オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

月百姿 高倉月

2017-06-08 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『高倉月 長谷部信連』 

明治十九年届

 

長谷部信連(はせべのぶつら)は平安末期・鎌倉初期の武士

生年不詳~建保6年10月27日(1218年11月16日)

後白河法皇の第三皇子 以仁王(もちひとおう)に仕える。

治承4(1180)年5月15日 以仁王の平家打倒計画が発覚したときに

近江の園城寺(三井寺)に逃がし 一人で討手を迎え撃つ

 

国立国会図書館デジタルコレクション 052


<平家物語 - 巻第四 信連より>

治承四年五月十五夜、雲間の月を眺めながらも

何の方向性も見いだせない高倉宮以仁王のもとへ

源頼政の使者が、手紙を持ち慌ててやって来ました。

「君のご謀反は早くも漏れてしまいました。急いで御所を出られ

三井寺にお入り下さい」と書いてありました。

これは一体どうすれば良いのかと悩んでいた高倉宮。

丁度その時に控えていたのが 長兵衛尉長谷部信連

「別に大したことでは御座いません女房装束に着替えて

行かれるのが良いかと思います」 と、申し上げました。

成る程そうであったと 髪を乱し重ね着をした上に

市女笠をかぶり脱出を図った高倉宮。

六条の亮大夫宗信が唐傘を持ってお供しました。


その後、以仁王は治承4年5月26日 興福寺を頼って

奈良へ逃れる途中 宇治で流矢にあたって没するが

捕えられて伯耆国(鳥取県)に流された長谷部信連

平氏滅亡後、源頼朝より関東御家人にくわえられ

能登大屋荘をあたえられた。