At The Hickory House (Blue Note) / JUTTA HIPP
コンタックスⅡを手にした夏原は、カウンターに座って空シャッターを切っていた。
独特のシャッター音が店内に響いた。そこに、
「あれ、また写真家に戻るの」
満面の笑顔で現れた正木がその樣を見てちゃかした。
「暇だから遊んでいたんだよ」
「やっとできたよ」
「例のアレかい」
「そう、アレなんだ」
腰掛けると早速バッグから一冊の本を取り出して夏原に手渡した。
「ほう、ベルリンにこんなところがあったんだね。ここがワーゲンブルクっていうトレーラー村ってわけか。こんなところをよく見つけたね。いい感じで撮れてるじゃない」
パラパラとページを繰って、夏原が反応した。その本は正木が20年ほど前にベルリンで撮影した写真だった、偶然見つけて撮ったものだったが、今の今まで正木は発表せずにあたためていた。しかし、この共同体を取り上げた写真集がなかったので出すことにしたのだった。
その時、スミちゃんがレコードを抱えて入ってきた。
「ほら、できたてほやほやの本だ」
夏原がスミちゃんに本を渡した。
「この前から聞いていた正木さんの本ね。できたのね。ステキじゃない」
表紙を一瞥してスミちゃんはニコッと微笑んだ。
「撮影でベルリンに一度だけ行ったけど知らなかったわ。廃車のトレーラーを居住用に改造してるのね。ユニークな生活スタイルのデラシネってことね。ヒゲ村君なんかこういうの好きそうじゃない」
「優秀なスタイリストのスミちゃんも知らなかったとは、こらまたなんちゅうこっちゃねん」
いつの間にか背後にヒゲ村の姿があった。
「正木さん、一冊買わせてもらいます」
「無理しなくっていいよ、ヒゲ村君。レコードを買う金がなくなっちゃうよ」
皆が笑った。サービス精神旺盛なヒゲ村に、夏原が引き取って行った。
「ボクが買うことになっているので、店に置いておくよ」
「そうこなくっちゃ」
「なんというタイミングなの。持って来たレコードがユタ・ヒップなのよ、これ」
スミちゃんが袋からLPを取り出した。夏原がそれを受け取り、
「おっ、それじゃこの後かけようか。ドイツ出身の美人ピアニストでブルーノートで録音したものなんだ」
「オレ、これのオリジナル盤持ってたんだ。金がなくって売っちまったんだ」
ついうっかり口を滑らせたヒゲ村が瞬間、バツがわるそうな顔をした。
「ヒゲ村の金欠人生を垣間見たな」
「ボクの本からはじまって、ヒゲ村君の生活実態が披瀝されることになって申し訳ないね」
正木が苦笑した。
「正木さんの出版祝いに花を添えたと思えばなんのことはないよ」
「なんだ、そりゃ」
夏原も苦笑した。ヒゲ村の破天荒な性格がこの店にはなくてはならない味付けになっていると今さらながら思った。ヒゲ村をはじめ、このメンバーが店を支えてくれているのだと胸のなかで反芻し感謝しながら、スミちゃんが持って来たレコードを取り出してターンテーブルに置いた。
「ドイツ美人ってこういう顔してんだね、たくさん見てきたんでしょ正木さん」
ジャケットを眺めながら発するヒゲ村の言葉に、正木はどんな顔をしていいのかわからなかった。
そして、あの独特の弾むピアノが店内に流れた。
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