月岡芳年 月百姿
『山木館の月 景廉』
明治十九年届
加藤景廉(かとうかげかど)は平安後期-鎌倉時代の武将
保元元年(1156年)?~承久3年(1221年)8月3日
治承4年 源頼朝の挙兵に加わり、平兼高(たいらのかねたか)の
館を急襲した景廉は自分の兜を囮として兼高に斬りつけさせた。
国立国会図書館デジタルコレクション 092
治承4年(1180年)8月17日の夜、源頼朝は以仁王(もちひとおう)の令旨を受け
伊豆国目代 山木判官平兼隆(たいらのかねたか)の屋敷を襲いました。
折しも三島大社の例祭の日であり、館の郎党は祭りに出かけて守りが手薄なときでした。
一行は真夜中に出発して牛鍬大路(うしくわおおじ)を通り
兼高の後見人の堤信遠(つつみのぶとお)を切り倒した後、
天満坂を経て山木館へと向かいました。
激戦の末、兼隆の首を討ち取ったのは加藤影廉でした。
館に火を付けて、北条屋敷で激戦を待ち焦がれている頼朝への知らせとし
これが源氏再興ののろしとなりました。
出典先:伊豆の国市観光協会web
以仁王が打倒平家を呼びかける令旨(りょうじ・天皇家の命令書)を
発したのは治承四年(1180年)の4月9日でした。
これを知った平家側に、源頼政とともに5月26日
宇治の橋合戦に敗れ命を落してしまいます。
以仁王が宮を脱出する姿を6/7記事で紹介しています。