寝る前に暑くて開けていた窓を、昨夜は「寒いから開けないでおこう。」と思って、ふと生活が秋仕様になったな。と感じた。
九月の上旬になると、壁時計の下にデジタルで表示された月日が、一日一日を刻々と刻んでいった病院の待合室を思い出す。
それも今年で11回目。
夏の初めに入院した母の余命は、あとひと月になっていた。
九月に入ると急に、それまでも見ていた日付が、妙に目につくようになった。
でも、思い出す度、8日辺りでぼんやりしてくる。
その後は、数えるのを止めてしまったんだろう。
母の記憶といえば、先週の日曜日に愛知芸術文化センターを訪ねたら、オノ・ヨーコさんの提案する一般参加型作品の企画が催されていた。
8月10日〜10月27日の期間、廊下のキャンバスにそれぞれの母親との思い出や写真を貼っていき、展覧会終了後に一つの作品になるというもの。
お母さんたちは、みんな愉快に笑っている。
中に、旅館の部屋で、長い黒髪に浴衣の、寛いだ笑いを投げかけている綺麗なひとの古い写真があった。
その下に手書きで、「 (中略) 今はもういない、今はもういない、大切なひと」と添えられていて、その文字に見入ってしまった。
たいていのお葬式の写真は、真面目な顔をしているものが多いけれど、こんなふうに何気ない日常で盛大に笑っているものの方が、わたしは慰められる。
家ではあの年、本当にひと月後に逝った母のお葬式から帰って、当時(我が家で)よくかけていた「亜麻色の髪の少女」を居間のステレオで威勢よく流した。
そういえば高校の頃、従姉の結婚式で両親への手紙が読み上げられ、感傷的な曲に彩られて花束を贈呈しながら親子が涙していた時(それはそれで感動的なものだったけれど)、円卓でわたしの右隣りに座っていた母は、
「あなたの時は、あんなふうに悲しくさせないでね。いってきまーすって、笑っていってね。」
と囁いた。
「え、それでいいの?」
と、その時は肩すかしな気分だった。
母と最後に会った晩、ひとしきり話しつかれた母は、
「お母さん少し休むね。早く行きなさい。」
と精一杯の笑顔で、弱々しく手を振り、病室を出るわたしを見送ってくれた。
この笑顔を覚えておこうと思った。
本当は、「早く行きたい」ところなんてなかった。
それから一週間後、訃報を受けて東京から帰る翌朝、最寄駅が白々と銀色の朝日に輝いているのを見て、ぐっと胸が詰まった。
「ああ、もういないんだ。」と。
その後の記憶は、扉の開け放たれた家の玄関。
廊下を廻りこんで、三か月前まで日本画を描いていた母のアトリエに入ると、還ってきた母は、見事なほほ笑みを浮かべて眠っていた。
入院中の毎日を想うと、「ああ、今こんな安らかでいてくれてよかった。」と、ほっとして救われた。
あの頃の日々は、悲しみと美しさが際立っていた。
冴え冴えとした深い秋の晩、葬儀から戻ると、玄関扉の正面にいっぴきのガマガエルが、まっすぐにこちらを見上げ陣どっていた。
およよ。と立ち止まり、遠巻きにそおっと扉に近づいていったが、いつも鉢合わせるとのっそり重そうなジャンプでわたしたちを避けてくれていた彼は、その時、一向に動こうとしなかった。
母はよく庭で、
「あ、ガマちゃん出てきた。」
と声を弾ませ、夕方になると周りの植え込みに水を撒いて湿らせていた、家族で唯一、ガマくんに親しい人だった。
あれからしばらくして、いつの間にか彼らの姿を見かけることはなくなったが、あれはどうも、母からの「ごくろうさまでした。おかえり。」だった気がしてならない。
かうんせりんぐ かふぇ さやん http://さやん.com/
九月の上旬になると、壁時計の下にデジタルで表示された月日が、一日一日を刻々と刻んでいった病院の待合室を思い出す。
それも今年で11回目。
夏の初めに入院した母の余命は、あとひと月になっていた。
九月に入ると急に、それまでも見ていた日付が、妙に目につくようになった。
でも、思い出す度、8日辺りでぼんやりしてくる。
その後は、数えるのを止めてしまったんだろう。
母の記憶といえば、先週の日曜日に愛知芸術文化センターを訪ねたら、オノ・ヨーコさんの提案する一般参加型作品の企画が催されていた。
8月10日〜10月27日の期間、廊下のキャンバスにそれぞれの母親との思い出や写真を貼っていき、展覧会終了後に一つの作品になるというもの。
お母さんたちは、みんな愉快に笑っている。
中に、旅館の部屋で、長い黒髪に浴衣の、寛いだ笑いを投げかけている綺麗なひとの古い写真があった。
その下に手書きで、「 (中略) 今はもういない、今はもういない、大切なひと」と添えられていて、その文字に見入ってしまった。
たいていのお葬式の写真は、真面目な顔をしているものが多いけれど、こんなふうに何気ない日常で盛大に笑っているものの方が、わたしは慰められる。
家ではあの年、本当にひと月後に逝った母のお葬式から帰って、当時(我が家で)よくかけていた「亜麻色の髪の少女」を居間のステレオで威勢よく流した。
そういえば高校の頃、従姉の結婚式で両親への手紙が読み上げられ、感傷的な曲に彩られて花束を贈呈しながら親子が涙していた時(それはそれで感動的なものだったけれど)、円卓でわたしの右隣りに座っていた母は、
「あなたの時は、あんなふうに悲しくさせないでね。いってきまーすって、笑っていってね。」
と囁いた。
「え、それでいいの?」
と、その時は肩すかしな気分だった。
母と最後に会った晩、ひとしきり話しつかれた母は、
「お母さん少し休むね。早く行きなさい。」
と精一杯の笑顔で、弱々しく手を振り、病室を出るわたしを見送ってくれた。
この笑顔を覚えておこうと思った。
本当は、「早く行きたい」ところなんてなかった。
それから一週間後、訃報を受けて東京から帰る翌朝、最寄駅が白々と銀色の朝日に輝いているのを見て、ぐっと胸が詰まった。
「ああ、もういないんだ。」と。
その後の記憶は、扉の開け放たれた家の玄関。
廊下を廻りこんで、三か月前まで日本画を描いていた母のアトリエに入ると、還ってきた母は、見事なほほ笑みを浮かべて眠っていた。
入院中の毎日を想うと、「ああ、今こんな安らかでいてくれてよかった。」と、ほっとして救われた。
あの頃の日々は、悲しみと美しさが際立っていた。
冴え冴えとした深い秋の晩、葬儀から戻ると、玄関扉の正面にいっぴきのガマガエルが、まっすぐにこちらを見上げ陣どっていた。
およよ。と立ち止まり、遠巻きにそおっと扉に近づいていったが、いつも鉢合わせるとのっそり重そうなジャンプでわたしたちを避けてくれていた彼は、その時、一向に動こうとしなかった。
母はよく庭で、
「あ、ガマちゃん出てきた。」
と声を弾ませ、夕方になると周りの植え込みに水を撒いて湿らせていた、家族で唯一、ガマくんに親しい人だった。
あれからしばらくして、いつの間にか彼らの姿を見かけることはなくなったが、あれはどうも、母からの「ごくろうさまでした。おかえり。」だった気がしてならない。
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