『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《玉断》 カルロス・カスタネダ〜 「明晰さ」 の先にあるもの ‥‥

2022-06-13 11:33:26 | 小覚

__ 文化人類学者からスタートしながら、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスに出逢うことによって、フィールドワークを重ねて、いつの間にかメキシコ🇲🇽のトルテックの秘儀参入物語を描いてしまった、UCLA出身の作家カルロス・カスタネダについて、まとめてみたい。

 

【ドン・ファンの呪術的な盟友(ALLY)は、ワタリガラスであった。】

 

【ほとんどの訳は、真崎義博さんがご担当になられた。ドン・ファンのとぼけたユーモアや冷徹な箴言は、真崎さんのお力による処が巨きい。】

 

 

● ドン・ファン・マトゥス

古代メキシコ(トルテック)のシャーマンの流れを汲むブルホ( brujo =呪術師・医者等の意)、ヤキ族のインディアン

その軽妙洒脱で 深い人生経験による認識から紡ぎ出される語り口は、ボクの内ではグルジェフに匹敵する

ユーモアたっぷりだが、凄みのある怖さが漂う

彼は自らをナワールと称し、『イーグル』に呑み込まれないように闘う自由の戦士であるとの記述や 独特の世界観の中で、地球には48本の帯があるといった記述がグルジェフの『月の捕食』や水素表の48番に符合する

そーしたことから、UCLAに在籍した人類学者カスタネダによる、グルジェフのパロディとの見方もある

「管理された愚かさ」

「履歴を消す」

「世界を止める」

「自尊心をなくす」

「死はアドバイザーである」

 

(ドン・ファン・マトゥス)> 

非情に、しかし魅力的にな。

狡猾に、だが気持ちよく。

忍耐強く、だが活発に。

やさしく、だが容赦なくな。

女だけにそれができる。

ー非情さが苛酷さに

ー狡猾さが残酷さに

ー忍耐が怠慢に

ーやさしさが愚かさになってはならない

 

> 「何だって百万(もの道)のうちのひとつさ。

だからお前も、いつでも、道は道にすぎんということを心に刻んでおかにゃいかん。

お前がその道を行くべきでないと感じたら、どんな時でもそこに留まってはいかん。…… ()…… 

だが、その道を進むか離れるかの決心は、恐れや野心とは無関係でなければいかん。

忠告しておくが、どの道もじっくりと慎重に見るんだぞ。これで十分と思うまで何度でもそうするんだ。

そうしたら自分に、自分だけにひとつ問いを発するんだ。……

『この道には心があるか』……

もしあればその道は良いものだし、なければ何にもならん。

その道は両方ともどこへも導いてはくれんが……

それに従い、それとひとつになれば楽しい旅ができるんだ。」

 

> 「自分でしとることが、地上での最後の戦いになるかもしれんことを十分承知してやると

そこには焼きつくすほどの幸福感があるのさ。」

 

> 「最良の状態でいるためには、いつも心のある道を選ばにゃいかん。

そうすれば、いつでも笑っていられるんだ。」

(*ナワール・ファン・マトゥス)

 

あそこにある、あの岩が岩であるのは【する】からだ。

見つめることは【する】ことだが、

‘ 見る こと、それは【しない】ことなんだ。

あの岩が岩であるのは、

おまえがやり方を知っとるすべてのことのせいだ。

わしが【する】ことと言っとるのは、そのことだ。

たとえば、知者なら岩が岩なのは、【する】ことのためだってことを知っとるから、岩に岩であってほしくないときは、

ただしなければいいのさ。

世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方、【する】ことを知っとるからなんだ。

世界を止めるためには、

【する】ことをやめにゃいかん。

 

日常的な世界が存在するのは、わたしたちがそのイメージの保ち方を知っているからで、

逆にもしそのイメージを保つのに必要な注意力をなくしてしまえば、世界は崩壊する。

 

ヘナロが言うには、

正しい選択か間違った選択しかないのだそうだ。

・間違った選択をすれば、身体でそれがわかる。

・正しい選択をすれば、

身体がそれを知り、緊張がとれて、選択が行なわれたことをすぐに忘れてしまう。

すると、そうだな、ちょうど銃に新しく弾薬をこめなおすように、

つぎの選択にたいして身体の準備がととのうのだ。

(*ヘナロとは、ドン・ファンの友で、最高点にまで達した戦士であるドン・ヘナロのこと)

 

宇宙は明らかに女性で、男性は女性の派生物であり、ひじょうに珍しく、ゆえに切望されている

たぶん男の少ないことが、この地球でのいわれのない男性中心の理由だろう…”

ードン・ファン・マトゥス(*) /カルロス・カスタネダ『夢見の技法』二見書房

 

【二見書房が、この本のみ講談社から翻訳権を奪われた一冊、名谷一郎・訳】

 

 

● 明晰さの先にあるもの…”

[2013-11-23 10:36:06 | 玉の海]

 

学問とゆーものが好きで、研鑽を積んだ歴代の碩学と呼ばれる先人たちを心から尊敬する私でありますが

その御方たちでさえ、知者と云えるかと云えば、必ずしもそーではないと感じます

「知者」=正知を知り行なう者といったイメージを抱いています

まー、そーゆー事で幽界のお話なんですが、ひょんなことから見つかった読書ノートより引用します

 

> “知者の敵

人は学びはじめの頃、自分の目的が決してはっきりしていないものだ。

目的は不完全で意志はあいまいだ。

学ぶことの辛苦をぜんぜん知らないから、決して物質化できない報酬を望むんだ。

彼は少しずつ学びはじめる― 最初はほんの少しずつだ。

それからたくさん学ぶようになる。

そして彼の考えはすぐにくずれちまうんだ。

彼の学ぶことは、頭に描いたことも想像したこともないことなんだ。

だから彼は恐れはじめる。

学ぶということは、思ってもみなかったことなのさ。

学ぶことのステップひとつひとつが新しい苦労なんだ。

 

こうして彼は第1の自然の敵に出会うんだ。

それが【恐怖】だ。

もし人がそれと面と向って恐れて逃げだしたら、彼の探求に終止符がうたれるのさ。

恐怖に打ち勝つには、

答は簡単さ、逃げないことだ

恐怖などものともせずにつぎのステップへ進むんだ。それからつぎ、つぎへとな。

きっと恐怖でいっぱいになるにちがいない。だが止まってはいかんのだ。

これが ルールだ。

そうすれば、やがて第1の敵が引きさがる時が来る。

一度恐怖を打ち消したら、もう一生それからは解放される。

どうしてかっていうと、恐怖のかわりに明晰さを手にするからだ。

 

そこで第2の敵に出会うことになる。

【明晰さ】だ。

それは得にくく、恐怖を追い払うが、同時に盲目的にしちまうのさ。

それは自分自身を疑うことを決してさせなくするんだ。

何事もはっきりと見ちまうから、自分のしたいことは何でもできるという確信をもたせるのさ。

彼は明晰だから勇敢だし、何事の前にも止まることがない。

だが、これはすべてまちがいだ。

もしこの確信させる力に従えば、そいつは第2の敵に敗北し、学ぶことに失敗するだろう。

辛抱強くあるべき時にあせり、急ぐべき時にのんびりしちまうだろう

第2の敵に)負けないためには、恐怖を負かした時にしたことをするんだ。(…… 以下続く)

 

[*引用文献は、二見書房刊のカスタネダ本から、大恩ある訳者・真崎義博さんの訳文で…… 次の投稿も同様に]

 

● …前の投稿から続く

>(第2の敵に)負けないためには、

恐怖を負かした時にしたことをするんだ。

明晰さを無視して

見るためだけにそれを使い、じっと待って新しいステップに入る前に注意深く考える。

特に、自分の明晰さはほとんどまちがいだと思わねばならん

そうすれば、

自分の明晰さが目の前の一点にしかすぎないということを理解するときがくる。

こうして第2の敵を打ち負かすんだ。

そうして、何物も二度と彼を傷つけない所へ着くわけだ。

これは、まちがいじゃないぞ。

それは単なる目の前の一点じゃない。

本当の力だ。

この時、彼は長い間追い求めてきた力がやっと自分のものになったことを知るんだ。

それを使ってしたいことができる。彼の盟友は意のままだ。彼の望みがルールになる。

自分を取りまくものすべてが見えるんだ。

 

そこで第3の敵にぶつかる。

【力】だ。

第3の敵に勝つには)それをうまく無視することだ。

てっきり負かしたと思っている力は、実は決して自分のものじゃないことを悟らねばならん。

それまでに学んできたことを注意深く正確に扱って、いつでも自分をまっすぐにしておかねばいかんのだ。

もし自分自身をコントロールすることのない「明晰さ」や「力」が、

失敗よりも悪いことだということがわかれば、

あらゆるものが抑制されている点に到達するんだ。

そのとき自分の力をどう使えばいいかわかるだろう。

こうやって第3の敵を打ち負かすんだ。

 

そして、何の警告もなく最後の敵にぶつかるんだ。

【老年】だ。

これは四つのうちで最も残酷な敵だ。

完全に打ち勝つこともできず、ただ戦うのみだ。

この時こそ、一切の恐怖も心のせっかちな明晰さもなくなる時なんだ― あらゆる自分の力はチェックされ同時に休息への望みを強くもつ時でもある。

横になって、忘れようとする望みのために完全に戦いをやめたり、

疲労のために自分をなだめたりしたら、

最後の1ラウンドを失うことになっちまう。

敵はそいつを弱々しい年老いた生き物にまで落としちまうだろうよ。

引退したいという望みは、明晰さ~力~知をすべて無効にしちまうんだ。

だが、その疲労を脱ぎ去って、ずっと自分の運命を生き抜けば、

仮に最後の無敵の敵に打ち勝った、ほんの少しの間だけにせよ、

その時、知者と呼ばれるんだ。

明晰さ~力~知のその瞬間で十分なんだ。

¨

…… 本に登場する、ドン・ファン・マトゥスの述懐でした

【古代トルテックの「体術」「ダンス」「身体操法」】

 

● 小暴君 (*引用は、C.カスタネダ『意識への回帰~内からの炎』より)”

[2013-12-08 00:22:56 | 玉の海]

 

 

1500年代に、

スペインに滅ぼされたアステカやインカの文明~メキシコ高原からアンデスに続く中南米の地域は、それ以降スペインの専制下に蹂躙された

ドン・ファン・マトゥスの所属する知の体系、古代トルテカ文明を継承する「トルテック(見る者・知る者)」は…… 

この、征服して専横をほしいままにした暴君たちの中に…… 

彼らの修行(戦士としての鍛錬)に欠かせない、重要な要素を見いだした

但し、戦士の多くがスペイン人暴君にハエのよーに殺されてもいる

植民地では、支配者の気まぐれで命を落としたりする

生殺与奪の権力が、無限に行使された野蛮な時代でもあった

グルジェフが、あのラフミルヴィッチ(ルーシェ検索参照)を金で雇ってまで、導入しよーとしたものとも関連するかも知れんが…… 

ドン・ファンの師は、小暴君にめぐり会う戦士は幸運だとまで云っていた

それは、小暴君を使う戦略的仕掛けがもたらす効果が絶大だからである

 

▼ 超然とすることを教える

▼ 自尊心を追い払う

▼ 知の道で唯一重要なものは、完璧さだけなんだとさとらせる

 

…… かれらトルテックの戦士にとって、自尊心とはエネルギー問題なのである

 戦士が自尊心と闘うのは、カソリック的な道徳(モラル)の問題としてではなく、

戦略の問題としてなのだと云う

戦士は戦略の一覧表をつくるんだ。自分がすることを、すべてリスト・アップするんだよ。

それから、自分のエネルギーを使うことに関して、

ひと息つくためにはどの項目が変更可能かを考えるんだ。

…… つまり、戦士の一覧表の筆頭に自尊心が来る

大量のエネルギーを消費するものとして、彼らはそれをなくそうと努力しているわけである

こんな見方も面白い♪

生き残る為に、「流れ」の下流に位置せよと謙虚を説かれた老子とも、底では繋がってるよーな…… 

 

 

● “続・小暴君

[2013-12-08 01:18:44 | 玉の海]

 

どこの職場にも、強大な権限をもった、どーしよーもない小暴君がいたりする

古代メキシコのシャーマン「見る者」たちは、それら小暴君を、

わしらには管理できない外的な要素、それもいちばん重要な要素だ。

…… と認識した

なぜならば、

力をもった並はずれた人間を相手にする難行くらい、戦士の精神を強くするものはない…… ()…… 

そういう状態でこそ、

戦士は不可知のものの重圧に耐えるだけの平静さと落ち着きが得られるんだ。

…… つまり、知の道の戦士として、未知なものや不可知の存在(非有機的存在=悪魔のイメージの原型)に耐える為には、

この現実界で、

生身の小暴君と向かい合ったときに自分を守ることができなければならないのだ

その意味では、

スペインの征服者たちの振るった権力と横暴は、

「見る者」たちの自尊心を追い払い、完璧さ(エネルギーの適切な使い方)を身につけさせる、またとない重要な役割を果した

ふつうの人びとは自分というものを深刻に考えすぎている…… 

> (戦士が)自尊心を抑えているのは、

【現実というものは、私たちが行なう解釈だ】ということを理解していたからなのだ。

少しでも自尊心をもっていると、自分にはなんの価値もないと感じさせられたときに、ずたずたになっちまうものなんだ。

…… 彼らが小暴君を相手にする時には、四つの特質を使う

自分を踏みつけにする者がいるときに、精神を調和させるのが【管理】なんだ。

殴られているあいだに、相手の強味・弱味(気に入っていて失ないたくないもの)・気まぐれな行動等を思い浮かべるのが

【訓練】というやつだ。

【忍耐】というのは、あせらず、懸念をもたず、ただ待つこと。

出して当然のものを単純にひっこめておくことだ。

【タイミング】というのは、抑えていたものすべてを解き放つものだ。

「管理・訓練・忍耐」は、あらゆるものをせきとめておくダムのようなもので、

「タイミング」はダムにつくられた水門なのだ。

…… 戦士が小暴君より優位に立てる点は、考えぬかれた戦略、自尊心からの解放、そして

戦士は自分を深刻に考えないのにくらべて、

小暴君は決定的に深刻に考えるものだ…… 

…… ドン・ファンの手法の中に『管理された愚かさ』とゆーものがある

自らの戦略の為にあえて、コントロールされた愚行を演じるのである

そして、これが戦士と一般の人々を繋げる唯一の絆となっている

『アホウになれ』って事かしら?

【カスタネダ本の、ラスト2冊は結城山和夫・訳】

 

__ 一箇の文学作品としてみても、グルジェフ『ベルゼバブの孫への話』などは、壮大な未曾有の宇宙SF物語だが、カスタネダの一連の「ナワール世界の物語」もまた、異次元にある「非有機的存在(悪魔の原型と云われる)」の醸しだす鳥肌が立つほどの存在感は、たとえばラブクラフトの「クトゥルフ神話」の畏怖すべき人外の化生に優に匹敵する凄まじさであろう。

                                  _________玉の海草


 悟ったつもり (小覚) 〜 フラクタル一緒くた (一即多)

2022-03-12 20:10:53 | 小覚

__ 実は、自分がミジンコなのを自覚するのも、ほとんど無力に等しいイセハクサンダー(伊勢白山道読者の意)であるのもほんとはイヤだったんですよ。

出来ないヤツが「わたしなんか、とてもとても出来ません」なんて云っていても、それは「謙譲の美徳」などと誉められたものでは決してなく、たんに正直であるに過ぎないとゆーのが、私の持論。実力あってこその謙虚さなんじゃないかな。

絵空事を描いてばかりで、世界が平和でありますよーになどと他人事みたいに神に願っている穀つぶし(いつでも誰かに依存する女性信者に多い)なんぞ、何の為に生まれてきたのやらとまで、自分も含めて思い込んでいました。

…… だけど、ちがうんですね。

 

「ロコ・ソラーレ」の小柄なおふたり(夕梨花さんと夕湖さん)

【カーリング ちび部 をつくって活動しているニュースには、何か異様に惹きつけられた。

『おじゃる丸』の「月光町ちっちゃい者クラブ」に意表を衝かれ、「モ・ーニング娘。」の「ミニモニ」にも瞠目した私であったが……

 

 

清少納言のゆー「ちいさきもの」に触れて発動するものが、吾々日本人のDNAのなかに組み込まれているのであろーか。

おそらく自我の主張とは「外へ向かう」もので、謙遜や謙虚な心持ちとは「内に向かう」ものと思う。

何かしら、この「ちび部」には、些細なことも丁寧に行う、丁寧に生きる謙虚な姿勢が感じられてならない。

女子バレーボールの沙織・舞子の美形と並んで、たとえその半分くらいしかなくとも、外国人選手のあとに自転車漕ぎのトレーニングしよーとしたら、跨るどころかサドルが胸の位置くらいまであったとしても、ひとりはひとりである。

 

 

小さい者の築く城は、からだに合わせて小さくともよろしいわけである。小さいのは足りないわけでは決してない。小さくて美しいものは世間に溢れている。

それゆえ、「小さい事」に焦点を合わせて、自分が主人公となっても当然よろしいわけである。

 

何か緻密な人間離れした精確さに及ぶこともある「ちいさいもの」への志向は、一番小さなフラクタル(相似形)に向かうのではあるまいかと夢想している。

小さなフラクタル=吾々の氏神さまへの月参り……

大きなフラクタル=今上陛下やリーマンさんのご神事に合致する、等質であり等価なのではないかと不図思いついた。

たとえ小さなフラクタルであろーと、その人なりのフラクタルを丁寧に生きれば事足りるのではあるまいか。

フラクタルと云ふ意味は、小さいなりの「全体」を網羅してやらなければならないからである。

小宇宙に完結したことは、大宇宙でも完結する。

自ら携わった「小宇宙」を治めねばならない。

 

ここで、養老先生のYouTube『仕事の悩みで辿りつく境地、結局はこの2択なんです』が参考になった。

好きな仕事をずっとしてゆくためには、嫌いな仕事もしなければならなくなる。そのセットでひとつの仕事になっている。小さなフラクタル、宇宙の摂理の雛型 (相似形で、小さい内に全体が在る。

例えば、職人技の発揮できる難しい仕事をしたいのに、発注主と交渉しなければならないし、同僚や部下を育てなければならないとゆー「嫌な仕事」がセットで付いてくる。

養老先生は、好きな仕事を続けるんだったら、そんなイヤな仕事も好きになるしか手はないと仰っている。(たしかに、カール・ヒルティもいかなる仕事でも熱心にやると次第に好きになってくると喝破していた)

 

【養老語録】

なんかの仕事をしようとすると、実は大抵の場合ありとあらゆる事をしなきゃいけなくなっちゃう。

好きな事やりたかったら、やんなきゃならないことは好きになるしかない。

> 仕事を変えるのと、自分を変えるのと、どっちが楽かって話になるんです。

> ある程度肚を括らないとダメなんですよ、半端にやったらだめですから、…… 

> 生まれてきたら、世の中あったんで、諸君は全員が遅刻してきているんです。

> 後から来たってことは、前もってあることを知らなきゃいけないってこと。

> 後生に重点がおかれている、先生じゃなく…… 

> 何が好きか、実はよくわからない…… 

> 好きなことって…… なんか付いてくるんですよ。

> 自分の方を変えちゃって、これはおれ好きなんだと勝手に思った方がいいんですわ。

> われわれ生まれてくる以前から、世の中先にあったってことです。生まれてきたら世の中あったんで、…… 

 

(内田樹の比喩)> サッカーのゲームが既にはじまっちゃっている、選手としてそこに放り込まれちゃった、ところがルールも身体の動かし方もなんにも知らない、必死で覚えるしかない、周りみて、それが実は「仕事する」ってことだと思うんですね。

 

(養老語録に戻る)> 遅れてきているから、追いつこうと思って必死になるわけでしょ、…… 

> 先生が、先に生まれてどうして偉いのか…… 

後から来たひとは、前もってあることを覚えなければならない

 

【養老孟司】これに気づくと悩んでることがバカバカしくなります。仕事の悩みって結局のところ、この二択でしかないんです。

 

youtube#video

 

【動画が消えてしまったので、次善の動画を貼ります。↓】

 

つまる処、好きな仕事を職業とするのも、嫌いな仕事を職業とするのも、究極においてはそんなに変わりはないとゆーことである。

嫌いな仕事のうちにも、好きな要素はあるからである。

個々が直面するすべての全体の「流れ」を、「仕事」と呼ばれる人為活動のなかで執り行い、達成する。

これは、小さいながらも「宇宙を治める」ことと同位である。

人間の小さい仕事のなかに、神が宇宙を統べることと同様の消息が含まれている。

これを、「人間は神性を帯びる」と言い表したものだろー。

 

いわば、「ちび部」は宇宙のフラクタル、地球規模ではDSの活動に匹敵するのではないかな。

彼女たちの天然自然な笑顔に接すると、励まされる、応援したくなる、面白くって力が湧いてくる。

「ちび部」の本質は、案外深い処まで達しているからだ。

異常気象・567・戦乱のちまたでも、神の如きブログ主(人生百般相談霊能者・リーマンさん)に「彼とうまくゆくか?」訊ねるよーな人にあっても、小さなフラクタルが厳然としてある。

どーか、目の前のことに真剣になってください、信じたくはないが、それが神業となっているだろーから。

 

永井豪『手天童子』では……

鬼獄界の創造主にして、この物語の始まりと終わりを支配する「大暗黒死夜邪来」は、鬼から我が子 (主人公・手天童子郎を奪われないよーに必死に守る母親 (主人公の育ての親の業念がその正体であった。

親子の間の遣り取り (小さなフラクタルが、次元を超えた宇宙間の広大な戦闘 (大きなフラクタルとなっている。

宇宙の内に「真我」が在るのではなく、

【脳内に宇宙がある】ってリーマンさんが云ってらしたよーな……

自分とゆー小さなフラクタルを丁寧に仕上げてゆくってことで、それがそのまま大きなフラクタルとなり、宇宙の主ともなるんじゃあるまいか。

 

栄西さんが云ってた「太虚を包みて元氣 (根元の氣を孕むもの」ってことかな。

[注; 栄西(よーさい)『興禅護国論』序-より]

大いなる哉、心(しん)や、

天の高きは極むべからず、しかも心は天の上に出づ。

地の厚きは測るべからず、しかも心は地の下に出づ。

日月の光は踰(こ)ゆべからず、しかも心は、日月光明の表に出づ。

大千沙界(だいせんしゃかい)は窮むべからず、

しかも心は大千沙界の外に出づ。

それ太虚(たいこ)か、それ元氣か、

心は則ち太虚を包んで、元氣を孕(はら)むものなり

天地は我れを待って覆載(ふさい)し、

日月は我れを待って運行し、

四時は我れを待って変化し、

万物は我れを待って発生す。

大なる哉、心や。

           _________玉の海草


 伊勢白山道の出現〜 今まで気づかなかった 「アタリマエ」 に感謝する

2021-12-29 05:01:14 | 小覚

__ある時から日本人は、両親に対する感謝や、裏方のスタッフに対する感謝、ボランティアに対する感謝や、毎日の「あたりまえ」を実現するために尽力している「陰」の方々への感謝を、あたかも優勝インタビューに応えているかのよーに公けに堂々と口にするよーになった

 

伊勢神宮では「神恩感謝」、浄土系仏教では「報恩感謝」と、目に見えない「お蔭」に感謝してきた伝統はたしかにある

しかし、「いまの自分があるのは〇〇のお蔭だ」と、やたらに「感謝、感謝」と言い始めたのは、明らかに2007年以降のことである

 

ブログ『伊勢-白山 道』の人気が徐々に上がってきたのと軌を一にする

伊勢白山道では、自己の存在への感謝(「感謝想起」生かして〜の聖句、人類全体の存在への感謝でもある)をはじめとして神恩感謝と先祖供養(先祖に感謝する行為)が柱となっている

伊勢白山道では、天皇陛下や内閣総理大臣の御心のうちを霊視したりするものだから、皇室や政治家たちの閲覧者も多いと思われる(いままで大人数の一般人が、世に知られていなかった陛下や総理のご努力に感謝を捧げることなど先ずあり得なかった、しかし伊勢白山道ではそれが常態化している)

あたりまえのよーに愛情をそそぎ世話をやいてくれる両親への感謝も語られるよーになった、両親とは直近の「ご先祖」に他ならないからだ

いままで意識していなかった、さまざまな人々の尽力こそが社会を下支えしていることに気づくことが「正見」に繋がるのである

 

 

__ わたしは、2008年から継続して伊勢白山道の読者だが……  ブログを読み続けることによって自分にどんな変化が起こったか、書き留めておきたい

◆伊勢白山道を通じて、止めるに至った習慣

・タバコ 🚭〜 たとえば「不老不死」を求めるのは永い時間があれば覚醒する機会が多いだろーとゆー中国人のプラグマティックな思想から来ている、タバコは健康を害する、この事実を直視するならば、「喫煙とは長期間かけた自殺である」

・占い 🔮〜 宇宙進化の道筋を示す思想(例えば、西洋占星術では星座ごとの太陽の意味を牡羊座から順繰り読んでゆくと最後の魚座まで進む過程が、いわば魂の錬金術を表している)とも云えるが、高度な理論を有するタロット・カードや西洋占星術、そして易学(儒学の最高峰『易経』を大上段からバッサリ否定する人を初めて見た、伊勢白山道では「8×8=64」の易理の上に「9×9=81」の『道徳経』の理を置く)を潔く諦めた

・呪文、唱え言 🪄〜 すべてのマントラ・真言、祈祷、祝詞、西洋では「コンスタント・プレア」と呼ばれる唱え言を止めた、伊勢白山道では聖句と太祝詞「あまてらすおほみかみ・あまてらすおほみかみ」そして観音経の一節だけがいまでも命脈をたもっているとゆー由縁で唱えられる

・父親への憎しみ 💢〜 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の親子みたいにソリが合わなかった、前世は敵同士だったのかと嘆いたものだ、しかし伊勢白山道のお蔭で生前に父に向かって感謝想起することが出来たし、先入観なく父をみると聖ラマナ・マハリシの慈愛に満ちた眼差しと酷似していることに気づいた、愛されていたことが沒後にようやく分かった

・仏事へのこだわり 🪷〜 禅宗の葬礼法事はとにかくお金がかかる、戒名つけるのも読経もご先祖にとってほとんど無意味だと徹見するに至った

・霊的な奇異への興味 👁️〜 「正神に奇異なし」「正神は言挙げせず」は伊勢白山道の金言である

・オカルト書籍の収集 📚〜 たとえば、色々な世界宗教に入門してそれぞれに覚りの最高位まで到達したラーマ・クリシュナは、それ自体偉大なことだが、時間はかかるし危険も伴うことから伊勢白山道では、ラーマ・クリシュナや白隠の生き方(破天荒に過ぎる為)は推奨されない、わたしもラーマ経由で手当たり次第に辿るのは幸運なくば到底かなわぬと諦めた、伊勢白山道の毎日の記事で霊的な間違いはひとつ一つ消していったので、わざわざ時間を労してオカルト本を読む必要がなくなった

 

◆伊勢白山道を通じて、新たに始めた習慣

・古神道の根本的見直し〜 伊勢白山道に出逢うまでは、オカルト全般に張り巡らされた私のアンテナに「神道」が引っかかることは不思議にもなかった、伊勢神宮の外宮を神聖に保つために内宮に人びとを引き寄せているとゆー方便とおなじく、オカルト好きに対しても伊勢神宮と白山の神界の大秘は幾重にも厳重に隠されているよーである

・手作りの短冊供養〜 「霊的な計らいは空気と同じく無料(タダ)」が伊勢白山道の信条なので、初期費用がほとんど掛からない位牌(短冊で作る)を自分で手作りする、貧乏な人のために割り箸の「おてもと」を流用したアイデアを披露しておられたのを読んだときにはやおら感動した

・三本の線香供養〜 線香を何本立てるか、そこには霊的な理由があった、三本を三角形に立てる、三角形の向きにも理がある、イザナギ・イザナミ両神がオノゴロ島に降り立ち「天の御柱」を御「見立て」になったよーに、日本文化は「立てる」ところから始まる

・神社札、生榊、水玉の祀り〜 神気の渦を巻き起こすために三社を祀るものだそーだ、榊も対称である必要がある、水玉は大きければ祓いの力が増すらしい

・氏神神社、崇敬神社への月参り ⛩〜 脳裏に思い浮かべるだけでなく、実際足を運ぶことが最重要な事、神祀りとは自発的なもの故に氏神神社は一里以内から自分で選べるものだそーだ

・感謝想起(「生かして〜」の聖句ですべてを括る)〜 このことばこそ伊勢白山道の根元である、伊勢神宮の外宮で降ろされた由来があるが、宗教的なことばを一切つかわない伊勢白山道が「聖句」とみずから名付けている処に深い消息がある、グルジェフの「自己想起」が余りにも難しくて誰も成し得なかった故に、このことばをつかった「感謝想起」に変更してバージョンアップしたことは伊勢白山道の偉大な発明であろー

 

◆伊勢白山道への不満・疑問・批判

・文章力、たとえのセンス、語彙が乏しい〜 霊視して内容が把握できるため、時間をかけて読書していないことが根本原因かと思う、美しい和文例をある程度は暗記して自家薬籠中の物にしていないと応用が利かないし、文章にキレが無く締まりもよくない

・「分かりやすさ」への拘り〜 真理を小学生にも分かるよーに易しく解説しよーとして現在も奮闘中である、わたしは「噛む(=体当たりで思い切り味わう)」体験はもっとも重要なアプローチ(世界との接し方)ではないかと思っている、子どもに柔らかい物しか食べさせなければ、強靭な顎は育つまい

「言霊の調整の為」と称して誰もわからない手間暇をかけて推敲してから出版する〜 和歌のひとつも吟じないのに、なにかにつけ「ことだま」の作用に言及する、音霊が大事なのか、美しい日本語が大事なのか、よくよく考えて頂きたい、とうてい後世に語り継いで遺したいよーな文章には成っていないと思うのだが…… 

 

‥‥ ざっとこんな具合だが、最初から伊勢白山道を信用していたわけではない、私がブログを訪れたのは、処女作『内在神への道』のなかにあった卓抜な人物評(「人物論」)に心惹かれたのがきっかけだった

ブログの過去記事・コメント欄すべて読破して、質問などしてみて、半年間ほどは疑心暗鬼で胡散臭い感じもあり、疑ってかかっていたと思う

しかし、なかなかボロが見つからなかったし、朴訥で素人じみた生硬な文章にかえって「市井にまぎれた真人」の真実味を感じとっていた、リーマンさんの出自は代々「鬼塚」を守る家系で、敏達天皇につながる橘家だと云ふ(本人談)

短冊位牌も手作りして、本格的に伊勢白山道式の神祀りと先祖供養を始めると、なにやら手応えがあった、やはり故人の供養はその子孫がおこなうべきだし、そーするのが自然であり、子孫しか真心こめての供養は出来ない

 

わたしの家は、山形県の田舎町で伝統仏教(曹洞宗)の檀家であるから、両親が拝む様子をみて子どもながらに真似して、毎朝神棚・仏壇は拝んでいた

水を上げて線香点けてと基本的な所作は変わらない

しかし、ひとつ一つの礼式の意味を伊勢白山道で学び、みずからの実践のうちにその内的な意味まで実感してくる、霊的(=礼的)型がわかってくると、供養が只の儀式ではなくなる

自己満足的ではあるが、双方向のコミュニケーションとなってくる

霊がいやがること(例えば、線香を折る、左右の榊の接触等)も理解した上での真心供養は、いままでの姿勢と一線を画すものとなった

 

 

ーこーして記述していると普通の田舎人が、伊勢白山道に出逢って転機を迎えただけのありふれた出来事に見えるが、中身はまるで違うのである

なぜなら、わたしは筋金入りのオカルト・マニアだったからである

長年の霊的探求により、すでに自分律をもっていた、新宗教みたいなものは匂いでその不安定さを嗅ぎ取って即座に離れる、集団狂気の匂いかな

ところが、伊勢白山道の場合、私がいままで全く触れたことがなかった霊脈につながっている感応があった、伊勢神宮(日本の親神さま)と白山神(宇宙規模の大霊)による古神道には畏怖のあまり手を出せないよーな、わたしの肉体が肌で危険を感じとった

神道に「修行」はなく、「教義」も「教典」もなく「教条」すら無い

既知の世界宗教からは感じられないよーな、まったく隠されたもの、それがいままで馬鹿にして軽視していた、いわゆる「神道」の内に見い出せることに、通常の善知識(知性)を遥かに超えた叡智のよーな感触を懐いた

 

●一例として、グルジェフの「自己想起」から伊勢白山道の「感謝想起」へと深化(進化・神化)した霊的な偉業を見てみよう

(拙稿)> 

グルジェフの第四の道が、第一(ファキールの道)第二(修道僧の道)第三(ヨーギの道)道筋のいずれもに絶望した探求者たちに提示されたよーに

リーマンさんの第五の道は、第四の道にも挫折した者をも視野に入れている画期的なものだと思います

第一の『肉体との闘いの道』や、

第二の『信仰の道』

第三の『知識と精神の道』

そして第四の、なにものとも自己同一化しない『自己想起の道』

リーマンさんの第五の道は、更にビルド・アップされて、無師成道の『感謝想起の道』である

 

‥‥ リーマンさんの記事で、グルジェフの「自己想起」のやり方を四段階に分けて詳細に独自解説した、注目すべき記事があるので、以下にリンクしておく

📖 ブログ『伊勢-白山 道』の記事 [2016-09-16 11:10 | Weblog] にリンク

自分の心に良い仕事をして頂くこと

 

 

‥‥ 四段階、四相()、四様の「自己想起」となっている

 

1️⃣ 私は存在している。 〜 自分を「見る」

2️⃣ 私は今ここに生きている。 〜 自分のビーイング(存在)を観る

3️⃣ 私は生かされている。 〜 良心から「正知」を振り返る・顧みる

4️⃣ 生かして頂いて 有り難う御座います。 〜 聖句(叡智の結晶)に極まる

 

★四層にわたる「感謝想起」をした上で、例えば相手と自分、その中間を恒に意識する。つまり、どちらにも肩入れせずに、中間から観る。それ、鳥瞰すると言おうか、第三の意識を持つ、あるいは神の視座に立つとでも言おうか。(「離見の見」でもよいか)

 

 

‥‥ 『第四次元』へ挑み、意欲的著作『ターシャム・オーガヌム』で、グルジェフに目を付けられた数学者・哲学者・神秘思想家のロシア人〜 P.D.ウスペンスキー……

その代表作『ある未知の教えの断片(=『奇蹟を求めて』)は、彼の注目すべき妻・ソフィー(マダム・ウスペンスキー)の尽力によって、グルジェフから出版の許可を得た

夫の、この著作の五分の四がグルジェフ自身の言葉であることが彼女には痛いほどよく分かっていたからだ

それは、グルジェフの下から離れた「高弟」ピョートル・ウスペンスキーが突然亡くなった後のことであった

日本では、まっとうなグルジェフィアンたる浅井雅志さんの御手によって翻訳された『奇蹟を求めて』(平河出版社)を初めて目にした20代初頭、腰抜かすほどびっくり仰天したものだ

理系アタマで滅法知性の鋭い実践的理論家のウスペンスキーが、精魂込めた力作原稿である

解らなくて頭がクラクラしたが、興奮冷めやらぬまま最後まで読み通していた

それ以後も、なんど読み返したことか……

今では、伊勢白山道の御蔭もあって、第一愛読書からは外れたものの、愛蔵本には変わりはない

この本の中で、ウスペンスキーご自身が挑まれた「自己想起」への試みが縷々と語られている

みんな失敗例ばかりで、すこぶる困難を極めると云った報告であった

わたしも勿論挑戦したが、ウスペンスキーと同様、グルジェフから言わせると「弱い」のだった

ーそれらの過去体験を踏まえての、今回の伊勢白さんの示唆なのである

グルジェフ流の「自己想起」は、普通一分も保たない

「自分がいま◯◯している」ことを意識し続けるのは本当に至難なのである

それを、リーマンさんは「生かされている」と被造物としての受動をも盛り込み、更に神恩感謝【感謝想起】にまで昇華させて……

聖句『生かして頂いて ありがとう御座います』一句にすべてを収束結実させてお仕舞いになった

今回の示唆は、自分の内からの自覚から始まり、陰陽三位の聖三角形いたって具体的なご親切さ……

長くご先祖供養に勤しんで来られた方々には、線香火三位一体、親しみの深いご示唆ではないか知らん

 

 

ーここで、伊勢白山道に邂逅する以前のオカルト・読書遍歴を羅列してみよー

柴田錬三郎『運命峠』〜 五味康祐『柳生武藝帳』〜 池波正太郎〜 百地三太夫〜 ブルース・リー〜 大山倍達〜 今東光・叡山文庫〜 稲垣足穂『彌勒』〜 須弥山〜 プトレマイオス〜 ヴィトゲンシュタイン〜 ガウス〜 数学者リーマン〜  アインシュタイン〜 ウィリアム・ブレイク〜 永井豪『魔王ダンテ』〜

親鸞「自然法爾」〜 五木寛之〜 山本玄峰〜 鈴木大拙〜 加藤耕山〜 スウェーデンボルグ〜 イマヌエル・カント〜 ショーペンハウエル〜 メーテルリンク〜 ラブクラフト〜 フィリップ・K・ディック〜 南方熊楠〜 松岡正剛・工作舎〜 渋澤龍彦〜 荒俣宏『世界神秘学事典』『帝都物語』〜

老子『道徳経』〜 釈尊〜 摩訶迦葉〜 マハトマ・ガンディー〜 パラマハンサ・ヨガナンダ〜 ババジ〜 ロマン・ロラン〜 ラーマ・クリシュナ〜 ヴィヴェカーナンダ〜 カバラ・ゲマトリア〜 クリスチャン・ローゼンクロイツ〜 ピュタゴラス教団〜

『ヘルメス文書』〜 ヤコブ・ベーメ〜 マイスター・エックハルト〜 ヒルデガルト〜 シモーヌ・ヴェイユ〜 魔人アレイスター・クロウリー〜 ビスコンティ監督〜 グスタフ・マーラー〜 ルドルフ・シュタイナー〜 ゲーテ〜 カール・ヒルティ〜 イエズス・キリスト〜

 

【この御本はね、分厚くて「枕」にもなるんですよ ♪】

 

G.I.グルジェフ『ベルゼバブの孫への話』〜 P.D.ウスペンスキー『奇蹟を求めて』〜 アサシン「山の長老」〜 スーフィー旋回舞踏〜 オイリュトミー〜 ダライ・ラマ〜 チョギャム・トゥルンパ〜 儒家・孔子〜 酒見賢一『陋巷にあり』〜 顔儒・顔回〜

王羲之〜 顔真卿〜 空海〜 神智学クリシュナムルティ〜 出口王仁三郎〜 熾仁親王〜 山岡鉄舟〜 勝海舟〜 小笠原玄信斎〜 上泉伊勢守〜 塚原卜伝「一の太刀」〜 宮本武蔵〜 柳生十兵衛〜 津本陽『柳生兵庫助』〜 戸部新十郎『服部半蔵』〜 秦河勝〜 世阿弥〜 聖徳太子〜 卑弥呼(日見子)〜 鬼道〜 半村良『妖星伝』〜 夢枕獏『魔獣狩り』〜

カルロス・カスタネダ『イクストランへの旅』〜 グレート・スピリット〜 映画『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』〜 古代アレキサンドリア図書館〜 ジプシー〜 タロット・カード〜 西洋占星術〜 宿曜占星術〜 易占〜 中国武術・内家拳〜 神仙思想〜 慈雲尊者〜

黄檗・臨済・普化和尚〜『無門関』〜 白隠〜 盤珪〜 肥田春充〜 世親菩薩〜 C.G.ユング〜 エラノス会議〜 井筒俊彦〜 中沢新一〜 岡本太郎〜 アンドレ・ブルトン〜 サルバドール・ダリ〜 トリスタン・ツァラ〜『死海文書』〜 グノーシス〜 プロティヌス〜 ゾロアスター〜

 

その他諸々あるが、武術の極意の探求はほぼオカルト・マニアのサトリ探求と相似であるよーだ(剣禅一如とか)、たしか伊勢白山道との出逢いの直前には、映画『マトリックス』(1999年)と並行して、ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』シリーズを熱心に読み耽っていた、同じ頃『奇跡のコース』も話題となっていたが、私は読んでいない

 

 

80年代の書店の「精神世界」コーナーは、空前の繁盛ぶりであらゆる怪しげな書籍が山盛りにされていた(私は大阪駅前の「旭屋本店」❤️ に連日入り浸っていたもの だ)

「地下鉄サリン事件」(1995年)は、カルト宗教の怖ろしさを日本全国に周知させた象徴的な出来事であった

ノストラダムスの予言の1999年7月が過ぎるまで、信じていない風を装って、実は本気で心配していたものだ

2000年代になると、さすがの神秘不思議ブームも下火となって、60年代から続いた「新宗教〜オカルト〜覚醒〜精神世界」のスピリチュアル・ムーブメントも人々の口の端に上らなくなった

一方では、アニメやインターネットの流行が、仮想現実や異次元への親和性を高めたかも知れない

 

で、いよいよ2007年になって、「2ちゃんねる」のオカルト・スレッドに不定期に出没し始めていた伊勢白山道が、ある人物(伊勢白山道ファン)に招待される形でブログ『伊勢-白山 道』が開設される

翌年、広く心ある人びと縁ある人びとに「お知らせ」する為に、処女作、

『内在神への道』 が刊行される

わたしは、この本の巻末に記載されていたブログ案内を辿って、ブログ『伊勢-白山 道』に参入した(2008年)

当初は、3000人程の氏子(=読者)を獲得するために建立された「ネット神社」みたいな趣きがあった

 

【最初期のこの二冊は、良き本の持つオーラを纏っている、ビブリオ・マニアからすると、これ以降の書籍📚からは豪華な内容から流出する奥行きがあまり感じられない、本棚に並べてみるとよく分かる、良き本は存在感があるものだ】

 

その頃は、コメント欄も50〜100名くらいじゃなかったかな、気になるコメントを投稿した読者にブログ主のリーマンさんがコメント欄で任意にコメントを返していた

当時から、既成の新興宗教サイドからの妨害は甚しかった印象はある、神さんを利用したビジネス(教団組織運営)を熾烈に指弾していたから、生命の危険も顧みずによくやるもんだと感服していた、それがいまや表立った妨害工作はみられなくなったのだから不思議だ(何かが裏で働いているのか)

 

現在のよーに、誰でも質問できる形式になったのはいつ頃のことであったか…… 

何年か経ってからだったな、全面的な身の上相談(霊的な相談も含む)をしてまでも読者を増やさなければならない事情があるのかなと憶測していたものだが…… 

いまになって思えば、量子力学が発動するために必要だったのかも知らない

 

その頃は、リーマンさんの神社参拝日記(近畿圏に鎮座まします由緒ある古い神社)みたいな面白い記事も多数掲載され、韓国の南大門に白頭山の神霊の流れをうけとりに行かれたこともあったな ♪

東宮で祓われた「九尾狐」との霊戦も実況してくれた

霊的な知識に飢えていた、わたしたちオカルト・マニアは狂喜したものだ

 

現在は、もはや『伊勢-白山 道』は社会的に多方面に影響をもたらすよーになって、宗教色やオカルト色を一切排除して、まっとうな日本人を養成することに尽力している印象がある

生活全般にわたって、リーマンさんに十回二十回と質問して解答を得ている読者もかなりの数にのぼり、ブログの主旨(集団信仰ではなく個人の自己責任での信仰をすすめる)とはかけ離れて、多数のリーマン信者がいる模様である

 

「宗教は無くなります」との姿勢で、既成の有料先生を手厳しく攻撃してきたリーマンさんなので、新興宗教臭いのは根っから受け付けないのだが…… 

いつの世でも、信じる者は見境なく信じて従いてゆく依存体質であるのは変わりなく、いままで信仰していた宗教から「リーマン教」に鞍替えしただけみたいな読者も少なからずいるよーだ(リーマンさんを「先生」扱いして、教祖に祭り上げよーとする読者が絶えない、個人の自分信仰とゆーのは日本人には難しいのかも知れん)

 

わたしみたいに、凡ゆる霊的指導者に本を介して私淑しては広大な霊の海に翻弄され彷徨した経験がないものだから(真贋の見分けがつかなければ丸々無駄になる、神秘家は実践を貴ぶレアリストに成るものである)……   信仰生活の初手から「伊勢白山道」に参入するのも必ずしも恵まれた環境ではないみたいだ

 

たやすく手に入るものを、ひとは大事にうけとらない、自分で動かずに、与えられるのを待っている(つまり祈願である)

巣の中の雛鳥が、口を開けてエサを待っているよーに……   リーマンさんに食べやすく咀嚼してもらわないと消化できない依存症みたいな人もよくいる

自分で調べないのだ、噛み砕いて易しくしてあげないと受け取らない弟子を教えるマスターは大変である、伊勢白山道では師弟関係を完全否定するが、その「教え」を鵜呑みにして頼り切っている読者は多い

閲覧無料だし、よけいな霊的な作法に縛られないあたりは、何も知らない若い者たちには取っ付きやすいシステムではある

とはゆーものの、マルクスが「宗教は阿片である」と云った真の怖さに勘付いていない者にとっては、お手軽でゆるい精神覚醒道場であるよーだ

 

最近は、ほんとコメント欄がつまらなくなって(女性読者のもちこむ相談事は、霊的探求にうちこむ男性読者には全く相容れないものがある、最近では質問者のほとんどが女性である)、読むに堪えない有り様なので、リーマンさんに文句をつけては不掲載の憂き目をみている

お蔭さまで、伊勢白山道を熱心に熟読するうちに、老子『道徳経』は全章クリア、聖ラマナ・マハリシ(シヴァ神に帰依)もある程度は浸透している

伊勢白山道推薦のニサルガダッタ親爺(非二元の「賢者の道」の系統)は、吟味し終わった処なので、伊勢白山道の言語表現の甘さを突っつくくらいは、朝飯前である

 

にわかには信じがたい話しだが……  神さんは『伊勢-白山 道』を知らしめるために「インターネット」と云ふものを産み出したのだそーだ

 

いろいろと辛辣な諫言はしているが、わたしにはその畏れるべき「お知らせ」が真実だと心の内なる声が囁いているよーに感じてならない

        _________玉の海草

 

 

 


  釈尊正伝の仏道 (≠仏教) 〜 道元さん、勘違いしながら見神

2021-12-07 06:03:57 | 小覚

__曹洞宗の檀家なのに、道元さんの偉さにはとんと気付かず、伊勢白山道のリーディングで初めて、釈尊の正法を伝える唯一のブッディストだと云ふ道元さんの「見神」に畏れ入った有り様で、

慌てて『正法眼蔵』を覗いてみる

 

道元さんって、肖像画をみると「今でしょ!」の林先生に似ている、あの口元のゆがみに並外れたものを看取する(モーツァルトも歪んでおりますね)

哲人としても、道元さんは、「衆生済度ひとりも漏らさず」の法然さん親鸞さんレベルの世界宗教的な貫禄はある、勇猛日蓮さんと云い、鎌倉時代とは何とゆー人間国宝時代であったろー

 

おふくろを歯医者に連れていった途中で……

お寺の門前の掲示板に、ある言葉が貼られていた

「仏仏祖祖 皆もとは 凡夫なり  道元

 

‥‥ あらま、道元さん、そんなことゆーてはったん?

ネットで探ると、確かに『正法眼蔵随聞記』のなかに……

「仏仏祖祖皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり、・・・然れども皆改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成りしなり」とあった

 

 

 

 

ここに、ひろさちや さんの解説を挙げる

われわれは、仏教の修行者は悟りを求めて修行すると思っています。

若き日の道元もそう考え、われわれに仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。

だが、道元が達した結諭からいえば、それは逆なんです。

 

「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。

【身心脱落】させるのです。

そして、悟りの世界に溶け込むそれがほかならぬ「悟り」です。

 

道元は、如浄の下でそういう悟りに達したのです。

だから、わたしたちは、悟りを得るために修行するのではありません

わたしたちは悟りの世界に溶け込み、その悟りの世界の中で修行します。

悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界の中にいるから修行できるのです。

「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる。それが道元の結論です。

 

仏だという自覚があれば、「自分は仏なんだから、こういうことはしてはいけない」と考えて、悪から遠ざかることができます。

それが、仏になるための修行ではなく、仏だからできる修行です。

 

修証一等・修証不二・修証一如・本証妙修

修行(修)と悟り(証)が一つ であって別のものではない。

本証とは、われわれが本来悟っていることであり、その悟りの上で修行するのが妙修です。

そうだとすれば、坐禅というものは、悟りを求める修行であってはならないのです。いや、そもそもわたしたちが何のために仏教を学ぶかといえば、

 

- 仏らしく生きるため -

 

です。その意味では、悟りを楽しみつつ人生を生きる。それがわれわれの仏教を学ぶ目的です。

 

>  釈迦は入滅に先立って、後世の仏教者に遺言された。

「わたしが亡くなったあとは、あなたがたは、自分自身を灯明とし、わたしが教えた真理()を灯明として修行をつづけなさい」と。

>  釈迦の教えた真理を灯明にする(法灯明)のはよくわかるが、

釈迦はそれより前に「自灯明」、自分自身を灯明とせよ、と言っているのだ。

他人がああするからわたしもああする、他人がこうすればわたしもこうするーというのは、およそ釈迦の教えから遠い態度だ。

 

◆仏教においては、強靭なる主体性が確立されねばならない。それが一番大事なことである。

そしてそれが、

「仏道をならふといふは、自己をならふなり」(道元)

だと思う。

世間の物差しを蹴とばして、まずは主体性の確立ーそれが仏教者の第一歩である。

しかしながら、われわれが主体性を確立すると、「人間が万物の尺度」になってしまう。

 

◆人間の物差しの放棄

「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」(道元)

いったん確立された自己を、仏教者はきれいさっぱり忘れてしまわなければならない。つまり自己をゼロにしてしまうのだ。

それがすなわち「無我」なのだ。そういうパラドックス(逆説)を道元禅師は主張しておられる。

主体性の確立は、とどのつまりは「無我」である。

 

「自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」(道元)

万法とは、宇宙の真理である。

しかし、この宇宙の真理をわたしが体得する(悟る)のではない。

わたしが宇宙の真理を悟れば、わたし()が宇宙の真理の上に立つ。それだと自己()を忘れたことにならない。

逆である。

わたし()が、宇宙の真理(万法)に吸収されてしまうのだ。

それが「証せらるゝ」といった受身形の意味である

わたしはすでに人間の物差しを捨てた。それが「自己を忘れた」ことである

人間的な物差しを捨ててしまったその人間が、

そこで 仏の物差しを身に付けるのではない 

ややもすると、仏教の悟りといったものを、仏教で悟りを開くということを、仏の物差しを手に入れることだと思われかねない。

そういう理解の仕方をする人もいるが、道元禅師はそうでは【ない】と言っておられる。

 

わたしたち凡夫には仏の目に見えているものはわからないのだから、

素直に、

「わからない」「不思議」

でよいのである。

 

病気が治るのがいいか、治らないのがいいか、われわれにはわからない。短命が幸福か、長命が幸福か、所詮凡夫にはわからない。

わからないものをわからないまま、そのまま「仏のはからい」と信じさせていただくのが、「万法に証せらるゝ」である。

宇宙の真理 ーそれが仏だー に、自分自身をそっくり預けてしまえばいいのだ。

 

‥‥ ひろさちやさんって、ダライラマ14世に似ていて(つまり俗っぽく隣の親父みたいな印象)、敬遠していた時期があったが、どこから引っ張ってきたのか、上記の解説には凄みがある

 

● 勘違いから 悟ってしまった道元さん

道元さんって、思うに典型的な「日本語脳」で、大陸に渡って結構中国語を勘違いして捉えているなって、いたって面白い一面があらしゃる

 

『正法眼蔵』で、六祖慧能と五祖弘忍との会話(商量)の中で…… 

五祖「そなたはどこから来たのか?」

六祖「私は嶺南人です」

五祖「ここに来て、何を求めているのか?」

六祖「仏になることです」

五祖「嶺南人は無仏性である、どのようにして仏となるのか?」

 

‥‥ この公案についての道元さんの読み方は独特で、

「嶺南人は無の仏性である」(道元)

嶺南人には仏性が有るだの、無いだのとゆー話しではなくて、

どうしてわざわざ仏になろうとするのか、いま無の仏性であるのにと読み解きます

もう一つ…… 

…… 『涅槃経』にある、

《一切衆生、悉有仏性》〜一切の衆生は悉く仏性を有す〜

といった言葉を、道元は、

〜一切の衆生が「悉有」(全宇宙)であり、その「悉有」(全宇宙)が仏性である〜と読んでいます。

[※ 『【新訳】正法眼蔵』ひろさちや・編訳ーより]

 

‥‥ この一節は、漢訳された『涅槃経』を解釈したものですが、翻ってサンスクリット語で解釈すると、道元さんの訳の方がサンスクリット原典に近く正確なものとなるそーです

不思議な話ではあるが、伊勢白山道のリーディングでは、釈尊の正伝は道元さんに伝わった、つまり道元さんは「見神」しているとの見立てなのです

 

 

 

ついでなので、『正法眼蔵』からもう一節とりあげますと…… 

「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を真に見ることができない。
自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する。」(ネット上で見られる道元の名言)


‥‥ 道元の名言として、あちこちで目にする現代語訳ですが、訳者が誰なのか、確かに不明です
この条りの原文だと思われるものを引用します


「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、

万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
※ 道元『正法眼蔵』第一巻「現成公案」より


‥‥ ひろさちやさんの現代語訳を参照してみると、
> 「自分のほうから悟りの世界に近づいて行こうとするのは迷いであり、
悟りのほうから自分を目覚めさせてくれるのが悟りである。」

 

‥‥ この一節からは、道元さんが「自力」に拘らずに「他力(神の恩寵)」までも抱き参らせて仕舞われていることが分かる
前段の「自己を運びて万法を修証する」を、

・西洋式に【初めに自我ありき】


後段の「万法進みて自己を修証する」を、

・東洋的に【初めに無我ありき】


と観たのは、鈴木大拙の弟子・秋月龍珉さんでした
彼の捉えた「無我」とは、「我が無い」ことではなく……
道元さん特有の読み方ですが……

「無という我れ」があること です、

世界そのものが「無の場所」であります

こーして纏めてみると、
前段の「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を真に見ることができない」も、
後段の「自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する」も、
ともに「自己を中心にすえた(自己が主体となった)」視点であり、道元さんの原文にある、視点を主客逆転させた妙味が表されておりません
「自己が自由自在に動く」のは、「自分で」そーするからではないからです


「万法すすみて自己を修証する」の解釈は、


「 宇宙そのもの(万法)に溶け込んで自己が自由自在に動かされるとき、

(本来自己の内にある)世界はいきいきと生動する 」

とでも申しましょーか

この名言は親しみやすい意訳ですが、道元さんの意を汲んでいないとゆーのが私の意見です

 

ー道元さんの懐く「サトリ」の感じ方は、自力で掴みとるのではなく、自分をなくして溶け込むと云いますか、受動態で表現しておられる処が間々みられます

これはつまり、「他力」も包含するとゆーことです

一休さんが蓮如と肝胆相照らす仲だったよーに、案外と道元さんの出家主義と親鸞さんの在家信仰はフラクタルなものではないのかなと夢想しています

その意味でも、道元さんが深草で 在家信者のために執筆なされた「現成公案」とか「道心」の章 は、深く吟味味読する必要があるなと思っています

伊勢白山道に拠れば、聖なる十次元(十一次元まである)に参入するためには、神の恩寵が不可欠だと云われていました

聖ラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジとの差は、ニサルガ親爺に最後の一押しが足りない、つまり恩寵が降りていないことにあるよーに思います

与える者と受け取る者がひとつ、真我ひとつのありようは、道元さんの内にもみられるとゆー事で、仏道でもここまで行けるとゆー証しがあるのは欣ばしいことである

尚、ラマナ・マハリシと私は表記するが…… 

昨今の表記は、マハルシが主流のよーである

しかし、聖ラマナはタミール語を話したことから、マハルシ(サンスクリット語)よりもマハリシ(タミール語)の方が相応しいのではないかと私考する

            _________玉の海草


ヒンドゥーの叡智6️⃣〜 “ Knowledge ” 真我ひとつのありよう

2021-12-07 03:33:31 | 小覚

__ Knowledge、大文字に特別な意味を込めました

長年にわたって探し求めてきた 「サトリ (悟り・覚り」 とゆーか、長年にわたって苦しめられてきた 「サトリ」 について……

伊勢白山道で霊的な基本を学んだ御蔭で、つまり 「サトリ」 なんて、そんなに大仰な大したものじゃないよと認識した上で、それでも 「あるがままに」 自由にあるために何としても欠かせない、私が感じた 「真理への知慧 (Knowledge) 」 をまとめておきます

 

伊勢白山道推薦本である、 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの〜時間以前からあった永遠の真実』 の中から、シンプルによく要約されてある

22章 「自己覚醒は努力がいらない」

に沿ってまとめます

 

他ならぬこの本が、聖典級に偉大な処は、ジュニャーニ (賢者) の系統であるにも拘らず、ニサルガ親爺も著者のラメッシも共に 「真我」 とゆー用語を遣っていないことです

真我は絶対主体であり対象にはなり得ないために、それ自体をコトバで表現できず ( 「真我は〇〇である」 と言うことは出来ない) 、否定的表現のみが可能 ( 「〇〇は真我ではない」 と言うことは出来る) であるため、 「真我」 とゆーコトバ抜きでも対話には困らないわけではあるが…… 

ラメッシは、解説する場合には、 「意識」 とゆーコトバで統一して、 「マインド (心と訳される) 」 つまり自我的なものと真我を一緒くたにしない配慮がなされている

 

たとえば、伊勢白山道を例にとると、心の奥底に内在神 (真我) が隠れているといった表現をとっている

[ ※  伊勢白山道は引用禁止なので私の理解の範囲内で勘弁してもらいたい ]

心の一部が真我とか、自我が真我に 「なる」 と勘違いしている読者がいっぱい出てくるわけである、存在とは 「在る」 ものであり、 「成る」 ものでは決してない

つまり、存在と仮象 (現象) との峻別が出来ていない

「こころ」 などとゆー定義の定まらない不安定なコトバをつかっている処に、そーした致命的な誤解が生じる原因があるのである

 

ニサルガ親爺の口から出るコトバは、数学的な精妙さをもって一厘のゴマカシも感じられない、無学な煙草屋のおやじなのに、その御コトバはジュニャーニ (賢者) のそれなのだ

伊勢白山道の霊視では、もう一世生まれ変われば仏陀となれるそーだ、つまり神の恩寵による 「最後の一押し」 が今生でなかったものだから、聖ラマナ・マハリシの境涯には今ひとつ及ばないよーだ

ニサルガ親爺の口吻には、 「感謝」 が感じられないと言った伊勢白山道読者がおられた、最後の究極では「感謝」の形をした自霊拝つまり神の恩寵といったサイクルが必要不可欠なよーだ

 

かといって、聖ラマナの書物の方がよいかとゆーと然にあらず、聖ラマナは 「知識の道 (ジュニャーニ) 」 と「帰依の道 (バクティ) 」 とがご自分の経験のなかで渾然一体となっていて、ニサルガ親爺の如き整合性をもたない処があるのだ

代々賢者の道を辿った、ジュニャーニの系統に連なるニサルガ親爺の徹底ぶりには及ばない処がたしかにある、聖ラマナが詩的であり、ニサルガ親爺があくまでも散文的であるのはそーした立ち位置 (視座) の違いを証しているのかも知れない

 

とにもかくにも、この 『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』 は、オカルト (隠秘学) に彷徨った魂に安らぎをもたらしたことは間違いない

そして、わたしはこの書を熟読玩味して紙背に徹するほどに精読した結果、畏れ多くも推薦してくださったリーマンさんの真理表現に疑問を抱くよーになったのである

伊勢白山道に公然と文句をつけられるほどの存在論的確信にいたる基盤をつくってくだすった得難い書である、戦役とか無人島に一冊だけ持っていけるとしたら、わたしは迷いなくこの書を択ぶだろー

 

 

 

【画像= 私なりに一言でいえば、 

「霊的探求の旅を終らせる書」 である、真実へのアプローチを教えるアドヴァイタ (非二元) の智慧、いわば 「最後の知識 (Knowledge) 」 とでも云えそーなシンプルな観方を伝える、ここから先はコトバ (観念化の道具) が役に立たないどころか、かえって邪魔になる】

 

 

‥‥ 、マハラジはしばしば訪問者たちに強く勧告します。

「あなた方は言われたことについて何を質問してもいいが、ただし 自分自身を肉体と一体化せずに 質問しなさい」

 

なぜマハラジは、質問者が肉体との一体化を解除するべきだと主張するのでしょうか?

その直接的な答えとは次のようになるでしょう〜〜なぜなら、

一つの対象物その主体を理解することを想定できないからです。

つまりは、自分がその影である本体を理解することが不可能だということです。

自分自身を自立的実体として肉体 (それは単なる肉体精神装置、一個の対象物にすぎませんと一体化している観念的 「個人」 がいるかぎり、対象物にまったく影響されない絶対について、人が何かを理解することは可能でしょうか?

 

‥‥ 私なりの  [註]  をいれます

・ 「一つの対象物 (object、客体」 自我としての自分自身

・ 「その主体(subject)」 真我

・ 「影」 光に照らされたときの本体  (真我の影、つまり自我

観念的 「個人」 自我

・ 「対象物にまったく影響されない絶対」 = 自我および自我の創り出す対象物にまったく影響をうけない絶対主体の真我

真我 (絶対的に見る主体は  対象 (見られるもの・客体になることがない

それゆえに 「真我は〇〇である」 と現象世界の言葉で言うことが不可能である…… この場合、真我 = 〇〇であるならば、言葉で限定された対象である〇〇が真我であることになる

 

しかし、真我  ≠  対象 ()  であるからにして

「〇〇は真我ではない」 と否定的表現をすることは可能だが、 「〇〇が真我である」 または 「真我は〇〇である」 と限定 (言葉の制約によるして言うことは出来ない

とすれば、現象世界で私たちの知覚できるものは (私たちが主体となって、対象として知覚できるものはすべて、当然ながら真我ではない

 

>  「観念は思考から生じ、これらが一束になってマインドとして知られているものを形成する」 と彼 (マハラジは言います。

「考える」 とは、観念化、マインドの中で対象物を創造することを意味し、これが 束縛 です。

言葉は根本的に二元的で観念的なので、悟りへの妨げとなります。言葉はコミュニケーションのための一時的目的のためだけに役立つことができますが、そのあとではそれらは束縛です。

観念的に考えることを取り除く ことが、悟り、目覚めという意味であり、それ以外では、誰もそれを 「達成」 したり、 「獲得」 したりすることはできません。

「悟り」 は、どんなときにもどんな場所でもどんな人によっても、獲得されるべき 「物」 ではないのです。

マハラジの言葉を矢のように貫通させることが、この 【 直観的理解 】 をもたらし、それが悟りです!

 

> …… マハラジは 「 (直観的理解の効果を上げるためには、私の言葉が矢のように貫通しなければならないし、私は意識に話しているのであって、どんな個人に話しているのでもない」 と言います。

 

‥‥ 実に簡単な定義です

ヒトは 「考えること」 で、それを観念化します

そしてその観念を受容れることによって、自分自身を自ら束縛しています

 

例えば、グルジェフが皮肉めいて云っていたのは、

何の前触れもなく女が暴れるとき、毎度苦慮する男はそれを 「ヒステリー」 と名づけた、しかし、そのよーに命名 (概念をつくるしたからといって……

それが 「ヒステリー」 だと分かったところで (被害者は自分だけではないとゆー慰めは得られるが、それは一体何なのか、何が原因で起こるのか分かったわけではない、ただの対象化であり観念化であるに過ぎない

こんな事は世の中一杯ある、観念の遊戯・言葉遊びみたいなものである

 

「あなたが言わんとしていることは、 『私たち』 それ自身が観念的に考えることの一部であるということですね? 完全なる幻想ということですね ?

この段階でマハラジは、彼がいつも言ってきたことを繰り返しますーー すべての知識は観念的であり、それゆえ、真実ではない

このことを直観的に認識し、知識の探求をあきらめなさい。

 

> …… 最初にまず取り除くべき障害がある。

考えること」 、 「観念化」 、 「対象化」 、すべてが停止しなければならない。

なぜだろうか?

それは あるがまま は対象性のほんのわずかな影響も受けないからだ。それは、すべての対象物の主体であり、一つの対象物ではないので観察されることができない。

目はそれ以外のすべてを見ることができるが、それ自身を見ることはできない。

 

‥‥ 「あるがまま」 とは真我の状態、真我の絶対主体としての能動性を 「目」 で例えている (よく 「太陽」 にも喩えられる)

実際には、この絶対主体ですら真我には当てはまらない、分離がないから主体も客体もない

真我は、真我を知らない、真我を意識しない

「考えること」 「観念化」 「対象化」 は、真我にはまったく繋がらない、真我に決して導かない

 

>   「人は観念化を止めるために、何をするべきか、どんな努力をしなければならないのか?」 という質問に対するマハラジの答えは次のことですーー何もない。どんな努力もない。誰が努力をするというのか?

母親の子宮の中で小さい精子から完全に成長した赤ん坊になるために、あなたはどんな努力をしたのだろうか?

そしてそのあと、数ヶ月間であなたは無力な赤ん坊から幼児へと成長したが、あなたが自分の存在を感じるためにどんな努力をしたのだろうか?

 

自分の本質に覚醒することは、現象的努力を必要としない。悟りは達成されることも強制されることもできない。

それはそうする機会が与えられるとき、観念による障害が止まるときだけ、起こる ことができるだけだ。

それは、それが現れることができる空っぽな空間が与えられるときだけ現れることができる。

もし誰か他の人がこの家に住んでいるとしたら、私はまずそれを空っぽにしなければならない。

もし観念的 「私」 がすでに占拠しているなら、どうやって悟りが入って来ることができるだろうか?

 

考えることを止めようと積極的に努力をすることも無駄な練習であるし、それ以外のほかの種類の 「努力」 もそうである!

唯一の効果的努力は 真実を瞬間的に直観的に理解すること である。偽者を偽者と見れば、残るものが真実である。

今、実存するものが消えるとき、今、不在のものが現れるのだ。それくらい単純である。

実存するものの不在がその唯一の答えである。

 

‥‥  「私」 を家で喩えて、すでに 「自我 (観念」 が家を占拠しているならば、 「サトリ」 が訪れる余地はないと云ふ

家を一度元の (本来の状態 = 「空っぽ」 にしなければ、新しい何かが入ることは出来ない道理

先入観を、自分の家に住まわせていては、新たなものが入ってこない

同様に、自分の家に自我が棲みついている限り、真我のおとづれはあり得ない

この辺りは、道元さんの 『正法眼蔵』 現成公案の条りによく似ている

「自己を忘るる」 と、サトリの方からやって来るとな

            

ー 「現前に展開する世界は、すべて幻影 (マーヤーである」 とゆーヒンドゥーの世界観は首肯できる

ここで忘れてはならない事は、その世界観を受け容れている当の本人も幻影であるとゆー厳然たる事実である

ヒトは、真我そのものを観受できないにしても、何か偽りの実体 (実存については、たしかな感触を間違いなくもっているらしいことに私は驚いている

その感触が、ヒトをして真理 (真実に向かわせる原動力になっているのであろー

やはり私が不運に見舞われてきた事が、日常の実践の中で養われる堅実な信仰へと導かれたのだと思う

 

> 「不運に見せかけた幸運」 (オノヨーコ談、NHK 『ファミリー・ヒストリー』 より)

 

そして必死の彷徨の末に、伊勢白山道に邂逅できたことに心の底から感謝しております

信仰の本質は、設備もお金も外在する神も要らないこと、ただ内なる神に心を向けるだけでよいとゆーシンプルな生き方 (行き方) ……

その生きたお手本となるヒンドゥーの聖者たち、

おそらくインドに覚者が頻繁に現れるのは、その 「存在 (私は在る」 とゆーものへの知慧 (悟り・Knowledge) が本質を衝いているからだと思う

その究極にあるのが、真我実現、おそらくさしたる難事では実はないのだろー

           _________玉の海草