちゃって」
カラヤンが夏原にビールを注ぎながら言った。
「そうだね。脇にまわるといい仕事をするピアニストだよね。決してしゃしゃり出ないその人柄が、音に滲み出てるのを感じるんだ。いぶし銀というのがぴったりと当てはまるよ。自分の持ち味を自分がよく掴んでいるところがいいんだ。これが意外と人ってできないもんなんだ」
夏原は小鉢からいんげんを箸で一つ掴んだ。
「このように、茹で具合が適切で胡麻味噌その他の調味料が絶妙に味付けされていると実に美味なものになるんだ。なにもこれみよがしの豪奢な材料で競う必要はないって事だよ。高級料亭にはない味をこういう小体な店では出せるんだね」
「言ってみればワイアンズも小体な味わいのピアニストというわけですね」
「パウエルやモンクといったビッグ・ネームとは違った持ち味があると思うんだ。そういう風に聴いてみるとワイアンズのピアノも愉しいよ。パウエルが凄いといったって、いつもパウエルだけだったら食傷気味になる。肩肘はらずに寛ぎ感を愉しむには格好のピアニストだね。尤もこのアルバムのリーダーはドラムのロイ・ヘインズだけれども」
「ヘインズは要所要所で自らのドラム・ソロをやっていますが、ドラマーがリーダーの場合致し方ないのかな」
「まあね。デイブ・ベイリーなんかだったら裏方に徹してるよね」
夏原は続けた。
「そのへんがドラマーの性格が出ていて面白いよね。そういえば’90年代にニューヨークの小さなクラブの店頭で偶然ワイアンズの
名を見かけたんだ。名も無い太っちょのトランペッターのサイド・メンとして出ていたよ。トランペッターをただ盛り上げるような立場に徹していて人柄が滲み出ていたね」
「きりのいいところで香ばしいうちにどうぞ」
そこでさきほど注文した鰯の南蛮漬けが、さりげない店主の声とともに夏原とカラヤンの前に出た。
玉葱と人参がきざまれた南蛮酢に揚げたての鰯の香りが食欲をそそる。
「この味がいいんですね。小体な」
カラヤンが、鰯を一口味わって言った。
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