Helen Merrill (Emarcy)・HELEN MERRILL
おっかなびっくりという感じでドアを開けて入ってきたおばさんは、身の置き所を探しあぐねるといった様子で、突っ立っていた。
「よろしかったら、カウンターへどうぞ」
夏原は声をかけた。
「そこでもいいの。あんまりこういう店来ないもんだから」
「こんな店ですからお気軽に」
「ジャズなんでしょ。あたしなんか演歌しか知らないもんだから。なんか場違いね」
「そんなことありませんよ。色んな方がいらっしゃいますから」
夏原はメニューをカウンターに置いた。
「ビールもあるのね、じゃ、お願い」
夏原がビールを注ぐと、ぐっと一息に飲み干した。やっと落ち着いたらしく、上着を脱いで横の椅子に置いた。
「ああ、おいしいわね最初の一杯」
かかっていたレコードが丁度終わったので、夏原が言った。
「お聴きになりたいのがありましたらかけますよ」
おばさんは、口ごもっていた。
「何とかという人よ。もう忘れちゃったわ。ほら、あの青江三奈に似たジャズ歌手」
ヘレン・メリルのことを言ってるんだろうと思って、夏原はジャケットを出して見せた。
「そうそうそんな顔、多分それよ」
おばさんは相好を崩した。残ったグラスを一気に空けると、指を一本出して小瓶を追加した。
夏原はレコードをかけながら、おばさんとヘレン・メリルはどう結びつくんだろうと内心思っていた。ヘレン・メリルのハスキーな歌声が聴こえ出すと、おばさんは少し居住まいを正した。
「似てるわね、やはり」
そんな言葉を洩らして、ジャケットを見つめていた。そして、夏原に視線を向けて喋りかけた。
「あたし、その先で清掃の仕事やってんのよ。もうこの歳になったらこれしかないのよ。あたし、これでも昔は歌手やってたと言ったら信じてくれる」
夏原は呆気にとられ、おばさんの顔をもう一度見た。
「歌手ったって前座よ。前座の演歌歌手よ。でも、レコードも二枚出してるのよ、ほんとに。もちろん売れなかったけど。そのレコードもどこにいっちゃったのか判んないわよ。はっはっは」
「へぇっ、そうだったんですか」
「地方公演に出ると、主に青江三奈の前座が多かったのよ。あの人、クラブのジャズ歌手出身でしょ。あたしはジャズはまったくわからないのよ。もう死んだけどいい人だったわよ。楽屋でもよくしてくれたし、ファンからの差し入れを気前よくあたしたちにくれるのよ。苦労してんのね」
「ああ、そうですか」
「うまく演歌へ転向したわね。独特の声だすじゃない、あのハスキーって言うんだかしらないけど。最初聴いた時は、なんてヘタクソと思ったわよね。あたしの方がよっぽどうまいんじゃないかと、ふふふっ」
おばさんは喉からグビっと音をたてて、うまそうにまたビールを飲んだ。
「その時代に、青江さんがヘレン・メリルに似てるということを知って、一度その歌を聴いてみたかったんだけど、ずっとそのままになってたのよ。あたし、ジャズにはまったく縁がないでしょ」
「それでボクの店にいらっしゃったんですか」
「いつもこの前を通って職場に行くので気になってたのよ。もしかしたら、お宅のジャズ喫茶で聴けるんじゃないかと思ったわけ」
「じゃ、初めて聴かれるんですね」
そこで片面が終わった。
「あれっ、もう終わっちゃったの。余計なことばかり喋りすぎたわね、ごめんなさい。でもやはり、声は似てたわ」
「もう片面をかけましょうか」
「いいの、もう次の職場に行かなくっちゃ。あたし清掃の掛け持ちやってて忙しいのよ。でも、ちょっと酔っぱらっちゃってまずいわね。ふふっ」
そう言い残して身支度を整え勘定を終えると、おばさんはそそくさと出て行ってしまった。
無断で、複製・転載等を禁止します