『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

【自分回帰】 伊勢白山道とは〜 渡ったら 「筏」 はいらなくなる

2023-06-02 20:17:37 | 小覚

__ おもえば、伊勢白山道のコメント欄📝で、出禁を喰らったのが、このブログを始めるキッカケでありましたな。

ほぼ二年を経て、伊勢白山道へ投稿した拙稿をまとめたり、加筆🖌️したりして、まあまあの密度の記事が書けたかと思う。

ブログ『伊勢-白山 道』なくば、この程度の記事すら書けなかったことは確信がもてる。まとめられて良かったと芯から思う。

 

伊勢白山道のコメント欄📝に投稿するということは、どーゆーことだろう、いまどのくらいの人数が閲覧しているだろう?

稲垣足穂は、みずからの読者が4000〜5000人位であろうとの実感から、その心ある少数の読者に向けて執筆していたものである。

わたしも、それに似た思いはあった。伊勢白山道では、かなりの初期に5000人の読者はクリアしていたから、コメント欄投稿の初手から、作家としての足穂より恵まれた環境だと思ったものだ。

 

どうしても、同胞たる日本人(まっとうな日本人)の耳に入れておきたい逸話なり物語があった日本が大好きな人びとと、そのエピソードを共有したかったのである。

その対象となる読者としては、伊勢白山道を読むほどの日本人なら資格充分じゃないかと思い、読書三千冊のうちに胸にあたためてきた「ある意地やある粋」を披瀝してみたいと思った。

その反応も、即座に得られるのがコメント欄の良い処でもある。けっこう励まされたし、血肉となった貴重な識見も多かった。(あくまでも初期〜中期の頃の話です)

 

目的は叶えられた、第二の目的ではあったが。

第一義は、やはり秘儀参入である。霊的な境涯を上げることで、新たな景色を見ること。これについては、何とも言えない。すでに、リーマンさんから授かっているようでもあるし、気づいてないだけかも知れない。

 

本来の目的は、ほぼ完遂できたようなので、ここで一度もとに還ろうと思う。伊勢白山道から距離をおく。

いままで通り、記事は毎日拝見することは変わらない。

・国難の予知

・防災グッズの情報取得

などの霊視情報は貴重なものだからだ。幾つか取り寄せて使ってみたことがあるが、とても重宝している。(そもそも、伊勢白山道で「Amazon」を推薦されなければ、ネット通販を利用することはなかったであろう。)

 

さて、「伊勢白山道から離れる」 と一言でいっても…… 

自分の祭祀と伊勢白山道の祭祀とが渾然一体となって、分離しようにもそれは不可能である。

意識の持ち方とかは、まるで伊勢白山道を知る以前とは別物なのだが、祭式や外的な要素はあんまり変わりはない。

見た目で、一般家庭といちじるしく異なるのは、『短冊🎋位牌』くらいのものだ。

いま、やめようと思い立っても、ほぼ対外的には変更していないので、問題は無い。

伝統的な神祭りと先祖供養も、なかなか馬鹿にならないものだ。基本は伊勢白山道を学んだ後でも変えなくとも良かったのだから。

 

嗚呼、伊勢白山道読者なんて気を張って、あたかも新宗教に臨むが如く真剣に取り組んでいたが……   傍目からは、そんなに違和感はなかったのだ。

な〜んだ、いつ止めてもモーマンタイだったのだ。

ちょっと安心した。

 

伊勢白山道にお金💰払っているわけではないし、入会していない以上、脱会届けも不要である。

なにやら、コメント欄の読者がよく言っている「イセハクサンダー」というのは、いたって根拠の薄いものだったんだと改めて気付かされた。

 

これで、身軽になって、自分本来の湧き上がる気持ちで生きることとなる。

何故、こんな形式的な宣言めいた断りが要るのかというと、やはり伊勢白山道には多大なる恩義を感じているのだ。

実際、伊勢白山道に出逢う以前の私とは、別人になった思いがある。その有り難みもあって、やっぱり伊勢白山道を守ろうとするだろうから、そんな気持ちからも離れるために、止める意識は明確にしておかなければならない。

 

 

まー、何が変わるわけでもない。

根源神、天津神、国津神、眷属神に対し奉り、なにも崇敬の姿勢に変わりはない。

変わるのは、リーマンさんに対する姿勢だけであろう。

個人的に、リーマンさんの選択したやり方には不満があるし、文章をはじめとする左脳的な習熟度には不信感が絶えない。(まともに学校🏫の勉強をしていない)

阿難尊者もけっこう「お間抜け」だったが、リーマンさんも先行する社会常識に対する如才なさが欠如している。それなりに精巧なコノ世の仕組みに合わせて、ご自分を落とすことがお出来にならない。

証拠も幾つもあるが、いまは時節柄遠慮しておこう。

静かに烈しく、批判的精神(検証しようず)で臨めば十分であろう。

縁がないのかも知れんし、腐れ縁なのかも知れなかった。よく分からん。

 

 

というわけで、熱き思いの外、いたって殺風景ではある文面だが、ケジメとはそんなものである。

もう、コメント欄を守ったり、不埒な読者を諌めたりする義務はなくなった。やるべきことはやり終えたといってもよいのかな。

それにしても、リーマンさんのバイアスで操作されたコメント欄に成り果せたのだけれど、ポリティカル・コレクトネスもあり、コンプライアンスもあり、不自由なコメント欄になって仕舞ったものだ。

風俗資料としては、もはや二流になってしまった。

遺憾である、さまざまな日本人の精神内容や潜在意識を知ることのできる、得難きブログであったというのに!

 

わたしは、15年読者だが、伊勢白山道ブログの歴史は16年になるわけですね。

いまだに公的には、有名なブログではないが、なかなか強力な推薦人があらわれないからなんだろうな。

 

「絶対に引用禁止🈲」も、ハードルが高い。

著書を出版する際にも、編集部の校正が入らないのは致命的である。(眷属神からの啓示で書いている、日々の記事なので、編集部で推敲することは出来ない)

たとえナチュラルスピリット社のような、大手の出版社であっても、例を挙げればスピリチュアル界にあって「遍在」と「偏在」を取り違えるような編集者では使い物にならない。(同音で、まったく反対の意味を持つ語)

出版界の知的なレベルも、かなり落ち込んでいる。(紙の媒体の衰退が大きい、優秀な人材が入って来ないのだ)

リーマンさんのおかしな文体も、そうした編集事情のために、素通りして世間に上梓されてしまう。

日本語の執筆レベルが低いのである。

 

 

伊勢白山道の著書の場合、いままでに本📕の帯に推薦文を書いてくれた作家は、吉本ばなな女史しかおられない。

老子の柔訳にしても、初期仏教の経典の柔訳にしても、斯界の専門家からは完全無視されている。

ネットで、素人読書家の口の端にものぼらない。

批判や論考の対象にすらなっていないのだ。

世間の人びとは、信頼できる重要な誰かの「お墨付き」がないと、信じられないものである。

 

ー 藤井・新名人は、将棋を「技術」と言明していた。

さすれば、eスポーツも「意識だけで、体術の伴わない技術(指の反射神経は使うが)」と呼んでもよかろう。

脳の進化は、脳🧠単独ではありえない、身体の進化に伴って起こるものである。末端からのフィードバックが司令塔の存在感をいやましに増幅させる。

ひとつの思想が成立するには、その思想特有の体術(身体の操法)が内包されているというのが、私の持論である。

「武」においても、その特有の認識が現象化したものが「奥義🪭」であり「極意」であろう。

さて、伊勢白山道の体術とは何か?

なんの体系も、システムもない。毎日の記事によってもたらされる「思い癖」(弛緩リラックス系の言葉が多い)で、心身統一できるものだろうか?

 

ここまで思いを巡らせて、ある決定的な違いに初めて気がついた。

リーマンさんが幾度となく繰り返して「読者への返答」のなかで述べた、ある言明に重大な秘密がある。

直近の言葉を挙げれば……

このブログも、大神から、1度の縁を示せ。

が任務です。

1度だけ知らせれば、私の任務は終わり。

あとは個人次第のことです。

 

…… つまりは、原始キリスト教でたとえるならば、

・リーマンさんは「お知らせ」が使命であるということ。

・いわば、バプテスマ(洗礼)のヨハネであり、

救世主としてキリスト=イエスとして受肉したわけではないということ。

・では救世主とは誰か? それはリーマンさんが縁を示した一人ひとり、つまり(神性を預かった)私たちであるということ。

 

そういうことならば、単純な事実だが…… 

・リーマンさんは、霊的な指導者として露われたわけではない。

・伊勢白山道とは、リーマンさんの「スクール」ではない。

・伊勢白山道に、秘儀参入のプログラムはない。

 

 

__ 単純なことだったのです、

リーマンさんとは【メッセンジャー】だったのです。「お知らせ」するために来たということです。

まとめれば、次の拙稿(これはリーマンさんに掲載されました)となります。

 

🔴 明らめ(諦め)

たとえ、和歌も詠めず文章も日本語の流れるような調べのない拙いもので、その伝え方は情緒とは程遠いものであったとしても……

その伝えようとしている本源、つまり根源神が悪いわけではない。

ただ、間に入った人の伝え方が悪いだけなのです。

 

素晴らしい人がいる、しかしその人を伝えてくれたインフルエンサーが気に触るイヤな奴だとしても……

素晴らしい人は、素晴らしい人なのに変わりはないのです。

 

太陽☀️に、雲☁️がかかったようなものです。

薄暗い雲越しにも太陽の眩しさは充分伝わります。

それと同じことです。私はそーゆースタンスです。

 

…… これはつまり、

・リーマンさんを拝んではいけない。

・リーマンさんを信仰するわけではない。

ということです。

たとえ「聖なる道具」(易行道の「船」のたとえや、対岸へ渡す筏など)であっても、河を渡ったら要らなくなることが往々にしてあるのです。

自転車乗りを覚えるときの、補助輪に似ています。

 

そういう「キッカケ」によって、遺伝子🧬が変異することもあるでしょう。

すべての経験を刻んで、いまの遺伝子があります。

そのようなベクトル(力✖️方向)が〜 「往相」や「還相」のようなものが〜 ある流れの方向があるということです。

グルジェフの「創造の光」、グノーシスの「流出」、あるいは「滲透(オスモーズ)による認識」もそうであろう。

        _________玉の海草


 ブログ 『伊勢-白山 道』 のめざす霊的レベル を考えてみた

2023-02-04 06:00:20 | 小覚

__ ブログ 『 伊勢-白山 道 』 といえば、宗教ギライやスピ系拒否する人びとにとっては、「 アッチ系の危ないブログ 」 なのかも知れないが、

なんのことは無い、「 死んでからの事は誰にも訊けないでしょ?」っていう話に過ぎないのです。

無料で、教団に入る必要のない、スピリチュアル・ケアを提供しているのが伊勢白山道です。

 

いったい誰が、「 生死 」というものを教えてくれるでしょうか?

誰が、死後の世界を正確に伝えてくれるのか…… 

そもそも、死後の世界( アノ世 )なんて本当にあるの?

死んだらどうなるの?

生きるって、そもそもどーゆー事なの?

 

これら、誰にでも訪れる「 死 」とゆーものについて、明確な確言をいってくれる人は先ずいない

この件に関しては、居並ぶお年寄りの誰もが、まるで頼むに足らない。

仮に、「 死 」を知っている人がいたとしても、その人を信じてよいものか誰にも分からないと来ている。

人生(ひとの生きる道)とゆーものを、つぶさに眺めてみると、老後の事ならば経験者はゴマンといるから困らないものの…… 

こと、「 死 」や「 霊 」(見えない世界)については、広くは先祖供養や神さま祀りについて、正しい「やりかた」を教えてくれる人がいない。

 

いまの、伝統的な作法は、歴代の先人がそうやって来たからというものでしかなく、神霊学( そういうものがあるとしての話だが )に基づいた正確な知識ではない。

「 生死 」について、いまの世の老人たちは、あまりにも無知なのです。

 

あなた、死に関して、正しい葬式や法事( 供養 )について、いったい誰に相談しますか?

そんな智慧者( 本当のことを知っている者 )が、身近に存在していますか?

 

要は、単にそーゆーことなんです。誰も知らないこと、知り得ないことがあるのです。そのときに、あなたならどうしますかという単純な問いかけに過ぎないのです。

 

そーした際に、私にとって伊勢白山道がどーゆー位置付けなのか、伊勢白山道読者のことばも混ぜながら、呈示してみたいと思います。

[※   伊勢白山道では、切り取り引用は神意を損ねるということで、禁止されています。それゆえ本記事からの切り取り引用はいたしません。しかし、コメント欄📝での読者との質疑応答の片言によって、推し量ることといたしましょう。]

 

【第11次元の、霊峰白山(世界中に散在する「白い山」の根源たる威容)に顕現なされた白山神】

 

 

__ まず、伊勢白山道の霊視では、最高位の聖者にランクされるラマナ・マハリシを通して、他の読者のかたが理解している非二元についての認識について、最初に観ていきます。

🔴  女性読者さんから、私に向けられた投稿

[2020-09-10 09:06:24 | m◯◯◯◯]

リーマンさんが先生と読んで庇うコメント(私注;私を批判する投稿に「玉ちゃん先生に、そんなこと言ってはダメです。 めっ。」との一言がリーマンさんから出された)を出すほどの方は、どんなことを書かれているのか知りたくなりました。きっと知るべき何か

そのお名前では見当たらなかったのですが、ひょっとして。

> もー湧き上がる思いがあなたがたとは違うのだす

と書かれている言葉の分断のニュアンスに、はてなとなりました。非二元論アドヴァイタ バガヴァット・ギーター 等の知識を持つ先生が、「 自分とは違うあなたがた 」を見ていると言う

 

ラマナ・マハルシと、ニサルガダッタ・マハラジ

このお二人の話される内容から、悟りにも違いがあるということを具体的に知りました。でも、揺るがない共通のことは、お二人の、本の中の質問者との会話を読んでいると、その視線は私 ( =本の中の質問者 ) を見ながら「 ( = マハルシ・マハラジ = ) 真我 」を見ているとハッとします。めっちゃ見られてる感

私の中に「 ある 」という喜びが励起され、その振動が湧き上がります。ああ、ひとつだなあと実感させて頂けます。感謝に震えます。同じく、リーマンさんも私 ( たち ) の内在神を見て下さっている。見られている私も、私の五感が捉える存在はすべて、真我の現れだと見ます ( 私は霊線のようなパイプみたい ) 。コメント欄の他の読者さんたちも真我のあらわれ

 

非二元的な知識は、あってもなくても、どっちでもいい 本当に、ただある、生きている わけだから

人に親切にしているだけで充分、生かされていることに感謝しているだけで充分

⚫︎マハラジは質問者に、「 ある 」というそこに感謝を持つようには言っていない ( 私の読み落としであればスミマセン。本の中の質問者の親和性に合わせてるだけかも ) 。「 生かされている 」ことへのフォーカスはない。

⚫︎マハルシは、そのことへの感謝を、質問者に対して、している。マハルシは、質問者たち ( =) に、感謝している、( ! )

 

先日、神祭りでフトノリトを唱えながら驚きましたことは

神さまは、感謝される存在としてあるけれど

神さまこそ、生きとし生けるものすべてに感謝されているということでした。あまりのことに、書きたい気持ちは山々だったのですが、今までなんだか畏れ多くて書けませんでした。

書くきっかけを下さり、ありがとうございます。私も神さまからの霊線として、すべてに感謝していきます。

 

 

__ さて、次は私の返信です。

🔴  m◯◯◯◯さんに対する、私のレスポンス投稿。この投稿は二年余り経過した後で為されました。

[2022-11-15 02:00:15 | 王ヽのミ毎]

「 非二元論に基づいた生活 」

非二元とは、聖ラマナやニサルガダッタの思想をいいます。「 アドヴァイタ・ヴェーダーンタ 」のことです。

以前、他の読者の方から、アドヴァイタ云々語るわりには、二元性の観方で他の読者に対している旨の疑問を突きつけられました。[ ※以下引用、()内は私注 ]

> 「 もー湧き上がる思いがあなたがたとは違うのだす 」(私の発言)

と書かれている言葉の分断のニュアンスに、はてなとなりました。非二元論アドヴァイタ バガヴァット・ギーター 等の知識を持つ先生が、【 自分とは違うあなたがた 】( 他の読者に対する私の観方 ) を見ていると言う

 

…… その読者ご自身が、他の読者に対してどのように観ておられるかについては、以下に引用します。

> 見られている私も、私の五感が捉える存在はすべて、真我の現れだと見ます ( 私は霊線のようなパイプみたい ) 。コメント欄の他の読者さんたちも真我のあらわれ

> 非二元的な知識は、あってもなくても、どっちでもいい本当に、ただある、生きているわけだから

人に親切にしているだけで充分、生かされていることに感謝しているだけで充分

 

…… 当時、よく指摘してくれた、と感心していましたが、何か「それとこれとは違うんじゃないか」との思いも捨て切れずにいました。

最近になって、この違和感を言い当てた聖ラマナの発言を見つけたので引用します。

 

> 1938213 対話458

シュリー・バガヴァーンは次のように語った。

「 非二元性は支持されるべき概念です。

しかし  【 アドヴァイタを行為の中に適用してはいけません 】

もし師が見つからず、教えを受けることができないなら、どうやってアドヴァイタを学ぶと言うのでしょう?

それでは、そこには二元性があるのではないでしょうか?

それがその意味なのです 」

[引用;『 ラマナ・マハルシとの対話 』第2

ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア ( 記録 ) 福・間巌 ( )  402頁より]

 

…… 自分の内なるサッドグル ( 真の霊的教師 ) が、現象界にグル ( =他者 ) の形をとって現れると、ヴェーダーンタでは言っています。

教える者と教わる者との二元のかたちを取りますが、ともに真我のあらわれです。

あらわれとは、つねに二次的なものですが。

 

真我とは「 行為者のいない 」状態です。アドヴァイタ ( 非二元性 ) は、主体と対象に別れない、つまり二元 ( あなたとわたし等 ) にならないことです。

分離された個我 ( ひとり一人 ) が単位となっている「現象界 ( =現実界 ) 」では、それぞれが「 行為者 」になっているので、アドヴァイタを敷衍することはできないのです。

非二元性だからといって、短絡して「 みんな私と一体、一緒だね 」とはならないのです。

 

思想を生活に落とし込む当事者は、いつの時代の文明でも女性が担ってきました。

> 「 文明とは、女性の協力である 」( 稲垣足穂 )

…… 女性とは、どこまでも現実的な生活者であるからです。生活とは、母子が最小単位であろう。

母胎による生身の出産体験が、大我ともいえる拡大認識を伴ったことも大きい。その「全能感(産む力)」が文明からみると厄介な代物ではある。偉人を産んでそだてるのは、常にその母なる女性だからです。

 

ただ、いくら精緻な思想でも短絡されてしまっては、台無しになってしまいます。

 

…… 私注; 伊勢白山道の女性読者に多いのは、「感謝しかございません」とばかりに、人生の総てを感謝のみに集約してしまうことです。ただただ感謝だけなのだそうです。そうすることが生きやすいからと、感謝することだけに人生を固めてしまうのですな。たしかに、八百万の神神を信仰してきた日本人は、人生のあらゆる局面に神神をみたのです。そして拝礼感謝してきた伝統はあります。しかし、それは感謝していれば良いと云うことではありません。悟って後なにをしたのかという命題と同じで、感謝して後あなたはどうするのかが自分の人生だと私は思います。教条的に「感謝感謝」と言い立てる人びとを決して信用はしません。それこそ、秘すれば花、言わぬが花なのです。なぜ、自分の内に向かって言うことを、外に向かって言うのか。

 

伊勢白山道は、悟りに関して、最後の一押しが必要不可欠であり、それは神の恩寵である旨、示唆しています。

感謝の念と、神の恩寵とはシンクロするものなのかも知れません。

ニサルガダッタ・マハラジには、ラマナ・マハリシがアルナーチャラのシヴァ神から賜った恩寵が、まだないということです。

 

 

_________

 

……  伊勢白山道では、全11次元(段階)の霊的な次元という物差しがあります。

例に挙げているのは、

⚫︎10次元〜 ラマナ・マハリシ

⚫︎9次元〜 老子、モーツァルト

⚫︎8次元〜 孔子、バッハ、黒住宗忠、棟方志功

⚫︎7.5次元〜 ミケランジェロ

⚫︎7次元〜 ラーマクリシュナ、ゴッホ、

⚫︎6次元〜 クリシュナムルティ、ダ・ヴィンチ

⚫︎5次元〜 ピカソ、ラジニーシ

 

釈尊についての言及はいままでなかったですが、老子として幼き釈尊を指導して、釈尊が老いては阿難として側近くに仕えたという、伊勢白山道の前世というものから推し量れば、老子や釈尊は別格扱いのように感じています。

 

 

これの次元分類を見てお分かりのように、聖ラマナ・マハリシ( マハルシはサンスクリット語表記なので、タミール語表記のマハリシを使う )は、ここ数千年間で肉体に受肉した魂では最高次元の10次元にまで境涯が進んでいます。( あくまでも伊勢白山道説だが )

それで、上記の読者と私との応酬ということになったのです。

私の抱いた印象は次の通りです…… 

・真我を理解する(自我を去る)ための手段として、アドヴァイタをつかうのではない

・自我の支配する空間に置ける関係性に、アドヴァイタは適用できない

・非二元性になるんじゃないし、ましてするのではない

・真実として非二元であるという直感的理解

 

他の女性読者でも、「真我を達成する」と書いている人がいましたが、「真我」というものは達成するものではありません。

これは決して言葉尻にとらわれているのではなく、認識の違いなのです。女性は哲学が苦手ですから、「真我に成る」だなんて平気で口走るのです。

いわば、

 

▪️オンティッシュ(存在者・モノにかかわる存在的なこと)

▪️オントロギッシュ(「存在」にかかわる存在論的なこと)

をごっちゃにしているとでも言いますか。

「成る(現象)becoming 」と

「在る(存在)being

 

との根本的な違い、存在論が分かっていません。

「まったくもう、だから女って奴は…… 」と慨嘆していたら、「真我を達成する」って最初に書いていたのは、他ならぬリーマンさんご自身でした。それじゃあダメでしょうが、正しく言葉を使わなくちゃ、正しく伝わりませんよ。

伊勢白山道の文章力は、このような根本的な欠陥を抱えているのです。語彙が少ない、文才がない、専門用語を使いこなせない、いずれも読書量が根本的に不足しているからだと思います。そこが同年代としてつくづく情けないところです。

 

…… 私注;リーマンさんに、初めて強烈な違和感を感じたのは、リーマンさんのある著書について、吉本ばなな女史から帯の推薦文を書いてもらったことを記事になさった時でした。現在はアーカイブを見てもその部分は削除されていますが、吉本ばななが和歌に才能があること、そして父親(吉本隆明)よりも文才があることを記事内でリーマンさんが指摘していたのです。ここで私は、「霊視」とは何なのかと根本的に疑問に思い、リーマンさんに深く疑義を覚えたのです。私はこれについては批判投稿しましたし(不掲載でした)、いまでも考えは変わりませんが、ご自分はさんざんな文章を書いておいて、和歌も一切詠まないのに、なにゆえに他人の才能について物申すことが出来るのか、霊視で文学がわかるのかと烈しく憤ったものです。ほとんど読書もしていないのに、語彙もなく稚拙な日本語しか書けないのに、霊視で文学を語る浅はかさを嘆いたのです。

 

 

🔴  霊的な根本義に触れた、質疑応答も添えておきます。

[※  。。。。の記号は、リーマンさんの発言であることを示しています]

 

> 。。。。老子の場合は、まさに中道、緑色の位置です。
コノ世で生きる意味でも、臨機応変に真我と霊性の間を使い分けています

ラマナ・マハルシの場合は、真我に常駐のために、逆にコノ世的な仕事は出来ませんでしたが、無言のままでも人々を変えることが可能でした。
この作用は、現代でも写真から起こっています。

 

>(読者)昔より見えないご先祖様神様を敬う気持ち、見えないものに生かされている思い、見えない世界がある思い、でした。でも悟る、や解脱、という事を考えたことがほとんどありません。これはめざすものではないかと思います。

 

。。。。あなたが正しいです。

目指すべきことでは無い。

これが正解。

 

…… 私見;【狙って掴めるものではない】ということです。悟りとは、(自分で)獲得する対象となるような認識とか何かではないということ。故に「悟りを得る」と云うのは言葉の矛盾である。

 

>。。。。では人間と神様の違いは何か?

人間の都合に悪いモノを悪とみなす価値観を人類が持つ間は、正しく魔神と神様の違いを理解することは不可能だと思ってください。

大自然の視線、完全なる公平な視点というものに、人類が気づける進化をした時に、その正体がわかることでしょう。

 

>(読者)今、ノン・デュアリティとかアドヴァイタと呼ばれるタイプの覚者の本が書店にたくさん売られています。このタイプの覚者がどうしてこんなに大量発生しているんだろうと疑問に思います。この現象をリーマンさんはどう見られますか?

このタイプにはリーマンさんが評価されるラマナ・マハルシやニ○○ガダッタ・マ○○ジもいます。ラマナはこのブログでもおなじみですが、後者についてはリーマンさんは「良いでしょう。この人は、ラマナ・マハルシの段階の神聖性は、今生は無いです。しかし、今生で光明を見てます。つまり、来生は、仏陀に成れる人に間違いは無いです。」とコメントされています。

ただ、あまりにもこのタイプの数が多く、日本人にもこのタイプの人がいるので、本当に皆本物なのか疑ってしまいます。

称してお金を取っている日本人

 

。。。。デタラメ。

その線で人集めて、大金を得て、自分は着飾る厚化粧。

その線の主張するならば、ラマナ・マハルシのように裸を好むのが本当。

何も無い、が信条なのですから。

 

私の信条は真逆です。

何もかも有る。

自分が生まれている、事実から逃避しません。

_________

 

 

 

🔴  リーマンさんの霊的な立ち位置表明に対する私の投稿

[2022-11-16 03:58:01 | Unknown]

「聖ラマナを超えて」
リーマンさんから、ニサルガダッタ・マハラジをご紹介頂いたとき……
真我ひとつの不二一元 = 個我はまやかしの非二元
ニサルガダッタ = 「 2去る我だった 」= 「 二元性を去る自我 」= 「 非二元だった 」なんてギャグを思いついておりました。

読者からの質問で、ノン・デュアリティとかアドヴァイタと呼ばれるタイプの覚者の本が、☔️雨後の筍の如くずらりと書店に並んでいるが、聖ラマナやニサルガダッタに繋がるこの系譜の有料先生たちは、本物なのかという質問(2016年6月1日)に対するお応えとして、
以下のように述べておられます。

> 。。。。デタラメ。
その線で人集めて、大金を得て、自分は着飾る厚化粧。

その線の主張するならば、ラマナ・マハルシのように裸を好むのが本当。
【何も無い、が信条】なのですから。

私の信条は真逆です。
【何もかも有る】
自分が生まれている、事実から逃避しません。



…… 「その線」とは、ヴェーダーンタ哲学の「真我ひとつの宇宙観」のことです。
このお応えの中で、



・聖ラマナは、真我ひとつで「何も無い」(何も生まれない、生まれないものは滅しない)
・リーマンさんは、「何もかも有る」。自分が生まれている事実を認める。(生じるものは滅する)



という構図をお示しくださっているのを見つけ、烈しく驚きました。


具体的には、聖ラマナは「輪廻転生がない」立場(低次の境涯における輪廻転生は認めているが)。
リーマンさんは、「輪廻転生はある」、自我に実体性があるとの立場だと思います。



そう云われると、いままでリーマンさんの記事を読んで感じていた齟齬が少し納得できるような気がしました。

リーマンさんの内在神の話と、ヒンドゥーの真我の話とは内容が一致しません。


聖ラマナに見られる、
> Neti-Neti
ネーティ・ネーティ
「これではない、これではない」
究極の真理に達するために、世界を形成するすべての名称と形態を否定してゆく段階的な分析過程。
[※『ラマナ・マハルシとの対話』用語解説より]

 


…… 般若心経のように、「 あれも無い、これも無い 」と無い無い尽しを並べるように、
アドヴァイタの修練も、「 あれは私ではない、これも私ではない 」と、真我 ( 本当の自分 )でないものを次々と削ぎ落としてゆきます。
そして残ったものが真我であるということなんですね。

第10次元の聖者・ラマナの、その「 無い無い尽し 」の信条ではなく、リーマンさんはそれを超えて、「 何でも有り 」の信条なのですな。
まさに、バーリ・トゥードの自由な( 月世界の )豊饒の海であるわけです。

これは厄介だと思いました、敬遠しているのではなく、難題に興味津々のワクワクです ♪
ただ、リーマンさんはその旗幟 ( きし ) を鮮明にしておられません。違うのなら違うと、ハッキリ言ってくれれば分かりやすいのに、そうはしません。

推薦図書なんていわれて、聖ラマナの対話録などを薦められても、その真髄と伊勢白山道は一致しないのです。面喰らいますよ。

 

_________

 

…… 釈迦の再来と崇められる大哲学者・龍樹菩薩が、釈尊の無我を解いて説いた「 空 」観、そのフィロソフィーを大胆にもヒンドゥー🛕哲学に盗用したシャンカラが、いまに続く完成度の高い「 アドヴァイタ( 非二元 )」を創始しました。

関連記事リンク▼

ヒンドゥーの叡智2️⃣〜 仏教を 「仏道」 から離反させたインド人・龍樹 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

ヒンドゥーの叡智3️⃣〜 三島由紀夫が惚れ込んだ、難解なる 「唯識」 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 

仏教では「 無我 」として、個別の自我は無いとされています。それなら、その個我の無い状態で、何が輪廻転生するのかという大矛盾にぶち当たり、「 唯識派 」が阿頼耶識だの薫習だのと辻褄合わせを成し遂げました。

片や、その龍樹の「 空 」の論法を借用したシャンカラは、自我〜真我、小我〜大我へと「 真我ひとつ 」のアートマン( 魂 )論を確立させた。

ニサルガダッタ・マハラジの修めた伝統的なヴェーダーンタや、無師成道したラマナ・マハリシの後付け説明的なヴェーダーンタは、このシャンカラの霊統に属すと見做されている。

 

ほぼ完璧な、瑕瑾のない思想体系を創り上げたように思える。

その、ヒンドゥーの至宝を真っ向から否定して、「 何もかも有る 」を基底においた伊勢白山道は、いったいどのように「 世界 」を把握するのだろうか?

グルジェフの「 自己想起 」を、易行門の「 感謝想起 」に仕立て直した革命的な発想は、つとに賛辞を送るに足る偉業である。

関連記事リンク▼

 伊勢白山道の出現〜 今まで気づかなかった 「アタリマエ」 に感謝する - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 

かといって、グルジェフを超えて、ラマナ・マハリシを超えて、いわば第11次元の認識を示してくださるとでも云うのだろうか?

自我の仮象( 偽実体 )であることを認めずに、「自分が生まれている」という事実を真正面から認めると云う。

生まれる( 生じる )ものは滅びるが、摂理。

人は普遍( 不変 )をこそ求めるものではなかったのかしらん。

 

ミロクの世の到来( 2039年 )と並行するから、ますますもって入り乱れているような印象をいだく。

半肉半霊と自我( 個人我 )との兼ね合いも、そぞろに興味深い。

輪廻転生する「我」というものを、保持しながら霊的に進化を続けるとはどういうことなのか、無鉄砲で無謀なスサノオ神の戯れ( リーラ )に付き合ってみましょう。

 

グルジェフの高弟ともいえるウスペンスキーが成し遂げられなかった、意識を保ったまま三途の川を渡るというミッション( 彼はそのために歩きながら死ぬことを試みたと聞く )…… 

なにか凄く難しそうだが、過去に一伊勢白山道読者であった「 mercy 」さんと仰るかたが、意識を持ったままアノ世に赴いたという旨、リーマンさんが言及しておられたことがある。( 意識をもったままアノ世に赴くと、意識の自由度が高まるものらしい )

それは、リーマンさんの霊的な助力あってのことなんじゃないかと訝しんだものだったが、mercy さんの御子を思う親心が難行を完遂させたのかも知れない。

 

そのことに対するエビデンスは勿論、リーマンさん以外は持ち合わせていないわけだが、果してどんなものだったのであろうか?( 悟りの概念が変容してゆくのを感じる )

伊勢白山道の行法が、油断のならない卓効をあらわすことは一再ならず経験している。

だからこそ、聖ラマナ・マハリシの認識を超えて進めるものかどうかを、厳しく見届けておきたい。

 

ブログ 『 伊勢-白山 道 』 のコメント欄📝に見られるような、ぼんやりと子ども化( ネオテニー )した読者連を、どのように覚醒に導き、その次元上昇を成し遂げるのか、まったき不可能事に見えてならないが、勝算があるから現世に受肉したともいえるわけで、その神能の発露に是非立ち合わせてもらいたいモノだ。

どーも、第一印象の異質な触感がいまにして思い出される。いままで、神使におめにかかった経験がないからそうなのか、いまひとつ信用ならないという正直な思いを晴らすことは出来ないでいる。

それでも、覚りというものは特別なものではない、大したことはないと思えるようになっただけでも、伊勢白山道には感謝している。

ただ、あんまりリーマンさんのようにはなりたくないのですよ。彼を聖者と認定してよいものか、何かが抜けている気がしてならないのです。

善きこととは、神( 大自然 )に順うことを云う。リーマンさんに素直に随えない自分を何とみるか、ここをつぶさに明らめて参りましょう。

       _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 大人の皮をかぶった 「子どもの日本」 〜  ネオテニー童子形

2023-01-20 03:30:14 | 小覚

__ 日本が好きで、日本人の先人たちの行いを調べては参考にしてきたが、インターネット社会に移行してからとみに感じるのは、

 

「日本人は、どうしてこんなに幼くなってしまったのだろうか?」

 

という、根本的な疑問というか鬱憤であった。

 

報道番組みても、童顔の論客ばかり御三方で国防を論じておられた。(童顔のコメンテーターは、日本では人気がある。橋下徹とか)

欧米ではしかし、歳取っても「ベビーフェイス」をしている人は人間的に信用されない。

顔は、その人の履歴書であるからである。

 

いい歳になっても、子どもの頃の習慣から抜け出せない、「永遠の少年少女」に何が出来るものかと反感を抱いていたが……

遺伝子の眼から、日本人の現状をみると……

叡智が選択した「進化の道」が、現在の幼稚化(のようにみえる常若志向)になっているのかなと思うに至った。

「ゆるキャラ」にしても、グローバルで認知されてきたKAWAII 価値観にしても、アニメや漫画の流行にしても……

大人の築き上げてきた老練な社会秩序に、くさびを打ち込んでいる。

日本は昔から、子どもを大切にするお国柄であった。

明治の開国後に来日した西洋人が一様にびっくりしたのは、よく笑うことと子どもを大切にする姿勢だった

 

日本は子供の国だ、子供がとても大事にされている」

 

西洋では、子どもは労働力として小さいうちから酷使されるのが普通だったからである。

現在でも、シャイで世界的に有名な日本人だが、

たとえば街中で外国人の子どもを見かけた時の反応は、異様なものがある。自分から近づいてゆくのである。

まわりの大人全員から笑顔を向けられるし、手を振られ、お菓子をもらったり、とにかくまるでヒーローかヒロインみたいにチヤホヤされる。(その子の親たちは、あまりの可愛がりぶりに吃驚するらしい)

子どもの国・日本では、他人の子どもでも外国の子どもでも、子どもはおしなべて宝物なのである。

子どもを大切にするだけでなく、みずからも「子ども」であろうとする現象を、ひとまず追いかけてみよう。

 

 

 

🔴大自然に生き抜く〜 遺伝子対応

 

NHK『ワイルドライブ』に惹きつけられました

ブラジルのパンタナール大湿原の乾季……

干上がりそうな川辺に集まってくる獲物を狙う、捕食者の大変な苦労と挑戦に目を奪われました

なんと、ネコ科第三の大型猛獣・ジャガー(体長約2メートル)が、巨大なカイマン・ワニ🐊(体長約3メートル)を襲うのです

ジャガーは、北米南米大陸に棲む「ヒョウ」の仲間ですが、身体の紋様は「ヒョウ柄」ではなく、豹柄の円内にドットがある「ジャガー柄」である

幻の猛獣と呼ばれるほど、その生態は用心深いが故にほとんど知られてはいない

 

それが近年、乾季の川辺に頻繁に目撃されるよーになったそーだ

その辺には、カピバラやカワウソも生息するのだが……

集団(群れ)で合図しながら警戒しているので、さすがのジャガーも容易に手が出せない

そこで、カイマンを獲物にしたとゆーわけなのである

ジャガーはネコ科なのに、川に躊躇なく入り上手く泳ぐ

それだけでも注目すべきことなのに、なんと水中でワニを捕食するまでに進化したのである

 

川辺に繁茂する草むらに隠れて、河岸に浮かぶワニに飛びかかる

ワニの喉元に噛みつき、一発で仕留める(ネコ科は脊髄を狙う習性がある)

ジャガーはトラやライオンと比べても、ズバ抜けて咬筋力が強いそーだ

そして、10回に1回位しか狩りに成功しない狩猟下手なトラなど問題にならない位、樹上でも岩場でも狩りが上手い

山岳高地に「雪ヒョウ」なんてゆー仲間もいるし、見事にさまざまな環境に適応してきたネコ科のエリートである

 

とはゆーものの、陸地の王者の印象がつよい大型肉食獣のジャガーが、なぜ「川」に進出しなければならないのか……

危険を犯して、自分より一回り大きいワニを捕食するなんて、ワニから噛みつかれたら致命傷を負うことになるのに……

そーせざるを得ない切羽詰った事情があるのだな、生態系の頂点に位する猛獣でも、大自然を生きてゆくのは甘くないのですなあ〜

 

ー四足動物の実話だが、他人事とは思えなかった

人間にも、生き延びるために通過せざるを得なかった分岐点がある

これまたNHK『食の起源〜第四回「酒」』において知らされたのだが……

樹上から落ちた腐った果実 アルコール分を含むある種の毒物を摂取することが出来た人間のみが、アルコール分解遺伝子を獲得して生き延びることが出来たとゆー厳然たる進化の歴史……

また、大人数の「社会」とゆーものを形成するために、意外にもアルコールが重大な役割を果たした

アルコール「al_co_hol」は、三分節に分けられるが、それぞれ「神」の意味を持つ三つの言葉が合わさって出来た単語だそーだ  (*リンパ球バンク株式会社HPより)

つまり、三重に神々しい「神」とゆーのが語源である

 

アルコールを摂取することで生じる アセトアルデヒド(毒物を分解する遺伝子を持っていない人間の分布と、稲作が盛んな土地の分布がピタリ照合する不思議……

アセトアルデヒド分解遺伝子を持っていないのは、稲作をするアジア人に多いという

日本人も該当する、水辺で稲作をすることで体内に取り込んでしまう有害微生物を死滅させるために、酒によって生成される体内毒物・アセトアルデヒドを利用して生き延びたとゆー不可思議な歴史……

酒に弱い者が生き延びた土地()もあったのである

臨機応変に、大自然をわが身に迎え入れて来た歴史が、われらがご先祖には存在する、私たちはその強靭な遺伝子を授かっているのだ、安心してよいかも知れぬ

 

 

 

 🔴明治維新が何故、最大事なのか〜 単なる歴史上の事件では収まらない

 

わたしたちの学校現場での、わが国の歴史教育(国史・日本史)を振り返ってみると……

古代から江戸時代の終わり(江戸幕府の崩壊)までで、90%という感じで、明治から現代までは3学期の末にちょこちょこ教わって、後は各自読んでおくようにといった杜撰な教え方だった。

いまも、それほど変わりはないと思う。

 

百田尚樹による、渾身の日本通史である『日本国紀🇯🇵』では、

古代から江戸時代の終りまでで、ちょうど半分である。明治から現代までが、丸々後編に当たられているのである。わたしも、そうであらねばならぬと深く共感している。

明治以前と以後とでは、別の国かと違えるほどに変貌をとげている。

 

西洋における、遺伝子的にみて人類を脅かす大事件だったのは、イギリス🇬🇧で勃興した「産業革命」であろう。

人びとの賃金収入は、産業革命以後には1020倍もアップしている。

人口は拠点都市(都会)に集中しはじめて、ムラ社会の自然から遠く離れた、反自然の人口稠密生活が激化する。

テクノロジーへ適応しなければ生きてゆけない故に、社会の様相は「知識社会」へと傾いていった。

そして、その流れについていけない人々が大量に現れ始める。

 

西洋の知識人でさえ、落ちこぼれるような劇的な「産業革命」を知り(強制的に知らされたというべきか)、その生活ぶりや生産活動の激烈な格差に直面した日本は、この人類史上最大の波(抜本的なイノベーション)にいきなり乗ろうとした。

その、無謀なる国家的な試みこそ、「明治維新」の名で知られる大転換だったのである。

 

そうした「知識社会」の格差は、現在でも「見ようとしないだけ」で、連綿と続いていよう。

学歴が尊重され、パソコンの操作スキルが重要視され、SNSの発信力やコミュ力も採用条件になったりするのは、まさしく「知識社会」への適応条件だからである。

 

 

 

 

 🔴遺伝子🧬の生き残り戦略〜 先祖代々の遺伝子が決めた道

 

古代から何万年と継続してきた「ムラ社会(最大150人規模)」の中で揉まれた遺伝子が、都市型に移行して、分業が進み、さらに「産業革命」によって「科学技術」=「知識」が一番の財産となってくる。

そして、20世紀末の「インターネット革命」によって、さらなる洗練された「知識社会」が決定的な形をとってくる。

 

なにごとにも知識が最重要な社会になったといっても、永い狩猟時代の記憶が刻み込まれた人類には、そうそう易々と適応できるものではない。

かといって、何千年何万年の月日をかけて突然変異を待つことは出来ない。事は急を要する。

となると、すでに獲得している「機能」を伸ばすしかないではないか。

 

そうして、遺伝子から選ばれた「特質」が「幼さ」なのであろう。この特質は、人類史上実績があるからである。

「ヒトは霊長類のネオテニーとして進化した」

(※  オランダの解剖学者ルイス・ボルク、1920年)

 

…… ネオテニーとは「幼形成熟」で、幼年期の特徴を残したまま成熟することをいう。

ヒトは、チンパンジーの幼形成熟といえるらしい。

チンパンジーのこどもの特徴が、いまの人類の顔になっている。

 

われわれの東アジアは、特に「幼形成熟」の進んだ区域であるようだ。人口稠密で「科挙」制度があった中華文明がそれを促進した、遺伝子戦略だったのであろう。

獣性(暴力)をおさえ、つまりテストステロン値を下げて平和裏に社会を営むために進化したのであろうか、アジア系の睾丸の大きさは、欧米の半分しかないそうだ。

 

衣食住たりてネット社会に突入するにあたり、日本人は「幼さ」を選んだのである。

「幼さ」は、常若であり、新しい意識を獲得する場合に、柔軟に対処できる(可塑性が大きい)。

なによりも、数千年かけての新たな進化(突然変異)を待たなくてもよい、幼さを捨てて成長するのではなく、幼さをそのまま残しておけば事足りるのである。革命的な省エネであろう。

つねに新しい、好奇心を失わない、嬉々として全力でとりくむ、それが「子ども(幼さ)」という強みである。

 

 

 

🟣 ここで御断りがあります。

[※  以下、引用文と地の文が入り乱れるので、私的な要約は🚹印を、文頭に付けた]

🚹 産業革命は、単なる歴史のエピソードのひとつではない。人類の行く末を決めた、とんでもない出来事(未曾有の大変革)だった。

その結果、人類は自らを追いつめるだけでなく、ごく短期間で生態系の環境バランスを崩して、地球🌏のサイクルをも壊滅させてしまった。

ほとんどの人々が、その急激な変化についてこれなくなったのである。

 

 

橘玲『もっと言ってはいけない』あとがきより引用)

産業革命以前と以後で、世界はまったく異なるものに変わってしまった。

人類の第一の「革命」石器の発明で、

「誰もが誰もを殺せる社会」で生き延びるために自己家畜化が始まった。

第二の「革命」農耕の開始で、

ムラ社会に適応できない遺伝子が淘汰されてさらに自己家畜化が進んだ。

第三の「革命」科学とテクノロジーだが、

ヒトの遺伝子は、わずか10世代程度では知識社会化がもたらす巨大な変化にとうてい適応できない。

ここに、現代社会が抱える問題が集約されているのだろう。

 

 

🚹 成体として完了するサイクルを拒む、

つまりネオテニー【幼形成熟】とは、決して退行なのではなく、あえて云うなら、

「未完の大器」(完成しない最終形態)であろうか。

 

 

 

 

 ネオテニーまとめ 

 

🚹「かわいい(KAWAII💓)」に共通する特徴

 

多くの動物の赤ちゃんに共通する要素

・頭が大きい

・目と目の間が離れている

・鼻と口が小さい、ふっくらと頬がふくらんでいる

・目鼻が顔の低い位置にある

・手足が太くて短い、丸くてずんぐりした体型をしている

・しなやかで弾力性のある肌

・動作がぎこちない、不器用な動き方

 

「ベビースキーマ👶」と呼ばれる特徴

大人から、世話や保護をひきだすために、幼形がとる生存戦略

 

「かわいい」とは、自分の力だけでは生きていけない未熟な幼体(赤ちゃん)が、大人の力を借りて生き抜くための戦略である。

 

 

🚹 ネオテニーの発現

ネオテニーでは、脳🧠や身体の発達が遅くなるかわりに、適応するに際して可塑性が高くなる。

男は行動に出る。(子どもの遊び好きを残すために、女性に比べて事故に遭う確率が高い)

女は肉体にあらわれる。(多量の皮下脂肪をそなえることで、幼児体型に近づく➡︎ 男の保護欲求を惹きつける)

 

西洋女性は、髪を染める場合

90%がブロンドを選ぶ➡︎ ブロンド髪が少女らしい印象を与えるため

西洋女性の美容整形では、鼻を低くする手術をする

鼻が小さい➡︎ 子どもっぽく見える

 

アヒルぐち(めくれた唇💋)ーチンパンジーでは胎児期に現れるが、消えてしまう特徴、赤ちゃんのように見えるネオテニー戦略

 

 

 

🔴アシュレイ・モンターギュ(19051999)『ネオテニー』より

子供はネオテニーの本質であって、それゆえにつねに新しい存在なのである。

ネオテニーとは「遅滞」であって、実は「先駆」なのである。

 

 

🚹 動物学研究家の竹内久美子による

動物学で日本型リベラルを看ると〜 睾丸が小さい漢はなりやすい!!政治から学会まで本能の為せるワザ」

という産経新聞社『別冊正論31』に掲載された記事(2018.3)が、一部でそのあまりの暴論ぶりに物議をかもしたらしいのだが 、実に興味深い視点なので以下に引用してみる。

 

 「日本型リベラル」と呼ばれる人々をご存じだろうか。共産主義、社会主義が失敗に終わり、所詮は絵空事でしかなかったと判明した今でも、その思想にしがみついている人々。日本に特有の存在である。

共産主義、社会主義は睾丸サイズの小さい、つまり女にモテない男にフィットした思想であると私は考えるが、日本人の男は睾丸サイズの小ささという点においてそもそも、これらの思想に惹かれやすい要素を持っていると言えるだろう。

 

🚹 睾丸が小さいとは、男性ホルモンの代表であるテストステロンをつくりだす睾丸の性能が低いということなのだが、

社会主義が弱者救済の平等をうたっている点では、国民皆健康保険の日本は、理想的な社会主義国の一面は間違いなく兼ね備えていよう。

 

 

🚹 彼女は、動物学会からはトンデモ研究家扱いで異端視されているようだが、彼女の説の根拠にあげたデータ(エビデンス)は正確なものである。

平均の睾丸の大きさ(左右合わせて)

・ニグロイド(アフリカ系)ー 50グラム

・コーカソイド(欧米系)ーー 40グラム

・モンゴロイド(アジア系)ー 20グラム

 

 

🚹 進化論では、睾丸の大きさは性淘汰で説明されるそうだ。

意外なことだが、霊長類では

身体の大きなゴリラの睾丸が一番小さく……

その次は人間、そして一番睾丸の大きいのはチンパンジーなのである。

これはメスとの間柄で決まるようだ。

ゴリラは競争に勝ったオスがメスを独占するのに対して、

チンパンジーはメスを独占できず、複数のオスが同じメスとつがうために、メスの膣内で他のオスの精子に勝たなければならないからである。

 

ちなみに、今度は「脳🧠」から霊長類を比較してみると…… 

10〜20体の「家族」単位から成るゴリラ🦍の脳は小さい。

その群れの内では、見返りを求めない付き合いが見られる。

より大きな個体数で群れをつくるチンパンジー🐒の脳は、ゴリラと比べるとかなり大きい。これは、報酬のある(見返りのある)方に流れる「共同体(コミュニティ)」での生活となるので、付き合いの質が凄く複雑になり、勢い大きな脳に進化した。

そして、家族としての質も共同体としての質も、どちらも兼ね備えて、ともに高度な水準を求められる人間の脳🧠は、もっとも大きい。

最大限で150人規模の集団のひとり一人の顔容を覚えるだけの脳の質量は、およそ1500g位であると云う。

これ以上に、脳が大きくならなかったのは、人間が「コトバ」を発明したからである。

言葉の多用によって、巨きな記憶容量がいらなくなった。ここで、人類は生体的な変容進化を停止したことになろう。

 

 

 

※ ネオテニーについて、あまりにも見事に要約されていた文章を見つけたので、以下に引用する

🔴参考文献;サイト『幼児教室コペル』より

【コラム 大坪信之のワンポイント徳育アドバイス】

2019年4月 「日本人はネオテニー度が高いから脳が成熟する」

 

ネオテニーというのは、幼少期が長くなり、かつ、大人になっても未熟だということです。
未熟化というのは一見、退化のように思えるかもしれませんが、そんなことはありません。

特に脳の場合、未熟ということは、様々な知識や経験を柔軟に吸収・学習できることを意味しますよね。

私たち日本人を含むモンゴロイドは、ネオテニー度が最も進んでいます。
日本人の頭が大きい、顔が平べったい、体毛が薄い、肌がすべすべしている、手足が短い点は、まさにネオテニーの特徴です

日本人は、幼少期が比較的長く成人しても未熟である傾向が強いので、脳としては成長する時間が長くなり、より進化して成熟しているということになるわけです。

 

モンゴロイドとは、日本人のように赤ちゃんのときにおしりの青さが残っている人種のことです。(私注;蒙古斑・青アザ
白人や黒人も胎児期には、おしりにあざがありますが、生まれてくる前に無くなってしまいます。

日本人は、そのあざが78歳くらいまで残りますね。
人類の中でもさらに幼児期が延長されているのです。

そして、そのモンゴロイドが最もネオテニー化が進んでおり、知的能力が大きくなる可能性があるとされているのです。

日本人が ” や 茶道華道” といった精神的な世界観を持っていることも脳の状態から説明がつきます。

モンゴロイドは、幼児期が延長されているため、論理脳が感性脳にふたをしてしまう前に、両方をバランスよく使えるような精神的な人間性能力が発達する期間が残されているのです。

 

 

🚹 最後に……

純度の高い大和心との出会いをもとめて、足繁く通っていた伊勢白山道のコメント欄でありましたが……

美しい日本をあらわした文章なぞ、滅多に出会えなかったものです。

たいがいは幼稚でポップな若造りの投稿である。(40〜60才が主流ではないかな)

あまりの中身の薄さに辟易していた……

文化をつくるのは、文字と言葉である。

 

日本亡国を危惧して、いろいろと辛口に諫めてまいったが……

それも、もうお終いにする。

 

意識よりも無意識よりも、先祖代々の生き残り遺伝子がみちびいた「ネオテニー進化」なのであろう。

もはや、これ以上言うこともないわ。お蔭さまで分厚い雲がようやっと晴れました。

日本人のもつ幼さが、未知に対応するための準備であり、予兆であるなら、辻褄が合うというもの。

      _________玉の海草

 

 

 

 


 「中道」 の真骨頂㊙️〜 中間(バランス)を取って程々に、とは大違い

2023-01-08 16:16:37 | 小覚

__ いままで、

中道・中立・中正・中庸中観」の解説には、

どれだけ欺されてきたことか。その凡庸な解釈を鵜呑みにしていた自分を今更ながら悔いている。

「二つの中間を歩む、中間に立つ、中間を庸(もちいる)」だからといって、

「二つの極端を避けてほどほどに」という意味じゃないんだよね。

 

 

【蛇を頭上にのせた、宇宙人のような 龍樹(ナーガルジュナ)は、釈尊が生前に予告してした聖者であり、釈尊の原初の「仏道」を「大乗仏教」という別物に入れ替えてしまった、仏教史最大の哲学者でもある。上記の本に描かれている、ダイナミックな「転法輪」☸️は、龍樹の「中観(中道観)」の実相をよく表しているように感じられてならない

 

 

釈尊の中道は、初転法輪(初めての説法)において、

「快と苦のどちらにも偏るな、二辺を避けなさい

と仰ったことから、

「両極端を避けなさい」という意味で通説になってしまったが、そんなありきたりなものではないそうです。

「二辺」つまり二つの対立概念から離れなさい という意味だとか。ヒンドゥー🛕の非二元(アドヴァイタ)です。

 

孔子の中庸にしても、孫の子思が書いた『中庸』では、「喜怒哀楽未発の中」と述べています。

喜怒哀楽の感情が生まれる以前の「中」ということです。

意識・無意識の生ずる前の真我、仏教の「無分別智」といった処でしょうか。

 

「中」という文字は、日本語で「あたる」と読むように、ちょうどいいという意味合いもあります。

一休の「この橋わたるべからず」とは、端(二辺)をわたるなという意味ではなく、真ん中の大道(道の真ん中ではない)をゆけと解きます。

 

 

Rさん(伊勢白山道)も、グルジェフの自己想起を解説した記事のなかで、4段階の自己想起をした上で、「常に相手と自分との中間を意識する」と云われています。

この「中間」という言葉のチョイスが誤解の元なのですよ。

これは、相手と自分のどちらにも肩入れせずに、斜め上から静観するということでしょ。

聖ラマナ・マハリシの「映画の喩え」📽でいうと、相手と自分とは映像であり、中間とはスクリーンのことだと思います。まー、神の視点でもよいでしょう。

 

だからして、中道とは「バランスを取る」ことではないのです。「両極端を避けてほどほどに」ではないのですよ。

もし中道の意味する処が「バランス良くほどほどに」であるのならば、釈尊ご自身のたどった軌跡は、中道だと言えるでしょうか。

妻子のある一国の王子の身で、すべてを捨てて出家する、生死の危険が伴うレベルまで極端な荒行(例えば「断息行」では鼓膜が破れるまで極めている)をやり続ける、それらのどこが「中道」なのでしょうか。

 

菩提樹下での成道以前のことがら故、釈尊ご自身よく分かっておられなかったという解釈も成り立ちますが……

大悟なさった後でも、それを修正することはありませんでした。「中道」をとるといっても、還俗なさったりはしませんでしたし、故国シャーキャ国の滅亡も静観して見送っておられます。

 

釈尊は、「二辺(二元性)」がある現実が恐ろしかったから、出家したのです。そして見つけたのが釈尊の「無」であり、後世の龍樹があらためた「空」でありましょう。

空=仮=中ということで『中論』を書いています。

釈尊はつねに実践が伴う哲学でしたけど、龍樹はズバ抜けた抽象理論家(物理学者)の感じがしますね。

 

結論として、中道の意味は「ニュートラル」(エンジンは動いている)が一番実態に近いと思います。

 

「有る無し」の彼方に控える「無」だとすると、ニュートラルには、中立や中性の他に、「無性」の意味も含みます。

中間色とともに「無彩色」の意味もあり、去勢された動物の意味もあります。

「ニュートラル・カンバセーション」で当たり障りのない会話となります。

 

ギアの入っていない「喜怒哀楽未発の中」のニュートラル状態動力源は稼動中が、「中道」に相応しいと思います。

 

 

ABとの中間を取る(=バランスを取る)といった複雑な操作では、咄嗟の場合に複雑すぎて選択できないと私は思っています。動いているA B、その中間なんて、三点も瞬時に把握できないでしょ。

だから、「バランスを取る」じゃなくて、動く映像に心動かさないでスクリーンを意識する「中道」を採用するなのだと思います。静観するというのは、そこまでしなければならないということでしょう。

 

中道の本来の意味は、「普通」の原義(あまねく通用する)と近いのではないかと推測する。

「道(TAO)」にあた(中)れば、普く通るからです。

 

※(wikiより、ナーガルジュナの「中観(=中道観)」について)>

「中観」のサンスクリット Madhyamaka madhya の派生語である。梵英訳では madhya は形容詞として「central(中央の), middle(真ん中の)」、男性名詞として「center(中央)」の意味がある

 

ー 中道の奥深い意味を辿ってきたが、それを生活現場に落とし込めば、「ああでもない、こうでもない、無難な道」という処世術もあり得るのかも知れない。

人間には、倒れないように踏ん張る「生存本能」がある。そんなときには、必死に踏ん張っているわけで、必ずしも「中間」を意識してやっているわけではない。

 

巻き込まれた交通事故にあっても、咄嗟に神がかったように正確な判断をして、九死に一生を得ている素人のケースも、数多く報告されている。

無心にあって、中道(=正しい道)を間違いなく撰びとることが出来るのは、非二元(アドヴァイタ)の神の眼で観ているからではあるまいか。

      _________玉の海草

 

 


《玉断》 日本古伝の 「身体がととのう」 体操〜 四股・テッポウ

2022-11-13 00:24:41 | 小覚

__ 世界には、色々な体操がある。中国🇨🇳の站椿功(たんとうこう、立禅)やインド🇮🇳のヨーガ、メキシコ🇲🇽のトルテックが編み出した「テンセグリティ」など、

それぞれの地に、その地元民のための(つまり地元民に合った)体操がある。日本では何だろうと思い巡らした時に、あらゆる武芸の基本動作である「四股」がある。

 

大相撲で力士がみせる土俵入りでの印象がつよいが、実は「四股」は筋力増強トレーニングでもなければ、柔軟ストレッチとも違う、独特の「身体がととのう」運動 なのである。

諸説あり、「四股の踏み方」もひとつに統一されていないが…… 

やればやるほど、どんどん気持ち良くなる「究極の健康体操」で、しかも日本人の身体にぴったりと寄り添う動かし方となっている「四股」の本来のやりかたを探求なさっている、元力士の一ノ矢関の「四股」を参考にしようと思う。

この四股は、あしも高く上げることなく、膝関節にも負担がかからないので、老人でも病人でも毎日継続できる。そのくせ、この「四股」によって達人にもなれる、運動の極意なのである。日本という土地に合った、日本人の身体の動かし方を養う、日本人のための運動である。

実に地味な見かけながらも、神道の奥義に通じるスピリチュアリティも併せもつ、素晴らしい「動き」を少しく深掘りしてみよう。

 

 

🔴「ただのデブが英雄になる」

差別的な発言ではないかと目くじら立てる向きもあろうが、これは相撲の稽古システムがすぐれていることを表した言葉です。

相撲でも「股割り」といって、180度開脚の準備運動があり、これはケガを少なくするためにするらしい。

そして、伊勢白山道推薦の「四股」と、そして「テッポウ」、不思議なことに相撲には技術練習はないのです。

 

「シコを極めれば幕内に、テッポウを極めれば三役になれる」という格言が、実際相撲界にあるそうです。

 

名横綱・双葉山は、カラダが硬かっただけでなく腕力もなかったそうです。よく腕相撲で負けていたらしいです。

 

【明治以降で、最高の力人(ちからびと)であろう。この腰の据わった美しい佇まいは、すべてのお角力さんの憧れであった。】

 

ところが、あれだけの力士となったのは、相撲の力士養成システムが優れているからです。

ほんとうに、ただのデブ(普通の素人)が英雄となれる歴史があった、これが永年にわたって大相撲が連綿と続いてきた大きな理由なのだとか。

テクニック練習をしないので、稽古はシコとテッポウをした上で、ぶつかり稽古をするだけです。これは受け身の練習にもなります。

 

 

元インテリ力士だった一ノ矢関が、運動生理学等を学んだ上で推奨している「四股」がありますが……

それは、千代の富士や貴乃花がしていたような脚を高く挙げて止める「四股」ではなく、

明治の常陸山や梅ヶ谷をはじめ、現代では稀勢の里がしていた、少しだけ膝を上げる「四股」です。

この軽い感じの「四股」は、相撲で古来から行われてきた伝統的な四股なのです。

 

 

【水戸藩の武士出身の、第19代横綱・常陸山(ひたちやま)谷右衛門。角界でよく口の端にのぼる「横綱相撲」とは、この名横綱・常陸山の相撲の取り口をモデルにして言っているのである。

常陸山のおじさんは、武道専門学校の師範で高野佐三郎とともに名人の双璧であった、北辰一刀流の内藤高治である。内藤の勧めで相撲界に進んだらしい。常陸山は、そして、大相撲に「武士道」を導入した張本人でもある。常陸山以前には、人間的に人びとの尊敬の的となるような「相撲道」はなかったのである。ただの相撲興行だったのであった。常陸山関こそ、近代大相撲の祖といってもよいだろう。】

 

素人でも、千回単位で出来ます。

伊勢白山道記事にも取り上げられた合気柔術の名人・佐川幸義翁が密かに稽古していたのも、この脚を振り上げない四股でした。

四股とスクワット(いわゆるヒンズー・スクワット)との一番大きな違いは、シコが膝を傷めないということです。(膝がつま先よりも飛び出すと、膝を傷める。四股はスネを床に直角に立てるので、膝に負担がかからない)

スクワットは主に太ももの前側の筋肉がつきますが、シコは前側にあまり負荷がかからずに後ろ側の筋肉にも割と均等にかかるそうです。

つまり、「四股」は筋肉増強運動にはならないのです。

あの、体重の重い力士が膝をこわしている時でも、スクワットは出来ませんが四股は踏めます。

 

相撲のこの稽古システム、四股とテッポウだけを真面目に鍛練すると名力士になれるとは……

日本ならではの、丈夫《ますらお》の道だと思います。

相撲は、柔《やわら》の源流と云われます。日本古来の「和《やわらぎ》」の道は、柔らかさに象徴される道だと思いました。

 

この相撲の伝統的な稽古方法は、昭和の時代までは伝わっていました。しかし、いまや機器をつかったマッスル・トレーニングに堕してしまいました。

最近の若い力士は、ステンと転がる場面が多くなりました。足腰が出来ていないからです。

若者たちよ、昭和を馬鹿にして伝統を棄ててしまう前によくよく吟味しなければならないのですよ。

 

 

🔴…… 双葉山の四股は、脚を高く挙げるものでした。

それどころか、足を高く上げる四股は、どうやら双葉山から始まったようです。

あれは、魅せる四股ではありますが、古来から伝わる四股ではありません。

 

> 相撲界には【四股十両、テッポウ三役】という格言があります。

これには、申し合い稽古をしなくても四股をしっかり踏みつづければ十両まで上がれる、そこにテッポウを加えれば三役まで上がれるという意味が込められています。(松田哲博氏=元・一ノ矢関・談)

 

…… 四股の踏みはじめは、相撲部屋の羽目板の前でさせられるそうです。前傾姿勢になると何の意味もないからです。(家庭では壁に向かってすればよいと思います)

・古代夏王朝の聖王の禹の歩き方「 禹歩跛行=足を引きずる歩き方)」から〜

・陰陽道の反閇へんばい)

・能の「翁」「三番叟」の足づかい

・相撲の「四股」

と徐々に変遷していった歴史があるようなので、ある種呪術的な意味合いも含まれる動作です。

 

一拍子でサッと足をあげてサッとおろす。

(❌ 足を身体に引きつけてから上げると、ニ拍子になってしまいます)

 

四股は筋力をつける運動ではありません。筋肉に頼らずに骨を使う身体操法、「腰」をつくるための調体運動だそうです。(但し、インナーマッスルは鍛えられます)

負荷がすくなく、やっているうちに気持ちがよくなるのが正しい四股の踏み方だそうです。

 

YouTubeで「一ノ矢 四股」でいろいろ見られますが、「腰割り」だけでも効果があります。腰割りは無音でできますので、マンション住まいの方も安心して練習できます。

四股の踏み方は、さまざまに流派がありますので、よく見極めてご自分に合った踏み方を見つけていただければと存じます

 

 

【「四股」の動作は、空手の「ナイハンチ」の型の足腰の動かし方と同じものだと言う。つまり、骨の並び(アラインメント)を揃えるということである。本来の四股は、気持ちいいものであるとの認識は、傾聴に値するものであろう。】

 

【「四股踏み」の基礎となる「腰割り」の詳細で親切な説明動画。楽な姿勢で、気楽にリラックスして臨むのが一番よいのが、よく分かる。この「腰割り」が出来た状態で、交互に足をあげるのが、正しい「四股」である。】

 

 

 

__ ここで、「四股」が神道の体操ならば、仏教の体操は坐禅(瑜伽ヨーガの一種)であり、五体投地礼でもあるのですが、

日本ならではの、釈尊に礼をするための動作からインスピレーション(実は勘違いなのだが)を得た、めずらしい身体操法「真向法」もあたってみよう。この運動には、意外にも、出産の際の「ラマーズ法」と同じ動作が含まれる。(第1ポーズと第3ポーズ)

西洋と違い、東洋の「床に座る文化」から生まれた運動なのだろう。

 

 

🔴  「真向法」の創始者・長井津(わたる、1889-1963のご子息・長井洞(はるか)『真向一途』より引用

(長井津が、42歳で脳溢血を患い左半身不随の身となったときに、ご実家の浄土真宗・勝鬘寺で、ご実家に縁ある『勝鬘経』を読んで心を慰めていた)

 

> 何日目か何ケ月目かにやっと序説が終ろうとした所に「勝鬘及一家眷属頭面接足礼」と書いてある。

理解力の豊かな読書人ならば、「愈々お釈迦様がお出ましになり、女弟子の勝鬘夫人やその家族縁者が、頭を足まで下げてお辞儀をしたのだなあ」と釈尊の教えそのものには直接何の関係もない単なるお辞儀であるから素読し過ぎる個所である。(略)

父は、「待てよ、立ってお辞儀をしたのでは、頭は脚部には接するかも知らんが足に接することは不可能じゃないか」と思った。これはお釈迦さんが勝鬘夫人の家にいらっしゃったのだろうから、室内の礼であり、恐らく座拝にちがいないと推測される。

 

…… 学者や宗教家に問いただしてみて、この姿勢に違いないと納得する形が第一体操だったと云ふ。長井津は、この第1ポーズを三年にわたって行じてみる。さらに第2ポーズ(全部で4種のポーズがある)を編み出して行じているうちに、動かなかった身体がだんだんと動くようになってきた。

 

【上から順に、第1、第2、第3、第4ポーズを、ご本人が行じておられる写真である。彼の啓示的な「勘違い解釈」は、永平道元の独特な中国語読みを彷彿とさせる。】

 

普通に考えれば、頭面接足礼は頭面を自分の足にではなく、跪いてからお釈迦さんの足につけておみ足を頂いたと取るのではないでしょうか。

長井氏は、どうも最初から足が自分以外の足であるという想定がなかったようです。しかし、素直に受け止めれば、『勝鬘経』を誤読したかのような長井先生の解釈から始まった「真向法」でしたが…… 

実際に、長井先生ご自身の半身不随を治している実績は疑いようがない。なにか長井先生の思いつきのように思われるかも知れないが…… 

ある酒席で、合気道の植芝盛平先生と、長井津先生が隣合わせたことがあり、早速長井先生が「真向法」と言うものを実演説明なされると、それを見ていた植芝先生が即座にその効能を看破なされたそうである。

以来、植芝門下の合気道道場では、「真向法」が準備運動として採用されている。武術家というものは、自分の身体を実験台として、あらゆる独自の鍛錬を欠かさないものである。

超一流の武道家・植芝盛平翁のおメガネにかなったとなれば、「真向法」は普段使わない筋肉を活かす何かを内包しているのである。病いに対する真剣な取り組みから、思いも寄らない叡智に接触した可能性はあると思う。

「真向法」の根本意念は、釈尊の御前にて、おのれをすべて投げ出し明け渡す(=帰依する)ことにある。宗教感情が、ひとつの宗教的動作を産み出した好例ではないかと思えてならない。

  

      

🔴  ついでに、「振動」という意味から、いわゆる「踵(かかと)落とし」による重心下げを見てみます。

山岡鉄舟の直弟子・小倉鉄樹をはじめ、合気道創始者・植芝盛平と随変流剣術の達人・中村天風(インドの呼吸法「クンバハカ」も修める)と……

なんと、三人もの名人上手と結ばれる道縁をお持ちだった、藤平光一の『心身統一合氣道」には、

心身統一の四大原則

  1. 臍下(せいか)の一点に心をしずめ統一する
  2. 全身の力を完全に抜く
  3. 身体の総ての部分の重みを、その最下部におく
  4. 氣を出す

…… この❸を実行するために、

「下に下に」と意念して、

爪先立ちして踵🦶をあげて、

ドンと地面に「かかと落とし」をする。

 

そうすると身体が、最強の攻撃防御一体の「自然体」となる。全身の骨に、垂直方向の打撃刺激を与えることによって、たしか骨の強化につながる運動にもなっているはずだ。

簡単にして、本質的な運動が「かかと落とし」ということになる。これもまた、「振動」が骨を成長させる のである。

 

大東流合気柔術の佐川幸義宗範の道場では、佐川先生の合気で、只ひたすら投げられる稽古をみっちり一週間も続けると、身体の細胞が密になって、投げられにくくなるそうです。

これも、合気による正しい(=自然に則った)投げられ方によって、道場の床に叩きつけられたときの「振動」が、身体を活性化する方向に働くとも言えそうである。

佐川先生は、この稽古を「〇〇くんを強くしてあげる」と言って、意識して行なっていたようである。武術の世界は、つくづく奥が深い。

 

 

🔴 伊勢白山道に拠れば、古神道では、魂や神気を「振動」として捉えるそうです。

宇宙も振動なのです。「振る」ことが命を生みます。

 

グルジェフも創造の光の流出(生命潮流)を、すべて振動数で説明していましたし、テスラも地球を割るほどの振動の秘密を知っていました。

神道と振動(一音違いですね)との関係では「魂振り」とか云いますから、勿論根幹をなすものですが……

 

身近な処では、大相撲でも振動なのです。

YouTubeに、古来からの相撲を科学的に検証して挙げておられる、元力士の一ノ矢関に拠りますと……

相撲独特の基礎練習である「四股」「テッポウ」は、ともに「振動」する稽古だということです。

 

大鵬関は、テッポウ2000回・四股500回を毎日こなし、血尿が出るほどだったそうです。(大鵬の鉄砲は、張り手に近い打撃であり、内臓を傷めて血尿となったようです。本来は「弾く」のがテッポウ)

 

現在の力士は、テッポウも四股もほとんど真剣に取り組みません。

なぜなら、四股は筋肉に対する負荷が少なくてスクワットに劣り、テッポウは単純な押す運動だと勘違いしているからです。

 

一ノ矢関によると……

四股は 足を高く上げる筋肉運動ではなく、足を低く足踏みしたときの大地に触れる「振動」が大切なのだとか。

テッポウは対手を押すツッパリ筋力をつける運動なのではなく、本当は柱に掌が当たる瞬間、

掌で「弾く」運動だそうです、

即ち 身体を「振動」させることが根本義 なのです。

 

相撲というものは、この二つの運動を極めながら「ぶつかり稽古」で実戦をこなすことで、技術練習や持久力練習などをしなくとも、

【誰であろうと】立派な力士に昇りつめることができる、すぐれて単純な行法だそうです。

見かけからしたら、西洋レスリング🤼‍♀️と似ているから、相撲レスラーと言ったりしますが、レスリングとは明らかに別物なのです。大相撲に「寝技」はあり得ません。

 

相撲(角力)とは「立技」最強の格闘技でもありましょう。ただ、同時に神事芸能でもあります。横綱の踏む「四股」には、悪霊退散の霊力が宿ります。

伊勢白山道に拠れば、角力界では古来からの神事が正統な形で受け継がれていて、相撲の土俵造りの神事や横綱の土俵入りなどの神事が厳格に守られて祭行されているそうです。

 

そういえば、東日本大震災の折には、八百長問題で角界は大揺れで春場所が中止に追い込まれていたのです。大地を鎮める、力人たちの足踏み(取組=神事)が挙行されなかったことが、おおきく影響したのだそうです。

天皇陛下に準ずるように、大相撲力士には、いまだに祭司の「神格」が具わっておられるようです。となれば、「蹴鞠」と同じように、「四股」もまた天上の神さまに捧げる神恩感謝の型であるとも云えそうである。

       _________玉の海草