オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

月百姿 吉野山夜半月

2017-06-24 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『吉野山夜半月 伊賀局』 

明治十九年届

 

伊賀局(いがのつぼね)は南北朝時代の勇女とされる女性。

新田義貞の家臣、篠塚伊賀守重広の娘。

生年不詳元中元年/至徳元年(1384年)10月13日

後醍醐天皇の女院阿野廉子に女官として出仕する

後に楠木正成の三男楠木正儀の妻となった。

 

国立国会図書館デジタルコレクション 072

 

< 『吉野拾遺』 10 伊賀の局化物に逢ふ事 > より

時は正平二年(1347年),後村上天皇の母として新待賢門院となった

廉子の吉野の御所に化け物がでるというので皆が恐れた。

その化け物がどんな形をしているのか誰もはっきりと見たものはいないが

出会った者は皆暗い気持ちになった。

水無月十日の大変暑い夜のこと 伊賀局が庭に出て涼んでいると、松の梢に天狗がいる。

局は少しも恐れず、天狗の名を尋ねた。天狗は、自分は藤原基任であるが

女院のために生命をなげうって忠節を尽くしたのにあとを弔うても下さらないので

このことを申すために近頃ここにあらわれるようになった。

しかし、人々が恐れて聞こうとしてくれないと、かこった。

局はこれを聞き、女院に申し上げて供養をおさせ申したので、あとには変異はなかった。

それにしてもこの局は大層頼もしいこと。

 

< 藤原基任(ふじわらのもととう)の霊 >

阿野廉子が吉野の宮から忍んで京都の行き、また吉野に戻るときに

基任は右衛門太夫としてお供していた。

高師直(こうのもろなお)はかねてからこの君(廉子)の容貌が美しいことから

懸想していたため、これ幸いに奪おうと人を連れ狼藉に及ぼうとしたが

基任がどうにか防ぎ、廉子はなんとか戻ることができた。

しかし、基任はこの時討ち死にしてしまった。

        ArtWikiより

 

3/28日の月百姿「垣間見の月」に出たのに

ここでも名前が出てくる 高師直って人は根っからの性悪ですね。

ある意味ブレない人か。

 


月百姿 雨後の山月

2017-06-23 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『雨後の山月 時致』 

明治十八年届

 

 

曾我時致(そがときむね)は平安末期・鎌倉初期の武士。

承安4年(1174年)~建久4年(1193年)5月29日

『曽我兄弟の仇討ち』で知られる。

 

見上げる空に暁月と杜鵑

国立国会図書館デジタルコレクション 088

 

これより17年前の安元二年(1176年)伊豆奥野で行われた巻狩の際

曾我兄弟の父河津祐泰(かわづすけやす)は

従兄弟の工藤祐経(くどうすけつね)によって殺されていました。

伊豆の所領争いによる恨みから起こった殺人事件でした。

河津祐泰が殺された後、その妻満江御前は

相模国の住人曾我祐信と再婚します。

二人の息子一萬丸と箱王丸はそれぞれ成長し

曾我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)、

曾我五郎時致(そがごろうときむね)となったのでした。

そして父の恨みを晴らそうと、仇討ちの機会をうかがっていました。

 

建久4年5月28日 源頼朝が富士野で巻狩を行ったときに

兄祐成と共に神野の旅営を襲い、工藤祐経を討ち果たすが

兄の祐成は新田四郎忠常に討ち取られてしまいます。

さらに頼朝を襲うが小姓の五郎丸によって捕縛され、翌朝取調べとなり

夜討ちの本意を聞いた頼朝は一旦は助命を考えるが

工藤祐経の子息犬房丸の訴えにより処刑された。

 

曾我兄弟の仇討ち/日本の歴史 より転用

 


月百姿 源氏夕顔巻

2017-06-22 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『源氏夕顔巻』 

明治十九年届

 

 

夕顔は三位中将の娘で頭中将の側室

常夏(とこなつ、撫子の古名)の女とも呼ばれていて

一女(玉鬘)を産むが、本妻の嫉妬を恐れて市井に紛れ

お互い素性を明かさずに光源氏の愛人となるが

八月十五日夜半、物の怪に遭遇する。

 

国立国会図書館デジタルコレクション 069

 

<源氏物語第四帖 夕顔巻 あらすじ>

源氏17歳の時、病気の乳母を見舞いにいきました。

隣の垣根に咲く花を見つけた源氏がその花取りにやらせると

その家の使いの者が夕顔の花を乗せるための扇を渡してくれます。

その扇には和歌が書かれていました

源氏はその歌に和歌を返しましす。

家主の女の教養に興味を持った源氏は

身分を隠して彼女のもとに通い始めます。

ある日、源氏は逢引の場に人の住まぬ荒れた邸を選び

そこに夕顔を連れていきました。

ところが深夜に二人のの枕元に,女性の霊が現れて

恨み言を言うという事態がおこり、あまりの恐怖のため

夕顔はそのまま明け方息を引き取ってしまいます。

 

現代訳がたくさんあるのでわかりやすいですが

夕顔自身が霊となる話ではないのですね。

この絵は夕顔の儚さを表したかったのでしょうか。。。

 

『寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔』

 


月百姿 山木館の月

2017-06-21 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『山木館の月 景廉』 

明治十九年届

 

加藤景廉(かとうかげかど)は平安後期-鎌倉時代の武将

保元元年(1156年)?~承久3年(1221年)8月3日

治承4年 源頼朝の挙兵に加わり、平兼高(たいらのかねたか)の

館を急襲した景廉は自分の兜を囮として兼高に斬りつけさせた。

 

国立国会図書館デジタルコレクション 092

 

治承4年(1180年)8月17日の夜、源頼朝は以仁王(もちひとおう)の令旨を受け

伊豆国目代 山木判官平兼隆(たいらのかねたか)の屋敷を襲いました。

折しも三島大社の例祭の日であり、館の郎党は祭りに出かけて守りが手薄なときでした。

一行は真夜中に出発して牛鍬大路(うしくわおおじ)を通り

兼高の後見人の堤信遠(つつみのぶとお)を切り倒した後、

天満坂を経て山木館へと向かいました。

激戦の末、兼隆の首を討ち取ったのは加藤影廉でした。

館に火を付けて、北条屋敷で激戦を待ち焦がれている頼朝への知らせとし

これが源氏再興ののろしとなりました。

 

出典先:伊豆の国市観光協会web


以仁王が打倒平家を呼びかける令旨(りょうじ・天皇家の命令書)を

発したのは治承四年(1180年)の4月9日でした。

これを知った平家側に、源頼政とともに5月26日

宇治の橋合戦に敗れ命を落してしまいます。

以仁王が宮を脱出する姿を6/7記事で紹介しています。

 


月百姿 貞観殿月

2017-06-20 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『貞観殿月 源経基』 

貞観殿(じょうがんでん):平安宮の内裏の建物名 内裏の北辺にある。

明治二十一年印刷

 

 

源経基(みなもとのつねもと)は平安時代中期の武将。清和源氏の祖。

延喜17年(917年)?~ 応和元年(961年)114

花山寺の月(4/20)に登場した源満仲は経基の嫡子。

国立国会図書館デジタルコレクション 060


< 前太平記 巻一 第五話 経基射鹿給事> より

経基鹿を射る

『やはり曲者であるな。もしも私の姿を見れば、逃げてしまうだろうか。

射損ねたようでは、この時の恥辱のみならず、末代までの不名誉である。』


と、貞観殿の階段の下に座り隠れて、弦を少し湿らし、鏑矢をつがえ、

あの鹿のいる場所を十分に気を付けてよく見て、少し弓を引きしぼって、

狙いを定めてひゅっと放つ。その矢は少しも狙いを外さず、

左の胸先から右の耳の根まで、白い矢先を射出したので、

どうして少しでも堪えることが出来るか、真っ逆さまに転び落ちる。


摂政(藤原忠平)をはじめとし、三公九卿の家々の武士や内侍、命婦の女官に至るまで、

「おお、撃ったぞ、撃ったぞ」という声に、御殿も揺れ動くほどである。


その後、この時の鹿を淀川の浅瀬に柴漬(ふしづけ→罪人などを簀巻きにして

水中に投げ入れること)にしてしまった。

すぐに斎部・卜部の両家にお命じになって、色々な御払いをして、穢れをお清めになった。


出典元:gekkaan.web.fc2.com/zt5.html