むかわの阿呆演劇日誌

演劇についての劇日誌やつれづれの演劇、映画の感想や日々のつぶやき。写真もあげます。

夏にみる。

2009年08月26日 11時41分35秒 | Weblog
夏が過ぎ去っていくなら、ふりかえり、後ろをみよう。

 いまはそんな気分。


 世界はなんなのか。


 いまの社会は世界をみていない。

 それは夢や希望や理想の上に成り立つ。もちろん、欲望も愛憎も。

 自分にとって、芝居をつくることは世界をつくること。

 現実への逃走。その内部に起こる暴力はただの感情暴発。想いの抑圧からの怒りなどではない。だから、怖い。それは壊すことにしか、到達がないから。

 壊しつづけ、傷つけというのが、他者との関係というのは錯覚。自己幻想の押し付け。想いが個々、まさに世界への想いがあっての傷つけあいが起こるのが、他者の存在を知ることの、自己幻想から関係幻想の広がりである。

 毎日がなにかすかすかでも追われている。

 夏の日差しがくっきりと影をつくり、汗だくに麦茶。そして、ひといき。ひとはそんななかでいきる。

 そんな夏の光景はひとびとがいきいきとするなかにで耀く。


 世界はなんなのか。


 それは夏の耀き。
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芝居の練習はじまり。

2009年08月22日 13時28分33秒 | Weblog
 ある劇団内ユニットの次回の公演にむけてのはじまり。青少年施設を借りての練習だが、時間を午後7時から設定しても、なかなかみんなが一斉にとはあつまりにくい。個々の生活状況が違うので、どうしてもフリーな人はキチンとこれて、正職の人はほぼ遅れる。ここんとこ、ようくわかっていても人間がうまく集まらないとうのも、ほんとなにかが奪われているなのだろうなあ。で、早く来たひとがなんか待つことに。
 この感じ、ベケット「ゴドーを待ちながら」だ。

 でも、それはそれ、きたものからなにかをはじめていくのがいいのかなと思う。

 遅れてきたものも申し訳なく思ってきているのだから。

 長年やってきても、仲間が揺さぶられている。ましてや、連絡なしに休まれたら
 あららだ。

 子どもじゃないんだからと思う。同時にこどもみたいになっている大人がどんどんあらわれているんだろうなあ。知り合いの話だと、アルバイトの休みをいえなく
友達に父親変わりなりすましてもらって、その友達に休みの連絡してもらっている人がいるんだから。この複雑さ。

 近年、あいさつできないこどもがかなりみかける。確かに自分たちのときもあいさつするのは苦手だった。個から公になるとき、とても向き合うのが自信もなかった。ここにいることのしんどさもあった。それが社会への訓練だとするとなるほどと思う。いまは自分主張はできるのに、それが公になったときのギャップがおおきのだ。わたしたちは個であることも自信もなかった。だから、あいさつがどこか照れくさいと思っていた。今は個はふくらんでいるのに、公になるといきなりしぼむのだ。

 とぴうことで仲間にも休みを入れられない大人や友達にバイトの休みをいれさせる大人がいるのだ。
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燐光群「現代能楽集 イプセン」

2009年08月21日 14時58分55秒 | Weblog
観劇日:2009年8月14日(金)PM7:00~9:40 伊丹アイホール

 1986年の大阪京橋アルバトロス「デッドゾーン」から21年になる燐光群。
 今回はイプセン。イプセンといえば、「人形の家」しか知らず。今回、130年経っているノルウェーの作家の作品が、イプセンがこだわった人間の揺らぎ、かくれているものが、テンポよい群集芝居のなかで、浮かびあがっていた。

 130年前とは近代化のなか、国家、世界、個人の形が言語として浮かび上がらせようとしていた時代。言葉は情報ではなく、ひとに意識させるものとしてあった。

 みていて生理として(情報脳生理として)、ことばのめくるめく力の難解さ(詩的性)に理解しようとするものがさまたげになり、理解不能のもやもや感があったが、同時にその言葉からひっかかるものが醸し出し、浮かびあげられていくもの、それをなんと名づけよう、能では幽玄なものというが、まあ、幽霊なものがおもしろい。言葉はひとの生命よりいきつづける。その言葉の永遠性のベクトルがその人間の本音をあからさまにしていくのだ。
 「ノーラは行ってしまった」「ぶらんぶらん」「野鴨中毒」「ヘッダじゃない」
そのイプセンの4本の作品から、坂手洋二が構成した作品たちには、芝居の夢幻空間だから、からみとれる人間のあいまいさがはっきりするのだ。
 進化論が当たり前にある世界から、いまだ、進化論の亡霊に抑圧されている、いつも現代の私たちの世界へ。

 現在はただの点にすぎない。

 そこに続く価値は進化論の時代とも同じであろうが、ひとがひとに対する想いがどうあるかによって、決まっていくのだ。
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演劇の深み

2009年08月16日 20時16分04秒 | Weblog
 昨日から今日にかけて、演劇をめぐる会話を久しぶりにしたことで演劇の深みについて思考する。

 いま、なぜ、芝居をするのか。

 それはいま、なぜ、生きているのかというような自明なものではないので、作り手として、考える作業がいるのだが、ここ近年そういうことを問いかけないぐらい芝居が当たり前のものになっていた。

そう、いきることはどんなことにおいても自然の摂理なので、そのいきることが大変になればなるほど、自分がいまあることの当たり前に演劇などの行為を当たり前のものとして、おとしこんでしまう。

 でも、そうではないのだ。 創作する行為はひとがひとたるものとしての意識にふれる行為である。

意識はとても脆いものである。思考は意識とともに立ち上がっているのだ。
思考とはわたしがわたしたるもののオリジナルであることの存在を浮かびあげる。
で、中身は現在の演劇であるのだか、わたしがわたしをいきての演劇がなにものとしてあるのか。
自分の精神状態の不安定なところからおいていたこてに気がついた。なるほど、思考は冒険から、停滞にあったのか。この停滞は老いることとも結び付く。
老いることの現在性が演劇の未来にあるように思う。
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