夏原悟朗の日々

当世時代遅れジャズ喫茶店主ものがたり /「写真+小説」形式によるジャズ小説 前田義昭作品

52. ジャズの癒し

2009-08-03 | ジャズ小説

Img_4084Locking Horns (Roulette)・JOE NEWMAN / ZOOT SIMS


「いゃあ、まったくなんてひどい事をするんだろうね」
 汗を拭き吹き山下獣医がやって来た。
「どうしたんですか」
 夏原が訊くと、立て板に水で話し出した。
「このところ虐待を受けた野良猫が立て続けに持ち込まれてきてるんです。つい二三日前には釣針を脚に引っ掛けられた猫が来て、大変な思いをして抜いたと思ったら、今日は尻尾を何かで挟まれて大怪我をした猫が持ち込まれました。切断しなければだめで午後から手術です。我々のように最前線にいると、こんなところからも厭な世の中になっていっているのがよく分かります」
 相変わらず流れる汗を忙しくハンカチで拭いながら山下は続けた。
「トミーとディックは、たしか外には出してなかったですよね。取りあえずその心配はしなくてもいいですね。危険がいっぱいの野良猫は可哀想です。あっ、冷たいコーヒーをください」
「うちの猫は出してません。おっしゃるように何があるか判りませんからね。昔は三味線の皮を得るために猫獲りが横行していましたが、今は虐待の心配ですか」
 そう言うと、夏原はいつものようにテーブル席で眠る二匹に目をやった。
「すっかりジャズ喫茶の猫が板に付いていますね。夏原さん、何か気分転換になるようなのをかけてください」
「そうですね」
 暫し考えた末、夏原は『ロッキング・ホーンズ』を取り出してきた。
「これなどいいかもしれませんよ。中間派のジョー・ニューマンがのりにのったトランペットを聴かせます」
「ほう、ズート・シムズも参加してるんですね」
 ズートの名は知っていたのか、ジャケットに記された文字を見て山下が言った。ストローでほとんど一気に飲み終え残っていた氷水を、チューと音をたてて飲んだため少しばつの悪そうな顔をしておかわりを注文した。
『コーキー』という曲名。コルクの形容詞でコルクのようなという意味だが、軽薄なとか快活なという俗語になっているらしい。その通りで身体が自然に動き出してきそうだ。来た時の重苦しい雰囲気はほぐされて、山下は重そうな身体を文字どおり快活に揺すっていた。それを見て夏原は思わず笑いそうになった。
「なかなか二人のコンビネーションがいいじゃないですか。つい引き込まれちゃいますよ。CDが出てたら買おうかな。しかしこれは手術の時はBGMに流せないですね。失敗しちゃうと大変だから。はっはっは」
 山下は当初の暗い表情とは打って変わって、満面に笑みを浮かべて言った。
「ズートもことのほかコーキーって感じですね。はっはっは」
 また笑った。そこにスミちゃんがやって来た。
「あら先生、お久し振りですね。ハジケてますね」
 スミちゃんの猫も時々診てもらっているので顔なじみだった。山下はちょっと照れくさそうな顔をした。
「いらっしゃった時は、虐待された猫の話をして怒ってらしたんだ」
 夏原が山下に代わって説明した。猫好きのスミちゃんの顔色がみるみる変わっていった。
「よくない風潮よ。子供がエア・ガンで猫をターゲットにして遊んでるのを見かけたことがあるわ。注意するとつっかかってくるのよ。野良猫だからかまわないんだって。まったく親の顔を見たいわね」
 スミちゃんの正義感が爆発した。そして、山下に向かって持論のセリフが早くも出た。
Img_4088 「人間に翻弄されている野良猫に罪はない。先生、野良ちゃんは極力安くしてあげてくださいね」
「ええ、出来るかぎりの事はやらせてもらっているつもりです。これからもご遠慮なく何でも言ってください」
 ちょうどレコードが終わり、仕事モードに切り替えた山下が真摯に応えて、医院に戻って行った。
「この街にいい獣医さんがいて良かったわね、マスター」
「ほんと、動物は保険がないから助かるよ」
「折角だから、裏面を聴きたいわ。息抜きしてる先生に悪い事をしちゃったかな」
 B面1曲目の『オー・シェイ』が流れた。スミちゃんの怒りも少しはほぐれてきたようだった。
「ああいう現場にいると、合間にジャズを聴きに来たくなる気持はよく分かるわ」
 その言葉はスミちゃん自身のこころの声のようにも、夏原には聞こえた。  


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