馬雲(ジャック・マー)といえば中国ビジネス界の超大物。英語教師を務めていたが、ネット通販最大手アリババ・ドットコムのカリスマ創業者となり、アマゾン・ドットコムの創業者ジェフ・ベゾスの中国版とも呼ぶべき存在に上り詰めた。
崩れ落ちる中国経済 住宅ローン地獄で家計債務がリーマン危機前水準に
そんな中国の起業家精神を象徴するマーが、来年9月にアリババの会長を退任すると表明した。このニュースは投資家を驚かせただけではない。中国に築いた輝かしい地位を投げ出す理由は何なのかと、さまざまな臆測を呼んでいる。
マーが語った退任の理由を軽く考えるべきではないだろう。推定380億ドル以上の資産を持つ54歳の大富豪は、退任後は慈善活動、特に教育事業に時間と精力を注ぐという。中国の教育環境を向上させるのは結構だが、この言葉を額面どおりに受け取るわけにはいかない。優れたビジネスマンが想定外の行動を取るとき、凡人には分からない何かを見据えていることがある。
例えば、香港の著名な実業家である李嘉誠(90)がそうだった。彼が13年に中国から資産を引き揚げたとき、表向きには売却が必要という説明だった。だが今にして思えば、中国経済が浮き沈みの激しい段階に入ると見越して早めに撤退を図ったのだ。その後の展開は、李の判断が正しかったことを示している。
マーがアリババを離れる理由は自分の評判を守ることかもしれない。会社が順調なうちに側近も社員も残して去れば、サクセスストーリーに傷が付かない。
実際、中国のIT業界が逆風にさらされていることは、マーのような天才でなくても分かる。
もうIT業界では、バラ色の成長は望めない。ネット通販はほぼ飽和状態。アリババだけでなく騰訊控股(テンセント・ホールディングス)や百度(バイドゥ)も、成長を続けたければ他業種に進出するしかない。
IT大手に政府が介入?
だが、中国には厳しい規制の壁がある。金融や医療、通信などは国有企業による独占状態だ。製造業ならまだ参入は可能だろうが、アリババのような企業は全く新しい対応が必要になる。
しかも中国政府は、テンセントやアリババといった大企業を警戒するようになった。国はこれらの企業にマイノリティー出資(過半数を超えない株式の取得)をすることで、国内の証券取引所に上場させて規制の網を掛けようとしているとも言われている(これまで中国のIT大手は外国で上場してきた)。
だが中国の起業家が最も恐れるのは、自分たちの成功に欠かせなかった「自由」が失われることだ。かつての李のように、マーも今が撤退の時だと感じたに違いない。
国外に目を向けても、米中の間にIT冷戦の暗雲が漂っており、起業家は先行きに期待が持てない。米政府はほぼ確実に、中国系IT企業が米国内で研究を行ったり、アメリカの技術を利用することへの制限を強めるだろう。米中の貿易戦争と併せて、IT冷戦は中国IT企業の成長を大きく阻む恐れがある。
中国政府はマーの退任を警鐘として受け止めるべきだ。政府の政策と方向性の欠如に対して、起業家が不信をあらわにした例がまた1つ増えたのだから。
いま中国は2つの前線で戦っている。1つはアメリカとの貿易戦争と来るべき地政学上の冷戦。もう1つは、経済・外交政策に対する国内での信頼低下だ。
最近の中国政府の姿勢からは、勝利につながる戦略は見えてこない。今のままでは、マーのようなビジネス界のリーダーがさらに去っていくだけだ。
<本誌2018年9月25日号掲載>
ミンシン・ペイ(クレアモント・マッケンナ大学教授、本誌コラムニスト)