名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

@ 非論理エッセイ 【吉田兼好(徒然草)】

2021年03月15日 | 日記
 名利につかれて静かなるいとまなく、一生を苦しむこそ愚かなれ。(「徒然草」より)

 名利自体が悪い訳ではありません。虚名に憑かれ心を乱すなという意です。この言葉は正解です。確かに、名声を誇るなど、毒の塊を頭に乗せて威張っている様なもの。「あらゆる名声は虚名」と云い切って先ず間違いありません。

 逆に考えれば、正しい見地さえあれば、虚名である名利程度の事は気にもならない。名声たる聖も虚名なる凡も同じく空(くう)と考えるのが【禅】の姿勢です。真禅風に考えてみましょう。

 名利を徒らに厭(いと)い、光無き人生を寂しく迷うこそ哀れなり。

 通常名声に囚われる人々は、才能があると錯覚しています。が、そんなものは訓練次第で何とでもなる。記憶能力や計算能力、或いは物理的な表層技巧に根差しており、多寡の知れた才能ゆえに虚名を自慢なさるのです。これは、政治経済界ばかりでなく、音楽や絵画、文学や演劇界でも顕著な現象かと思います。

 名声を三角帽子の代りに被る方々には、人として肝腎かなめとなる「正しい見識」がありません。逆に見識のある本ものの人物は、名声などあっても無くても気にしないものです。

 街の喧騒から離れ、山奥の禅堂で数年間瞑想修行にふけっても、失くした心は取り戻せません。狐憑きに等しい神秘体験から、宇宙の真理を見失う修行者が多い。本ものの人物であれば、それを虚しく捉える日がいつか来ます。瞑想は、答えではなく単なる手段の一つに過ぎません。人の心に真理の芽が無ければ、百度生まれ変わっても迷いの世界を彷徨(さまよ)う事でしょう。詰まりは、名利などあってもいいじゃないか。その程度の事は気にならぬ心が、正しい見地かと思います。

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