2011年1月30日(日)
桃園会「ダイダラザウルス」
作・演出:深津篤史
観劇:2011年1月30日(日)PM3:00~4:30 伊丹アイホール
(感想)
舞台は階段。大きな階段でいくつかの話が拡げられていく。それは車掌との会話であったり、動物のいない冬の遊園地の話だったり
、一間の私とあなたと猫の話だったり。おかんとのありそうでなさそうな話だったり、風景とともにおもい出されていく話はどこかさびしくてにぎやか。
こんなわたしをいきている。明滅する明りの重なり帯びる有機交流電灯のひと。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がみえてくるのは、おもてのひとのドラマだけではなく、うらのドラマがあるためだ。おもてが生ならば、うらは死。作者は生きているところにしかいないのだから、死にあがないながら、死へのドラマに向かい合っていく。
誰もいない教室で一生懸命に宇宙の話をする女。ケンタウロスといい、星を指さす女。生んだこともないのにおかんになっていく女。その女たちは生を放つ登場人物たちだ。
男1という登場人物だけがわきにいる。おそらく、わたしであり、わたしだけがこの世界を背負い、抗いつづける。それは誰もがだどる現実だ。
それに対して、話の風呂敷をひろげ続けていく。わたしがやりつづける世界へのアクセスだ。
芝居はどこまでも閉ざしていかない。たとえ、わたしがいなくなっても。
今回、男1を演じる役者さんが急遽代役になったとのこと。どうしてもことばが空気になるところでのやり取りは難しく、わたしがみえにくくはあったが、かろやかに必死であったことを感じた。
桃園会「ダイダラザウルス」
作・演出:深津篤史
観劇:2011年1月30日(日)PM3:00~4:30 伊丹アイホール
(感想)
舞台は階段。大きな階段でいくつかの話が拡げられていく。それは車掌との会話であったり、動物のいない冬の遊園地の話だったり
、一間の私とあなたと猫の話だったり。おかんとのありそうでなさそうな話だったり、風景とともにおもい出されていく話はどこかさびしくてにぎやか。
こんなわたしをいきている。明滅する明りの重なり帯びる有機交流電灯のひと。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がみえてくるのは、おもてのひとのドラマだけではなく、うらのドラマがあるためだ。おもてが生ならば、うらは死。作者は生きているところにしかいないのだから、死にあがないながら、死へのドラマに向かい合っていく。
誰もいない教室で一生懸命に宇宙の話をする女。ケンタウロスといい、星を指さす女。生んだこともないのにおかんになっていく女。その女たちは生を放つ登場人物たちだ。
男1という登場人物だけがわきにいる。おそらく、わたしであり、わたしだけがこの世界を背負い、抗いつづける。それは誰もがだどる現実だ。
それに対して、話の風呂敷をひろげ続けていく。わたしがやりつづける世界へのアクセスだ。
芝居はどこまでも閉ざしていかない。たとえ、わたしがいなくなっても。
今回、男1を演じる役者さんが急遽代役になったとのこと。どうしてもことばが空気になるところでのやり取りは難しく、わたしがみえにくくはあったが、かろやかに必死であったことを感じた。