__ 文句をつけながらも、熱心に読んでいるブログ『伊勢-白山 道』のコメント欄📝での出来事でした。
最近、とみに投稿者の世代交代がすすんでいるのを感じる。
つまり、若年化してトント面白くなくなった。すべてが薄っぺらくなってしまった。
…… そんなコメント欄📝の環境のなかで、
ある日私が、「親ガチャ」を言うことが如何にヤマト心に逆らうものであるか、堂々と私見をのべた。
それに対する、コメント欄の反論は(レベルが)ヒドイものだった。
🟥 どうして、この手の浅はかなコメントが投稿されるのか?
根源的なことから、押さえておこう。
【サイト『遊ぶ数学』より引用】
「偏差値50」の人は、「ザ・平均人間」とすると、偏差値の分布は、正しく「ベル🔔・カーブ」を描く。
つまり、1000人の偏差値を調べたら……
「偏差値50以上」の人数は、半分の500人である。
「偏差値50以下」の人数も、半分の500人いる。
このうち、
「偏差値40〜60」の間に入る標準枠に入る人数は、683人である。
もう少し広く捉えて、
「偏差値20〜80」の間に、入る人数は、997人であり、ほぼ全ての人がココに入る。
大学入試などで使われる「学力偏差値」では、「偏差値60以上」が難関といわれる。
「偏差値60以上」を取る人数は、上位≒150人である。
「偏差値70以上」の人は、わずかに上位≒20人に過ぎない。
ここまでは、優秀な受験生として、よく耳にする偏差値であるが……
偏差値分布が、正規分布してベル🔔・カーブを描くということは……
低い方の、
「偏差値40以下」の人数も、下位≒150人であり、
「偏差値30以下」の人数も、下位≒20人ほど、間違いなく存在するのである。
文章の読解力のない人(「偏差値40以下」)が、全体の15%強で、
ほぼ6人に1人の割合だったが……
15%という人数割合は、行政でも無視できない大きな数字だということである。
日本人の文章読解力については、このブログの他の記事
日本人の読解力〜 8割の人は、 Twitter の文章を正しく 理解できない - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』
__どこのコメント欄を読んでもそうだが、なんでこんな甚しい読み間違えをするのかな、ちゃんと学校🏫教育をうけたのかな、あちこち拾い読みして早合点してて、これは付け...
goo blog
で、詳しく述べている。
つまり、不特定多数の出入りする掲示板なりコメント欄📝では、
確実に、「文字は読めるが、文章(文脈)は読めない」人々が存在する。
誰でも無条件で発信できる、ネット空間であれば、
その規模が大きくなればなるほど、かなりの「読解力不足な人」が参入してくることになる。
それが、コメント欄📝の論戦の場に現れることは、覚悟しなければならないだろう。
彼らは、反論はするけども「反証(エビデンス)」は用意していない。
こんな輩には、まともに応えてはならない。
語彙力がないものだから、なにかにつけては「ヤバい、ヤバい」を連発する、陽気な応援団みたいな人たちである。
>言を容れざる人と話すな(佐藤一斎『言志後録』より)
こうして話していると、浅慮な読者ばかりと思われそうだが……
たぶん年配の読者で、去年の年の暮れに、「日本人であること」というタイトルで、
「親ガチャ」という言葉に宿る卑しさと、その醜い内心を不敬であり忘恩である「親ガチャ」という言葉に載せて発すること自体が、日本精神の崩壊であると、警鐘を鳴らす御仁もおられた。(流石は、伊勢白山道読者なのである)
寝たきりの老人に向かって「家のお荷物」とか、内心そう感じていたとしても、日本人ならば口に出さない、相手を責めない処に、良心の発露があると喝破なされていました。
「恩を仇で返す」ような所業は、人非人のすることであると、決然と仰っていました。わたしは、いまだ真正の日本人がおわすことに堪らなく嬉しくなったものです。
まー、ここは私個人の発信場所だから、ここでも「親ガチャを言うのは人で無しだ」と言っておこう。
時系列で、伊勢白山道に投稿した拙稿を並べてみましょう。
いま思っても、リーマンさんはよく私の主要な投稿を掲載してくれたものだと思う。
同年代として、そのご配慮には感謝申し上げたい。
ありがとう御座います。
【以下、掲載🆙されたのが🔴印、不掲載となった拙稿は❎印をつけています】
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🔴 20240208
「親ガチャ」という言葉が、ひとの道にもとる、非道い言葉であることに気付けない人もいる。
自分を生んだ親を採点する人は、
自分を造った造物主(神)さえも、上から評価することになろう。
こういう姿勢をとれるということは、端的に「距離がある」ということである。親からも神からも離れている人だから出来ることであろう。
縄文以来、離れつづけてここまで離れたんですね、あなたがたは最先端ですよ。アックンとして合格ですね。
《私注》アックンとは、悪魔の隠語で伊勢白山道用語。
リーマンさんは、より詳しく悪魔に憑依された「人間」のことだと言っていた。
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❎ 20240209
親ガチャを口にするアックン
まず基本線をいっておこう。
・親は直近の先祖であり、親孝行とは先祖供養である。
・先祖にもそれぞれ両親がいたわけであるが、最初の先祖は神が造った。
・つまり、先祖供養は直接に神棚(神社⛩️)参拝につながる。先祖も神さまを拝んだからである。
・いま、生かされている自分を感謝するのは、つまり先祖を敬い神を崇める道である。
ーガチャという自販機は私もしたことがある。(カプセルトイをゲット)
反論のうち、違和感を覚えた箇所を引用すると、
> ゲームでもあるガチャでも結局抽選で何がでるかわからない。
【親は選べない】から、それぞれ違うっていうのを軽くカジュアルに言った言葉。
> 富裕層の子に生まれたら【あたり】だねとして親ガチャだなとなる。逆もまたしかり。
…… 抽選という偶然性の僥倖(ぎょうこう)を提供するものとして、「ガチャ」を言っているのだろうが、
親ガチャの場合は、「あたり」「はずれ」があるということね。(採点と一緒でしょ、裁くことです)
当たった人は運がいいし、外れた人は運がわるいと。
「親」にたいして行なう、こういう思考のベクトルそのものが、アックンのものだということです。堕落の一歩目だというのです。
最高峰の天使、光輝くルシファーが堕天使となったのは、「神(親)を選んだ」からです。
おのれを一番にしたかったからです。(高貴なるザ・セカンドだったのに)
子は親から派生したものであり、子あっての親ではないのです。
どんな親でも、我が子から「こんな親の下に生まれたくなかった」と言われるのは、堪え難い苦痛でしょう。親は、内心そう言われることを覚悟しているものかも知れません。子どもから言われるまでもなく、親自身は自覚しているものです。
「私は貧乏な家に生まれた」と「親ガチャでハズレた」とは、根本的に生きる姿勢が違うのですよ。
まー、論戦するつもりもないし、ここはそんな場ではないのだが…… (不掲載でもやむなし)
中高年が拘る「譲れない一線」なのだと思った。
戦後史でいえば、さんざん親に逆らってないがしろにしてきた「団塊の世代」は、わが子にそれを言ってはいけないと教えられなかった経緯があります。
しかし、その下のわたしの世代(新人類)は、その「親ガチャ」という言葉に「NO」を突きつけます。
それはダメだと教えておきます。
伊勢白山道と、「親ガチャ」を言う気持ちは真逆のものだと感じます。
加筆🖌️20240317
オレね、岡田斗司夫と山田玲司との対談を観て、やっと「親ガチャ」を言う若輩者に同情したんだよね。
理解したとは言うまい、あくまで同情だと思うんだけど、大学落ちて浪人していた時の自分が置かれた状況と、瓜二つなのに驚きました。
たしかに、自殺寸前まで追い込まれたなと、苦々しく思い出しているのですよ。
大学に入れない、親が望む「学校🏫の先生」に成れない、「良い子」でいられないというのは、当時の私にはまさしく身の置きどころの無い、悲惨な生存状況だったのは確かだったんですよ、不幸にもそう思い込んでいたのは紛れもない事実です。
ただ、これご先祖(遺伝子🧬)からのメッセージなのか、神の恩寵なのか、その寸前に胸からなのか肚からなのか、物凄い生命のほとばしりが湧き上がったのね。
どれだけ凄いかとゆーたら、いままで打ち沈んで萎れていた私が、にわかにまったく突然に、果てしない「自己肯定感」が湧き上がって、その喜びにのたうち回るような事態に直面したのね。
おおげさだけど、光明体験(スパーク)とでも言おうか(冷静に後から振り返ったときの命名なんだけどね)……
こんな生命力が、おのれの身内に潜んでいたんだという純粋な驚き‼️だったわけ。
だから、わたしの場合と同じように「自己肯定感」に襲われない若者たちが可哀想になったわけね。
この「自己肯定感」は、動画で岡田斗司夫大人がいっている「自分が嫌いというメタ認知=自分が大好き」と等しいのではないかと思ったね。
やっぱり、自分を嫌いになれないのね。
だから、「親ガチャ」を言う気持ちが分からないのよね。
【ゲーム🎮に、人生の多くの時間を費やした人間(40歳代以下の日本人のほとんど)は、ゲーム🕹️に対する付き合い方が、おのれの人生に対する接し方とイコールになっているという指摘には、唸ってグウの音も出なくなった。
・自分の人生(=ゲーム)の、初期パラメーター(見た目、遺伝的な特徴、親の年収、住んでいる場所等)は納得のいくものに設定しておきたい。
・ゲームはやめられるのにやり直せるのに、人生はやめられないっていうのは理不尽だという風に考えて当たり前じゃないかと。
・死にたいと言っている人は、人生を辞めたい(🟰生きていたくない)と思ってるんじゃないですかね。
・結果ださなかったら価値がないという刷り込み、つまり初期のOSを変えたい願望。成績が良くなければ、何かを買ってもらえない子どもが抱える「良い子症候群」とは、つまり「毒親問題」である。
・この人生(=ゲーム)やめたい、「これクソゲーだ!」しかし「ゲームチェンジできない」「リセットできない」という浅はかな思考回路。
・ゲーム🎮をしない人にとっては、到底理解できない、ゲーム脳🧠。
つまりゲームをやり込んだ人には本能の如く浸み込んでいる「面白くないゲームはやらない、こんなことやっていられない」という心情を理解できない。
こうした文脈から、「親ガチャ」という「初期OSにたいする不満」が出てくる。しかし、ゲームのようには初期パラメーターは変えることができない事を、理不尽なことと受け取る感受性(≒本能)。
ゲーム🕹️にのめり込まなかった50歳代以上には、到底理解できない心情である。】
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🔴 20240210
親ガチャのアックンでも大丈夫
(上記にあるように、加筆🖌️したので、無意味になった部分を以下適宜省略します)
…… コノ世で自分のまわりを客観的によく見廻してみれば、「見えざるお蔭」に気づかないわけにはいかないでしょう。「親ガチャ」なんていう言葉が出てくるはずがないのですよ。
わたしは、「親ガチャなどという言葉を使う輩はけしからん」と思っているような人間だから、伊勢白山道を読んでいるのです。
「親ガチャ」を言う心持ちと、伊勢白山道とは相容れないものでしょう。
いくら若者がつかっていて、人口に膾炙されたものと言われても、わたしは認めません。
これに関しては若者に合わせる必要は感じません。
あなた方がどう生きるかは、ご自身の問題です。
「被害者意識で台無しにせずに」生き抜いてほしいものだと思っています。
ただ、年寄りのあいつはこう言い張っていたなと認識してくれれば、それで十分でしょう。
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❎ 20240212
親ガチャ思想否定者より
自分の置かれた環境において、「見えないお蔭」のなかに、赤子の頃から全面的に親が世話してくれた「今は覚えていない恩」があるわけでしょ。
自分の赤子時代を想像できない人のために、古人の言を引用すると……
> …… 当に幼穉(ようち)の時の事を憶い起すべし。
・父母鞠育乳哺の恩、
・顧復懐抱の労、
・撫摩憫恤(ぶまびんじゅつ)の厚き、
・訓戒督責の切なる、
凡そ其の艱苦して我を長養する所以の者……
《現代語訳》 人は誰でも、幼少の時の事を思い起してみるべきである。
・父母が自分を養い育てて乳を飲ませてくれた恩、
・反復自分をいたわり、懐に入れたり、抱いてくれた骨折(ほねおり)、
・なでさすったり、あわれんでくれた厚き情、
・訓戒したり、責めなじったりしてくれた親切心、等々、
凡そ父母が艱難辛苦して、自分を成長養育して下さった事など
[※ 佐藤一斎『言志後録』川・上正光(訳)ーより]
…… 赤子がもっとも恐怖心を感じるのは「落下の恐怖」だそうです。まわりにいる親や兄弟姉妹は、赤子をあやしながら、落とさないように細心の注意⚠️を払い続けてくれたわけでしょ。
そうしたことを、まったく記憶にないからといって、「この親は外れだ、当たりだ」と、親を評定して、いま恵まれていない責任を親にかぶせる精神姿勢は、到底容認できないものです。
カジュアルに軽いポップ口調で言うことで、救われる子どもがいるというのも分からんではないが……
[※ 筑波大学の土井隆義教授(社会学)は「この言葉は親を責める言葉ではなく、子が自分を守る言葉だ」と指摘する。とはいっても、親を責める事になることに何故気づかないのだろう。]
基本的に、親のせい→家・先祖のせい→神のせい、と進むベクトルは、伊勢白山道の「生かされている」感謝想起とは逆行するものです。
親ガチャだけじゃない、最近のネットスラングは非道いものばかりです。
片親パン、和室界隈、アフガキ、
負け組ランドセル、チー牛、
子供部屋おじさん、子供部屋未使用おばさん等
…… 格差社会と申しますか、持てる者が持てない者を差別するネットスラングばかりです。
小中学校の不登校生徒が30万人を越え、「引きこもり」は中高年を含めて150万人にもなります。
ひとことで、Z世代のネットスラングと言われますが、抑圧された「こもりびと」が創作したものも多いでしょう。
自分たちが抑圧されているから、より弱者に向かって差別的なのだろうと思います。
かるがるしく、それらのネットスラングをつかうのは控えたいものです。
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やっぱり、いにしえの文人には、滋味掬すべきところが満載である。
先に引用した佐藤一斎は、「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」とも呼ばれた陽明学の一大高峰であるが、実に味わい深い箴言を、後世に遺しておられる。
西郷南洲翁も熱中した『言志四録』より
>性分の本然を尽くし、
職分の当然を務む
此くの如きのみ。
…… これなんか、職分(=ダルマ)と読めば、ヒンドゥー🛕の聖典『バガヴァット・ギータ』そのものであろう。
> 擬せんと欲すれば
即ち差う(たがう)。
…… 簡にして要諦をさらりと洩らす。作為でやろうという欲望を持つと、作為を思ったその瞬間に既に差し違えているとは、鍛錬によりわが身についたものしか、的🎯に中らないという入神の業を示唆している。
__ 今回、「親ガチャを口にする人」を非難したことから、コメントを連発して、結果他の読者から総スカンを喰らった形である。(あくまでも表層での出来事にすぎないが)
まったく頓珍漢な批判をしてくる読者は、拙稿をよく読みもしないで文句をつけてくる。
まったくの濡れ衣であり、そちらの読解力不足なのに、一方的に責められる。
この大理不尽!
この手応えの無さは、何かに似ていた。
今回、それが何なのか、ようやく気がついた。
ー禁煙🚭における、ニコチンの禁断症状に襲われるときに酷似しているように感じた。
不寛容であり理不尽である受け身の環境‥‥
これは、煙草🚬を吸えば即座に得られる快楽に、待ったをかけられたような塩梅なのである。
喫煙者からすれば、たしかにこれ以上の大理不尽はなきい、みずから禁断症状を全面的にうけいれて堪えているのだから。
だから、言われっぱなしの暴論を受け止めるだけで、自分の番(ターン)が来ないとき、これ以上の大理不尽はない。
つまり、応えの投稿をしても、ブログ主リーマンさんから不掲載にされる、無力感である。
よく似ているなと感心した。
禁煙🚭したときと、同じように凌げるということを、それは示唆していた。
なるほど、禁煙者は、途中でブツギレにされる投稿も平然と放棄できるはずである。
別の次元に移動するからである。
離見の見に、自分の主体を飛ばす感じだろうか。
仮想現実のマーヤー(幻影)から、一歩しりぞいて全体表裏を観る感じであろうか。
それにしても、ネット・コミュニティで所謂(いわゆる)「干される」というのは、禁煙🚭の味わいと相似だとは驚く。
禁煙🚭は、してみれば、ひとつの技術というか、境地である。小覚といいますか、次元移動といいますか。
意外なところにつながって、何やら「セレンディピティ」に見舞われた気分である。
気分がすこぶるよい。
くやしいが、また伊勢白山道に感謝申し上げねばならないようだ。
伊勢白山道のイビツさというものは、完全にクセになるんだよな、中毒なのかそぞろに心配になる。
リーマンさんに頼らず、自ら恃めばよしとしよう。
加筆🖌️20240317
理不尽なネットのコメント攻撃を嘆く前に、何故そんなにも烈しい口調で反論してくるのか、その根源に迫るべきだったのだろう。
いま、いたく反省している。
ただ、それぞれの置かれた環境の違いにはお互い「正しく認識しておく」べきだとは思った。
物心のつく頃から、ネットが当たり前の環境だった若者たちと、途中から IT環境に慣れなければならなかった年配者とは、その生き方(付き合い方)が根源的に異なるのだ。
今現在の思いとしては、「親ガチャ」というのは「生かされていること」への根源的な冒瀆のように思う。
被造物として、造物主へ文句をつけていることになると思う。「生かされていない」のなら文句つけてもいいだろうが、いまそれでも「生かされている」のは厳粛な真実である。
この年まで、生をえらび続けてきたことに満足している。未知とは恐怖でもあり希望(楽しみ)でもある。
_________玉の海草