夏原悟朗の日々

当世時代遅れジャズ喫茶店主ものがたり /「写真+小説」形式によるジャズ小説 前田義昭作品

50. 憎いペッパー

2009-07-17 | ジャズ小説

Img_4062Modern Art (Intro)・ART PEPPER


 スミちゃんが仕事用の大きなバッグを二つ抱えてやってきた。その立ち居振る舞いから疲労困憊といった体であった。
「ああ、重かった。スタイリストは一に体力、二に体力」
 いつものセリフがスミちゃんの口から出た。
「いったん帰ってから来ようと思ったんだけど、それもおっくうで直接来たわ。そんなことをしてまで寄らなくってもよさそうなのにね」
「涙がちょちょ切れるよ」
 生真面目な応え方を嫌う夏原流の言い方だ。スミちゃんもそんな夏原の気質が好きで、何をおいても毎日のように通って来るのだった。それはヒゲ村ら他の客も同様だ。
「マスター、ビールをいただくわ。それに、モンク終わったらペッパー聴かせてよ」
「何を聴く?」
「そうね、『モダン・アート』がいいわね.A面からね」
 程よく冷えたビールをスミちゃんのグラスに注いだ後、夏原はリクエストされたアート・ペッパーの盤を出してきた。
「ああ、おいしい。疲れた後のビールって最高ね。その上、ペッパーを聴きながらなんて言う事ないわね」
 ベースとのデュオによる『ブルース・イン』が最初の曲だ。気持を押し殺しながらも、時には抑えきれぬとばかりにエモーショナルに発露させる。それはペッパーでしか成し得えないフレージングだ。曲を奏でながら微妙な感情の動きも見事に具現されているのだ。夏原にはそう聴こえる。
「女性の情感に訴えて、いつの間にかこころの中に忍び入って捕らえて放さない。憎いのよ。それがペッパーよ」
 二本目のビールで少し酔いが回ったのか、スミちゃんは少し言葉をもつれさせた。
「役者にしたい程のルックスだからね。その上、こんな演奏をされたら女性はイチコロだね」
 そう言って、夏原はビールとグラスを持って来た。
「ボクの奢りだよ。ボクも一杯飲ませてもらうよ」
 スミちゃんに注いで、自分のを満たすとグラスを合わせた。
「私がペッパーを初めて聴いた時の話が面白いのよ。まだ喋ってなかったっけ? この仕事に入ったばかりで、ジャズなんてまったく知らなかった頃よ。先輩のアシスタントをやっていて、ヘマばっかりで落ち込んでいた時に、ある店のBGMでかかっていたのが『ブルース・アウト』だったわけ。啼き叫ぶようなサックスは私のこころに響いてきて、いつまでも頭から離れなかったわ。しかし、その時分は誰の演奏かは分からなかったのよ」
「知らなかったんだね」
「強烈な印象だったけど、調べようがなかったのでそのままになっていたのよ。何年か後にジャズのLPジャケットを小道具で使う仕事があったわけ。レコード店に行ってどれがいいか色々探したわ。そこで偶然目についたのがペッパーの『モダン・アート』だったの。あの時はジャケット写真だけで決めたわ。あまりにも格好良かったから」
「なるほど」
「レコードは買い取りだったので撮影が終わった後、ディレクターが気に入ったんだったら持って行っていいと言うのよ。じゃ、私の部屋に飾ろうと思って有り難くいただいたわ。その時はオーディオがなかったので聴く事はできなかったけど。でもやはり聴きたくなるのよね、当然。それで思い切って買ったわ。一枚のレコードのためにね。届いたら早速A面から聴き初めてB面の最後でビビッときたのよ。あの時聴いたBGMの曲じゃない。これだったんだと思うと、あまりの偶然にちょっと一人で興奮したわね」
「それで一挙にファンになったってわけだ」
 夏原はもう一本ビールを出してきて栓を抜きながら言った。
「あっ、A面が終わったね。じゃ、お望みの裏面をかけてみよう」
 軽快な『ダイアンズ・ジレンマ』に始まり、聴き慣れたスタンダードの2曲が終え、いよいよお目当ての『ブルース・アウト』に入るところにきた。
 ふと見ると、てっきり聴いていると思っていたスミちゃんは、頬杖をついたまま軽い寝息を立てていた。


無断で、複製・転載等を禁止します

Img_4065

最新の画像もっと見る