旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

意志と表象としての世界 第3節

2006年09月03日 23時24分12秒 | Weblog
                     ショーペンハウエル


難解である。

『われわれの表象には、直感と抽象の区別がある。抽象的な表象は概念である。概念を持つことができる能力が理性である。
いっぽう、直感的な表象の対象は世界の全体・経験の総体であり、時間と空間は先見的に直感の普遍的なものさしである。現在が過去と未来の境界線にすぎないように、空間と時間の両方にわたって存在するもの、つまり、原因や動機から生じるいっさいのものは主客の境界にあって相対的な存在である。そして、いっさいのものは互いに依存している。インドの聖賢の言葉に従うならば、「世界は有るともいえるし、無いともいえるのである。」』

改竄と言うよりもわたしの解釈。はっきり言って翻訳がひどすぎる、日本語になっていない、文章になっていない、5度読んでも意味を把握できない。翻訳者はもっと日本語表現の勉強をしなくてはならないと思いつつ、怖いもの見たさに翻訳者の名前を見てみると、なんとかの西尾幹二さんだった。歴史認識論争でも他の論者たちと議論がかみ合わないはずだ。テキストを変えるかどうか悩む・・・。

続 ほろ酔い加減で大田川沿いを行く

2006年09月03日 16時44分13秒 | Weblog
深夜2時半には、塒(ねぐら)にたどり着きました。4時間を要しました。アルコールはすっかり抜けて、二日酔いを回避できました。足の裏が少し腫れたようです。血マメになっていないか心配しましたが、どうやら異常はないようです。

近いうちに高陽町から船越まで歩いてみたいと思います。わたしは根から丈夫にできていますから、なかなか壊れません。

前回は、3時間半で歩破したように記憶しています。今回は4時間ばかり要しました。歩きながらカラオケの独演会にメール・ストレッチですから、さもありなむ。次回は流川~高陽間を2時間半で歩破することを目標にしています。

ほろ酔い加減で大田川沿いを行く

2006年09月03日 00時55分28秒 | Weblog
この金曜日、知人の退院祝に出席した。楽しい会合だったので大いに飲んだ。帰りは無性に歩きたくなって、確か夜中の10時半ごろから塒に向かってひとりで歩き始めた。

月明かりに照らされて県道沿いの土手は見晴らしがいい。河川敷に降りて風流に川沿いを行こうとしたら、「マムシ危険」という看板があったのであわてて土手に取って返した。左手には延々と大田川の豊かな水量を湛えた支流が流れる。薄暗い河川敷には緑が氾濫していることであろう。

布施明の「思い出」を口ずさんでみた。「あなたと歩いたあの道に 夜霧が冷たく流れてた 何にも言わずにうつむいて 涙にくれてたあのひとよ さよなら初恋もう二度とは 帰らぬあなたの思い出を さびしく切なく今日もまた 呼んでみたのさ霧の中」そういえば、あの初恋から何年が経つかなあ。独りで歩く時にはなぜかこの歌を口ずさむ。

二時間も経過すると肩が凝ってくる。腕やら肩やらのストレッチをやりながら歩き続ける。赤いポロシャツを着たオヤジが妙な動作をやりながら土手を歩いている姿は気味のいいものではない。県道を行く車両が近づくたびに加速していくのがよくわかる。あの時点で真夜中の12時を回っていたのだ。

塒方面に向かうタクシーはない。反対側の車線から空車が来るのだが止まってくれる様子もないほどぶっ飛ばすので、こっちも意地になってひたすら北を目指す。見上げると北の空に北極星が輝いている。塒はあの方向だと言いたいところだが帰路は熟知している。年に数百回は車を走らせる道の、その歩道を行く。

オレンジ色の街灯が緑の植物を照らすと白く見える。オレンジの歩道の左右に延々と続く白い植物群は幻想的だった。天国とか極楽とかをいまだに拝見したことがないが、多分このような光景なのであろうと思えるほど印象的だった。

意志と表象としての世界 第2節 

2006年09月03日 00時02分59秒 | Weblog
「根拠の原理」について

『主観・客観の境界線は主客に共通であるから、時間・空間・因果律についての客観的な法則は、主観的な面からも発見・認識できる。カントによれば、これらの法則は、われわれの意識の内に存在しているからである。存在するすべての客観は、表象でありそれ以外のなにものでもない。存在するすべての客観は、客観相互の必然的な関係、即ち「根拠の原理」に還元される。したがって、相対的であって多様である。』(改竄)

意志と表象としての世界 第2節 

2006年09月02日 23時38分19秒 | Weblog
『表象としての世界には二面性がある。ひとつの側面は「客観性」であり、空間と時間をその要素として多様である。もう一方の側面が「主観性」であり、表象する動物のうちには固有の主観が働いているので分割できない。そして、主客両面は、直に境界を接している。即ち、客観が始まるところは主観が終わるところである。』(一部改竄)

宝の山

2006年09月01日 15時40分31秒 | Weblog
今日はヒジョーにハピーな電話があった。そこで、古本屋さんに赴いて例の日本古典文学全集「今昔物語 全4巻」を買った。同じグループの別の店なのであるが、価格は同じ500円。汚れや落丁・線引きはなかった。汚れがあればやはり値を下げるそうだ。汚れならある程度我慢できるが、落丁・線引きは我慢できない。現在この全集は、新本で1冊5000円はする。

午前中に難しい本を買って帰ったお客さんが、「この店は、宝の山だ。」と言ったとか。「同感だ。探す楽しみがある。」と伝えると、ふたりの店員さんは顔を見合わせて笑っていた。どのような商品であれ、売った商品を顧客から賞賛されると、人間うれしいものだ。

この古本屋さんでは本の大きさで価格を決めるのだそうだ。だから同じ小学館の「完訳 日本の古典」は300円で売っている。合理的といえば合理的であるが、思わず「本の価値というものを少しは解かって欲しい。」と言いたくなる。こちらはその昔、ラーメン代をけずって古本屋で安い本を探した身なのだ。

今年は本を買いすぎたように思う。実際読めていない。目次を眺めて興味をそそられる箇所の拾い読みが続く。それでいいのだ。わたしは教養を得るために漫然と本を読んでいるのではない。読みたい本を、読みたい時に読む。そのために、せっせと本を積み上げている。しばらくは、積読が続きそうだ。

昭和

2006年09月01日 08時46分01秒 | Weblog
興味深く読ませていただきました。タイムリーというべきか、昨日は友人ふたりと食事をしながら、ドイツ軍捕虜に対する収容所内での処遇的報復によって100万人以上が命を落としたとか、帰国の安全を保障したにもかかわらず、ドイツ人の追放者(元植民者)の死亡者数が200万人以上にのぼると推定されているとか、そういう話をしました。

にもかかわらず、ドイツ人はアメリカを首魁にした旧連合国をそれほど憎んでいない。不思議なことです。戦前に戻るのがいいのか、現在がいいのかと問われれば、躊躇なく現在がいいと答えます。アメリカに毒されてしまったというとそれまでかも知れませんが、わたしは個人主義と自由の恵沢はアメリカによって齎されたと考えています。

おそらく、ビジネスマンの捉え方は万国共通なんでしょうね。ストレスにならないうちに嫌なことは早く忘れてしまおうという知恵なのでしょう。わたしの職場にも戦争についてまじめに語ろうとするひとはいません。いるわけがありませんよね。わたしの勤務先は、原爆の爆心地から300メートルほどの場所にあります。原爆ドームのすぐ近くです。