むかわの阿呆演劇日誌

演劇についての劇日誌やつれづれの演劇、映画の感想や日々のつぶやき。写真もあげます。

気持ちをふりすぎず。

2010年01月24日 20時59分27秒 | Weblog
 芝居にそれも集団を作りながら場合、人間のそのひとの業(背負うもの)まで、みえてきて、間違えてもそれを芝居で、うつしだしたことをしても、それをただすことはしてはいけない。

 芝居はある結界をつくること。
 それだけだ。
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明日は老人介護施設にて公演。

2010年01月10日 23時30分03秒 | Weblog
 明日は京都市北部の老人介護施設にて、大衆演劇歌謡ショー「男は笑おうよー寅太郎旅日記」の本番である。で、今日は休日のロング稽古。夕方には終わろうと思っていたが、納得いくまでの稽古開始はした。ここのところ、ひとは常に新しいところで新しいことをするには、当然の生命防御としての緊張がおこるもである。その事をふまえて、どうその緊張を緩めながら、いい意味での集中ことに変えるのかというには、稽古にて演出、役者が納得がいくまで稽古をすることである。もちろん、稽古でしたからとはいえ、本番そのとおりになるわけがない。常に生きているからで、でも、稽古でしたこといがいのことは表現されえない。つくづくわかることである。稽古も本番もくりかえし、くりかえし。今日ははよ、寝よう思ったが、こうして明晰に脳が反応しているのは、生命活動をヒートアップしていることになっているのかも。
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間(はざま)

2010年01月08日 00時27分18秒 | Weblog
 芝居の現場から芝居の現場、間に仕事の現場。どこもひととの関係において、支援したり、受け止めたり、関わったりする。
 芝居の現場がなぜかかわり続けたいと思うのか。
 いろいろな演劇の先人たちのことばになるほど、と思いながらかんがえるのだが、それはわたしが存在するからだといえるのではないか。
 わたしというものがこのような個別現象存在として感じ取れる流れのなかに、演劇が関係するのではないのかと思うのだ。
 いまだに、なにが正解なのかはわからない。ただ、そこに表現したいと思うひとにそのエネルギーを交通整理をしながら、いま、ここの磁場でしかあらわれないものを創っていくこと。
 いつのまにか、じぶんを表現したくてと参加動機をいうひとに自分を表現することから遠ざかることでそのひとが化けていくのは面白い。

 あまりにも、ことばがイメージ表層としてのものとしてしかない流通され消費されている使われ方に不毛を感じるからかもしれない
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動き出すと。。。

2010年01月05日 00時41分24秒 | Weblog
 実際に日常のひとにあったり、あいさつやひさしぶりの仲間とはなしているうちに、神経はすっかり、日常のなか。この感じも幻想にすぎないのであるが、この周波にひとがはっしているため、会話をしようとすれば、そのなかにあるのだ。わたしを演じているなどといったするがそんなに演じることを意識化しなくとも、ひとはわたしのひとりの状態とは違うわたしとして成立させながら、ひとと関係する。
 ただし、それは自分だけではない、相手のありようで自分は変わっていく方だ。
変わり方はわたしなりの同じものであるかもしれないが、変わることでなにかに反応しているようだ。
 夜は雷がなり、雹交じりの雨が降った。わたしを使った感じ。これが、生命的なわたしとのリンクで動きたいなあ。
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思考してみたら・・・。

2010年01月03日 22時37分36秒 | Weblog
 ふりかえることは必ずしも過去をみることとは限らない。ここに書き連ねていることは何かの強迫からはじめているのだが、ここにという思考空間が出来上がる。

 情報消費快楽社会において、思考することはこの情報、消費、快楽、社会。いづれも置き換えないものとなる作り出すことのようだ。では、考えるべきものがあるのかといえば、そう簡単にはない。強いていうといきていることとは演劇なるものとは関係はいかに。と考えてしまうのである。

 追われてもこの演劇行為をつづけることがなにをなすのか。もはや、意味とか役にたつとかのことはそれはそれでいい。

 意味もなく、役にもたたない演劇なるものはなにかを思考する。

 誤解なくいえば意味ある、流行的に、役に立つ芝居を否定するのではない。
 それはわたしにとって正反対の価値軸にあるものではない。あれか、これかでは
 なく、あれも、これも。つまり、選択価値の問題ではないということだ。
 演劇なるものはそんな幅の狭いものではない。
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大衆演劇 劇団花吹雪

2010年01月02日 21時44分30秒 | Weblog
観劇日:2010年1月2日(土)PM12:00~3:10 浪速クラブ

 昨年からめでたいはじまりを大衆演劇観劇からはじめる。テレビのおせち番組のまあ手抜き加減では芸をみた気になれない。

 やはり、舞台は生ですね。大阪大衆演劇老舗、浪速クラブにて、劇団花吹雪で観劇幕開け。昼の部でもあったのでなんとか入れた。セーフ。正月料金で1700円。いつもの500円アップ。劇団より粗品としててぬぐいのプレゼント。

 第1部は正月しかみれない寿式三番叟。きらびやかで祝詞のなかで祝いの舞い。お米をまいていました。

 第2部はお芝居、人情時代劇「仙太郎変化」。故郷信州松本でこころに誓ったおさよをさがして、江戸の町で貧乏ながらも暮らす旗本たちといっしょになってさがしている。同じ身の上のおかよをさがす旗本を手伝い、悪どい取り立てのかたに、代官に手込めにされようとするおかよを助け出す仙太郎。おかよを救いながらなぜこんな身の上になったのかと聞きながら、まさか、そのひとが自分のざがしているおさよ自身であった鳥目を患い、もう夜明けがくるてまえで、いまのつれあいの旗本とともに小舟にのせ、逃がしていこうとする前にと、せめて、夜があけて、かおがみたいというおさよ。早くいきなせいと押し出す仙太郎。遠く遠く離れていく小舟から、仙太郎さーんとなんども声が聞こえてくる。残る仙太郎はぐっと思いをかみしめてとめどなく流れる涙にむせぶのであった。
 若くてりりしい顔の役者が多い劇団花吹雪。少し遊びが多くて、芝居のしまりは弱いところもあったが、若いこころの恋せつなさが見られた芝居であった。

 第3部は花吹雪ショーということで新鮮でさわやかな感じで華やかさを演出していた。やはり、長淵剛を使っていましたね。氷川きよし白雲の城もかかっていました。最後は夢芝居。きれいな舞いですね。大入りで三本締めをするのはいいです。
3時間10分強。老夫婦(おそらく70歳を超えている)がよたよたと二人手をつなぎ支えあいながら、帰っていく姿に。ハイカラな姿をみるようだ。

 帰り、ナンバを通りぬけると尋常じない人混み。新世界も串カツやにはやたら若いひとや家族連れ。文化がほんと切れている。新世界は串カツやだけの文化じゃないよ。いろいろあるので大衆演劇の小屋ものぞいてね。

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2010年演劇なるものへ。

2010年01月01日 23時33分25秒 | Weblog
 さて、またも、書かなくなっていましたが、そろそろ、もうさりげなく、考えていることを気軽に書いていこうかな。

 あまり、これと思うと、構えてしまう。

 もちろん、ことばとはそういう返しがかならずあり、ブログといえど、ことばにしたら、その考えや思いなるものの責任はともなう。

 どんなことばであろうと、発したものがそのことばに規定されていくのだ。

 でも、いいや。ことばにしなくても、なにかを、それも演劇なるもののことを
考え続けているのだから。
 
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