猫の住む街駅前珈琲店

家に帰る前にひと休みしていきませんか?最近はB T Sと韓流ドラマとフラダンスにはまってます。

台風の中、両家顔合わせ。

2022年09月19日 10時51分03秒 | 家族のこと

稀にない大型台風が来ています。

昨日そんな中、大阪まで息子の結婚相手の親御さんとの顔合わせに行ってきました。

昨日の朝、横浜の家を出てから、大阪でも、日帰りで夜自宅に帰って来る時も、

一粒も雨に濡れることはありませんでしたが、家に着いて10分後に雨が降ってきたのでした。

なんということでしょうね。何かが味方してくれてるってことですかね。笑

 

息子たちが用意してくれたホテルの和食レストランで昼食。

品数も多く美味しくて、しかも飲み物フリーにしてくれたので、昼酒が進むこと。あとからミシュランのお店と判明し納得です。

お母さんはとても気さくな方で、お酒と韓流ドラマが好きな、お話上手でお友達としても付き合っていきたいような愛情溢れる方でした。

 

この機会に聞きたいことがありました。

「お母さんからみて、お嬢さんはどんなお子さんですか?」

「本当に真面目な子です。かわいそうなくらい真剣に取り組む子です。」

それを聞いて彼女はポロっと涙をこぼしました。

そのあと、お母さんは「先にお話しした方がいいと思います」と言い、彼女が小さいときに離婚したことを話しました。

そして、同居のおばあちゃん、おじいちゃん、お兄ちゃんに可愛がられて育ったと言いました。

父の愛情を知らないのでよろしくお願いします、とも言いました。夫も父親となるので責任重大です。

姉妹のような母娘で、なんでも話し合う仲良しな母娘。

どれだけ大事に育ったのか。嫁にもらうこちらとしては身の引き締まる想いで、私もポロリと涙がこぼれました。

 

「息子のどこが好きですか?」これも聞きたいことでした。

「優しいでは言い足りない」と彼女は言いました。お母さんも、「よく気が付いて、お父さんのような気づかいもしてくれて。」と、息子を大変気に入ってくれているのを実感しました。

息子は彼女の好きなところは、飲みっぷりが気に入ったと冗談交じりに言い、私は息子の優しいエピソードをいくつか話し、楽しい会食でした。

末永く笑いの絶えない暮らしをしていって欲しいと、親たちからの願いを言い、

結婚届の証人の欄に記入してお開きとなりました。

 

解散したあと、行きたかった通天閣へ行きました。

マリンタワーより低いかな。でもこれがいいんです。大阪弁しゃべってる新世界の街が映画のセットみたいで、

夕方なのに道端で酔いつぶれてる人が3人くらいいたけど、それさえもお芝居みたいで楽しい街でした。

これからはもっと大阪を往復し、詳しくなると思うと楽しみです。

 

 

 

 

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娘と息子の事

2022年06月30日 05時54分18秒 | 家族のこと

ブログを読み返していたら、2019年には2月に書いただけだった。

その2019年の秋には、娘がまた一人暮らしを始めていた。書いてなかったけど。

なので、かれこれ2年半以上夫と二人暮らしになっています。

私の周りには、そんなふうに子供が独立して夫婦二人になった人が多くいて

気楽な老後に入ってきたんだなと思います。

 

今、娘はうちから1時間半かかるURに住んでいて、月に数回は私が食べ物を持って出向きます。

大型UR団地で、駅からはバスで遠いけど、敷地は広く車も入って来ず、

スーパーも郵便局も病院も学校もそろっていて、レトロな映画のセットの中で暮らしているようで、

私は大好きです。

この2年半で、娘は漫画家になりました。びっくりでしょ?

通勤が無いから、駅から遠くても暮らせるってわけです。

 

現在娘は、週刊漫画雑誌に連載を持っていて、コミックスも出ているので

順調に仕事になっています。

ただひとり仕事なので、メンタル面を気にしてはいます。物を生み出す仕事は苦しむので。

編集の仕事をしている時から描いてはいたけど、出版社を辞めて専業になりました。

彼女の経歴もまた面白いものになっています。

 

そして、大阪に転勤になって1年半の息子も、彼女ができて

2週間前に私たち家族に紹介してくれました。大阪から二人でわざわざやって来たのです。

大阪のお嬢さんで、明るくて気持ちの良い娘さんです。

「いつも楽しくしてくれて、感謝しかないです」と彼女は言いました。

私はお義母さんに夫の事、そんなふうに言ったこと無かったな。

息子は、もうお正月に彼女の家族とお会いしていて、関西風のおせちをご馳走になり感激していました。

娘とはプレゼントのやり取りもしていて、「いい子だよ」と娘からは聞いていましたが、

お姉ちゃんを味方につけるとは、息子も根回し万全だね。

それに彼女もBTSファンで、娘と私と話しが盛り上がりました。

 

後日、息子から私と夫にそれぞれ電話がかかってきて、

どんな印象だったか聞かれました。

結婚も考えていると言い(まあ、そうでしょうね)、私たちへの根回しも完璧です。

 

ぼんやり初めの頃のブログを読んでいたら、息子、小学6年生だったんだな。

2005年からだから17年も経っちゃった。

家族も減ったり増えたり、時が流れるってそういうことですね。

子供たちの未来を考えると楽しみだなぁ。

 

 

 

 

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2か月経ちました。

2022年03月08日 10時21分33秒 | 家族のこと

母が1月7日永眠しました。ちょうど2か月経ちましたね。

母は、透析している病院のそばの老健に入りましたが、結局は1週間ほど入居しただけで、

透析中に血圧が下がりそのまま、また入院となりました。

元気な時に「透析は続けてほしい」と医師に話していたらしく、

「透析が逆に命を縮めることがあるかもしれないが、1時間でもできる時に透析をします」と、

私たちは、先生から説明を受けた。

今まで何回も心臓が苦しくなり、救急車で運ばれたが、透析をして水を抜くと元気になったので、

母とっては、透析に生かしてもらっていると思っていたのだろう。

最後まで頼みの綱だったのだろう。

大好きな病院で、長く看ていただいた先生と看護師さんのもと最後を迎えられたのだから、よかったのではないかな。

 

この2か月は私にとってもリハビリでした。

切羽詰まった状況だったので、ゆっくり元に戻す必要がありました。

もう少し好き勝手にしてから、次に進もうと思います。

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介護アルアル

2021年12月03日 15時32分58秒 | 家族のこと

母が入院して3週間経った。

先生から施設に移る話を聞いて、母は一泊家に帰りたいと言う。

そうでしょうね。家に帰れないと思って入院していないもんね。

けれどなんとなく母は、家族が先生に頼んで入院させたと思っているふしがある。

面会に行っても不機嫌で家に帰りたいと言う。

入院してから体調が安定してるから、入院している意味がないと思っているようだ。

入院前日は、一晩にニトロを2粒もなめたりしていたのに。

7月と9月は救急車で運ばれたのに。7.8.9.11月にそれぞれ入院しているのに。

入院しているから食べられないけど、家に帰れば食べられると思っている。

 

今までいろいろやってきたのに、恨まれているようでガッカリだ。

訪問看護師さんや透析のスタッフ、病院の先生たち、たくさんの人に優しくされて、それが当たり前になっている。

私が実家で専門介護士みたいについているのも当たり前になっている。

 

看護師さんに、こんなことを話すのは気が引けたが、思っていることを電話してみた。

「家族に捨てられたと、患者さんが言うのはアルアルですね。(つまりよくあるってことです)

ご家族や看護師にそうおっしゃる人もいますが、(母は)マイナスなことはおっしゃいませんよ。

心の整理がつかないだけで、あまり重く受け止めないで割り切ったほうがいいです。

それがご本人とご家族のためです。今回の一泊もご本人は最後と思っていると思います。」

と言ってくれた。

救われた思いだった。母だけじゃないんだ。

 

他人のふり見て我がふりなおせ、じゃないけれど、私は家が一番という考えは無くそうと思う。

人間は身ひとつで生まれてきたんだもの。

どこで死んでも、今まで生きてきたことを思い出して、やり残したことはないかなと思い起こし、

すべてに感謝して死にたいと思う。それが理想だな、というか目標だな。

刺繍や編み物が得意な母はどこへ行ったのだろう。

一泊帰ってくるのを渋っている私を、弟のお嫁さんが

「腹をくくって連れて来よう。あとあと後悔しないように」と背中を押してくれた。

この数か月、お嫁さんとは同志のような関係になった。もともと同い年だけどね。

一人では決断できないことを、相談して決めた。愚痴をこぼしあった。

縁は不思議なものだね。

最後が近づいている母の気持ちに、寄り添えない自分にも驚きだけど、しょうがないと割り切ることにした。

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2021/11/5 医師と面談

2021年11月06日 11時08分08秒 | 家族のこと

母がずいぶん弱っている。

担当医師と面談する。

「肺水腫は終末期です。家で看るのは大変なので、入院し透析のできる療養型病院に転院しましょう」と言われる。

先日透析センターとの連絡帳に入院させてもらえないかと書き込んだので、面談することになり、医師も同意してくれたのだ。

内心ホッとした。

先が見えない介護・看護で、最近は特に母は「息苦しさ・痛み・だるさ」があり、家族では対応できずハラハラした毎日だった。

9月から実家にたびたび泊まり始め、10月は平日は実家、週末自宅に帰る単身赴任みたいだった。自分のメンタルをどうにか保たせている。

どうしても母は私を頼る。なにげなく訪問看護師やケアマネも「娘さんが泊まってくれると安心」と言う。これがどれほど重かったことか。私ではなく専門の人にそばについててほしい、そう思った。

それでも今の時代は、介護者に優しい。友達も医師も看護師も「無理しないで。自分を薄情と思わないで」と言ってくれる。その言葉に、どうにか優しくしなくちゃという想いに立ち戻れる。

1週間後入院が決まった。先生から入院の話は母にしてもらうつもりです。認知症でもない母に告げるのは大変で、先生の言うことは絶対なので。

その後、家に戻ることもないだろうな。それが胸が痛いところです。

 

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弟がコロナ陽性になった後。覚書。

2021年09月26日 10時34分02秒 | 家族のこと

8/10弟が発熱、8/12コロナ陽性になった。幸いにも微熱ですんだ。

【会社で2名陽性者が出ており、そこからの感染だ。同居の弟の妻と娘は濃厚接触者だが陰性。二世帯住宅の1階に住む母は、濃厚接触ではないはず。しかし透析を受けているため、透析には家族が連れてきてほしいと言われる。2階はみんな自宅待機になってしまい、このまま実家に母を置いておくわけにいかず、私とウイークリーマンションに移ることを真剣に考えるが、婦長さんが母の体調を考えるとやめたほうが良いと助言される。】

 

8/13透析。母PCR陰性。夕方から母発熱。

8/14病院に相談し、朝は解熱したので透析に行くが、透析中に38.5度に上がったため、他の病院に入院。入院時と退院時にPCR陰性。熱の原因は腎嚢胞と尿路感染と後日分かる。

【入院した病院は大規模の病院で、特別室の個室に入ることになる。要介護2の老人には過酷で、一日に3回くらい「看護師さんが来てくれない。水も手が届かない。地獄だ」と携帯から電話が来た。そのうちせん妄が出て、部屋に虫が沢山いると言う。夢と現の境からの電話は怖くもあった。今なんとかしなくては認知症になると思い、医師に、なるべく早く大部屋に移してほしいと言ったが、移った部屋も個室で今思えば2週間の隔離だったと思う。その間心筋梗塞を起こしカテーテル。】

8/29大病院退院。

【体力が急激に落ちる。立ち上がることができなくなる。介助のため実家に泊まり込む。玄関前にスロープをレンタルし、車いすのまま透析の車に乗り込めるよう準備する。トイレの置き型手すりもレンタルする。低血圧、便秘に苦しむ。いつも来てくれている訪問看護師さんに助けられる。】

8/13~17 初めてのショートステイ。透析病院のそばの老健で通院も施設がやってくれるので利用。

8/20 21時ごろ呼吸が苦しくなり、救急車で透析病院へ搬送、入院。心不全と肺水腫。

【7月も月曜日に救急車で搬送されている。透析が2日空くと水が溜まり苦しくなる。魔の月曜日。透析をするとおさまることが多い。今回は胆泥も見つかり、薬を服用することになる。医師に相談し、歩くリハビリを少しやってもらい様子をみてもらうことにする。現在入院中。】

 

本人がコロナにかからなくても、その影響を受ける人が沢山いるということだ。今回は高齢者を受け入れてくれた病院に感謝するとともに、多忙なあまり患者を人と見れなくなる怖さも感じた。まだまだ介護と看護は続きます。

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自分の親じゃない人を介護する事。

2021年08月06日 17時59分22秒 | 家族のこと

母が透析をしています。

水分調整をしているからか、心臓周りの血管が石灰化して時々心不全を起こし、

救急車で運ばれます。

先月もそれで救急入院し、5日で退院してきました。

 

母は88歳ですから、いつ何があってもおかしくないと思っています。

でもこのまま、立ち上がるのも難しくなり、透析の送迎の車に乗れなくなったらどうしたらいいんだろう。

家でも酸素をするようになったらどうしたらいいんだろう。

 

弟のお嫁さんが同居しているので、二人で話しました。

ケアマネさんに相談したところ、そうなった時に相談しましょうとのこと。

老健に入って、そこから透析に行くのだろうか。

 

訪問看護師さんに話したら「最終的に透析をいつ辞めるかという話になりますね。先生の判断で。」

そうか。そういうことか。

透析ありきで、家を離れることばかり考えていたけど、

透析を止めて最期を家で過ごすということもありなんだ。。。。

本当に最後の最後の話だけど。母の気持ちと私の気持ち次第。

お嫁さんには迷惑かけたくないけどさ。

 

分かっているよ。母も嫁だったし私も嫁だった。

自分の親じゃない人の介護をする事。

どうであれ、母には苦しまないで欲しいな。

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家系図を作ろうか。。。妖怪アマビエとつながった。

2021年06月22日 09時46分48秒 | 家族のこと

戸籍を見る仕事を少ししていたので、古い戸籍を見るのが好きです。

昔の戸籍は手書きで、書く人のくせがモロに出ていたり変体かなの名前が出てきたり、読み解くのが楽しい。

古いものはマイクロフィルムなどで保管して、現物は処分されたりするんだろうか。

 

そうこう考えているうちに、父の戸籍をたどってみようと思い立ったのです。

横浜市内の実家のそばの区役所で、父の出生から死亡までと家系図作成を理由にたどってもらいました。

同じ横浜市内であれば、他の区の本籍も調べられるとのことで、20分ほどでその場ですべて分かりました。

私の祖父の祖父まで名前が分かりました。200年以上も前の祖先を思うと不思議ですね。特に商売をしていたわけでもなく、お百姓だったと思います。

一番古い戸籍に「弘化元年」という文字が読み取れて、役所の方が「こんな古い年号が出てきたのは初めてです」と言っていました。

弘化元年は1844年です。でもこれは家督相続された年で、祖父の父の生年月日はそれより前の文政2年(1819年)でした。これがこの戸籍の中で一番古い年号です。

あれ?なんだか年齢が合わないな~~( ;∀;)70歳過ぎの子供が祖父ということになるなぁ。。。達筆すぎて年号が読めない。。。もう少し調べる必要があるようです。

 

そして相続の2年後、弘化3年に妖怪アマビエが出現しています。

アマビエ:1846年(弘化3年)4月中旬に、肥後国(現在の熊本県)の海岸に出現した三本足の化け物。猿のような声で6年間の諸国の豊作と流行病による死者続出を予言し、続いて自分の姿を描き写す者には害はない、と告げて海中に戻ったといいます。この流行時に三本足のアマビエの姿の摺り物(イラスト)が市街地を中心に、たくさん販売されたといいます。今もいろいろなアマビエの商品がありますが、コロナにも効果があるといいですね。

その後、嘉永6年(1853年)にペリーが来て、安政2年(1855年)年に江戸にM6.9の直下型地震が起き一万人以上が死亡、安政6年(1859年)安政の大獄に続きます。

幕末、維新とかなり身近に感じてきました。と同時に戸籍について調べてみました。

 

戸籍の制度は、古くは大化の改新の頃からあったようですが、平安時代には戸籍の作成は行われませんでした。税金逃れの不正が行われたからそうです。

安土桃山時代、豊臣秀吉によって行われた「太閤検地(たいこうけんち)」で年貢を取り立てるため国勢調査のようなものが行われました。

江戸時代になると、お寺が作成した過去帳が戸籍の役割でした。分限帳という武士の役職が載った名簿もありました。

文政8年(1825年)に長州藩(今の山口県)で戸籍法が施行されます。祖父の父が生まれた頃です。この法律こそが近代戸籍法の原点とされていて、現代につながる戸籍制度の始まりといえます。

明治5年に国としての本格的な戸籍制度が開始され、「壬申戸籍」と呼ばれる全国単位の戸籍が作られ、現行戸籍の基礎になりました。

私の祖先は、おそらく農民で他の地に移ることもなく、お寺の台帳を戸籍に写したので、古い記録が残っているのではないでしょうか。お墓参りに行くと、私の旧姓のお墓ばかりです。そこに親戚もみんなが住んでいたのでしょう。

 

この後は、母方の戸籍と祖母の戸籍をたどり、夫の家系もたどるつもりです。

地方の役所から取り寄せるには、戸籍を取る理由などを書いて、郵便為替を多めに送れば返送してくれるそうです。

ちなみに今回は、7通の戸籍をとり5000円近くかかりました。一か所ですべて済んだので大満足です。

 

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私が覚えているよ。

2021年06月08日 10時40分14秒 | 家族のこと

4か月ぶりのブログです。

そして、このブログを開設してから5808日目だそうです。365日で割ると15.9年。ほとんど16年ですねー。

ふふふ、( *´艸`)つらつらとたわいもないことを書いてきたものです。

 

今日は母の近況です。

母は88歳になりました。父が亡くなって7年。それから毎週月曜日に実家に行っています。

週3回の透析と、週2回の看護師さんによる入浴と、週1回のリハビリを受けているので、空いている日は日曜日だけ。多忙な毎日です。

目も耳も達者なので、刺繍や編み物をしていますが、昨年くらいから編み物がへたになっているのが分かります。

模様編みが上手くできない。出来上がったものが小さいなど、作ってはほどく、を繰り返し、ちょっと嫌気がさしているようです。

実家では、お昼ご飯をいっしょに食べ、お風呂の用意をし、やってきた看護師さんと雑談をして、お風呂が終わった後はyoutubeを見て過ごしています。

私の好きなBTSを観たり、ベトナムの刺繍をしている動画を観たり、ヒロシのソロキャンプを観たり。相撲の季節には相撲を観て。

私としては、母の脳に刺激を与えているつもりですが、最近は同じ質問をたびたびするようになりました。

「あの刺繍は何本どりかね」と母。「6本どりじゃないの?」と私。

「刺繍の手が早いね」と母。「早送りだよ」と私。

そしてしばらくするとまた同じ質問。質問というより独り言ですかね。

 

さっき韓国ドラマの「たったひとつの愛」を観終わりました。

愛している天使が天国へ帰ってしまい、再会するときに記憶が無いかもしれない。

主人公は言います。「私が覚えているから大丈夫」

 

そうだなぁ。母もいずれそうなるなぁ。

私が覚えているために、この数年は実家に行っているんだなぁ。

そして、娘と息子に私を覚えていてもらわないとね。順繰りですね。

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パウンドケーキを焼いた。

2020年10月17日 18時10分37秒 | 家族のこと

一週間の東京勤務を終え、息子は大阪へ帰っていった。

「淋しいだろ?」と夫が言うが、そんなこともない。

仙川にいた時と変わらない。

息子は一週間のうち、初日以外は毎日飲み会だった。当分お酒はいらないそうだ。

東京の人たちに送られて、大阪での自分の役割が分かった様子。

「大きく変えられないかもしれないが、隣の席の人のポテンシャルを少しでも上げられたら、それは君の業績だからね」

関連会社の70歳くらいの方に言われたそうだ。

いろいろな人の話を胸に刻んで頑張ってきてね。

 

ふと、ケーキを焼く気になった。

子供の頃、母が良く焼いてくれたパウンドケーキ。

そのころの本をもらってあるのです。

 

昭和45年発行 主婦の友社 320円

 

これを焼きます。そして面白いものを発見。

 

お菓子作りがじょうずになるために。「すなおな気持ちでとりかかります」

素敵!お菓子道のような感じ。今そんな事書いてある本ないですよね。

お菓子は特に、計量をきちんとしないと失敗しますからね。

だから、取り掛かりにくいということもありますけどね。

今日は、なんだかきちんとしたい気分です。

そうこうしているうちに出来ました。

写真のようにアンゼリカやチェリーは乗せないで、

クルミとアーモンド、レーズンにピールたっぷりの大人のスポンジケーキ。

香ばしく出来ました。

 

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