旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

孤立無援の思想

2008年04月12日 01時19分10秒 | Weblog

30有余年ぶりに「孤立無援の思想」を読んだ。「高橋和巳著作集7 エッセイ集 思想編」の中に収録されている。1970年、河出書房新社の出版である。

高橋はこの小論文の中で、まず大衆社会の政治的危うさについて論じる。大衆社会における情勢判断とは、ひとつの判断と他の判断が雌雄を決すべく争うことである。その運動の過程で死んでいった者の意識にこだわることではないと論及する。このような情勢論的論理が有効性を発揮できない「思想という悪魔的な知恵」がある。「この知恵は、多数決で押し切り、妥協点を見出すという形で終わらないし、一個の人間の生涯を通じての生き方にかかわるものであるからである。」

高橋は小論文の最後を「これも拒絶し、あれも拒絶し、その挙句の果てに徒手空拳、孤立無援の自分自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。」と結ぶ。

社会科学とその実践の有効性を知る者からすると、なんだか気持ちが殺伐としてくる小論文である。まず、高橋が言うところの「思想」の意味内容が不明である。その昔、高橋の小説「悲の器」「邪宗門」「憂鬱なる党派」などを読んでいる。高橋和巳はこれらの小説の中では指導的な立場にある者たちのエゴイズムを描いているように思う。

言うまでもないが、文学の題材として頻繁に取り上げられるエゴ(利己)は、社会科学でいうところの個人主義の個人ではない。高橋の論調には「知り過ぎた者」「見え過ぎる者」という独善的な、しかも歪んだ知識人意識が見え隠れするのである。