『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 酒田に いちから 「南洲神社⛩️」 を建てた人〜 長谷川素山のこころざし

2023-10-12 19:55:02 | 人間(魅)力

酒田にある南洲神社⛩️

 

 

わたしたち庄内人にとって、明治初頭に旧・庄内藩士が編纂した西郷さんの唯一の語録  『南洲翁遺訓』 には、特別な想いがある。

西欧列強が日本を餌食にしようと、鎖国を破って侵入してきた時代……

徳川幕府の北の砦・庄内藩では、他の外様藩とは自ずから違う覚悟が求められた。

徳川四天王筆頭の酒井忠次を先祖に戴く庄内藩は、徳川親藩(徳川家と酒井家とは親戚)としての生き方と同時に、日本という国体としての生き方という二つの狭間で、真剣に迷い戸惑っていました。

それは、西洋と東洋との生き方(人生哲学)の相剋でもあった。

徳川幕府では、官学として朱子学を定めていました。

それなのに、彦根藩と庄内藩のみは、特に願い出て「徂徠学(古文辞学)」を藩を挙げて学んでいたのです。

[※  徂徠学=古い辞句や文章を直接続むことによって、後世の註釈にとらわれずに孔子の教えを直接研究しようとする学問

そうした、独自の取り組みから庄内藩独特の矜持が生まれ育ったのです。

 

幕末の戊辰戦争で、徳川親藩の庄内藩は幕府軍最強を誇り、徳川幕府と心中する覚悟で、最後の最後まで官軍に抵抗しました。(徂徠学による藩校教育は、庄内藩士を自分の裁量で自発的に学ぶ、戦場にあっては自分で判断して戦う兵士を養成しました)

しかし、時代の趨勢には勝てず、会津藩の降伏に伴って、無敗を誇った戦果のままに、降伏を受け入れたのです。

このとき、おそらく庄内藩士は絶望の淵にあったことと思います。いままで築き上げてきた武士の世の中が転覆するのです。そればかりか、官軍による横暴と他国による侵掠にも備えなければならない。

そんな切迫つまった時代でした。

庄内藩代々、徂徠学を探究して練り上げてきた「武士道」を棄てざるを得ない状況でした。

おそらく、すべてを諦めて決意した、官軍への投降であったでしょう。

 

下手すると、武士の意地から玉砕覚悟の最終戦すら辞さない庄内藩士に、丁重に向かい合ったのは、西郷さんの意を汲んだ黒田清隆でした。

黒田は、型通りに城の明け渡し交渉を終えると、上座から降りて、藩主の酒井候を上座に迎えて低頭したということです。(予想に反して、刀や武器も取り上げられることなく、そのままで許されました)

この、見事な武士道ぶりに瞠目して拍子抜けしたのは庄内藩士の方でしたでしょう。

 

🏯の明け渡しに、一筋の光明を見つけた庄内藩士は、後々までこれを覚えていて、ある時上京した折に「あのときの御礼」に黒田卿の下に参上することにしました。

そして、あの丁重な明け渡し劇の裏に、西郷という大人物の意向があったことを初めて知るのです。

 

庄内藩士たちは、西郷さんのその振舞いのなかに、自分たちが追い求めていた 「 王道 」 を見出したのですね。

嬉しかったことと思います。

もはや武士の世も終焉して、覇道の世の中になりそうな時に、王道的振舞いをする、亀鑑とすべき「最後の武士」を見つけたのですから。

 

新政府の明治が始まってまもなく、「明治六年の政変」で西郷さんは鹿児島へ下野します。

その西郷さんを追って、彼の創設した私学校で学ぶために、旧・庄内藩士たちは遠路はるばる西郷先生のおられる鹿児島までおもむきました。

旧藩主を筆頭に76人規模(全庄内藩士3000人から選りすぐった)で研修訪問したこともありました。

いわば、藩を挙げて鹿児島へ留学したのである。誇張抜きに言うが、生命をかけて学びとったのである。

そうした際に、肌身で感じた西郷先生の御姿を記憶して、庄内まで持ち帰って、元家老の指導の下に「語録」にまとめたのです。

不幸にも「西南戦争」の末に、西郷先生は国賊となってしまったために、そうしてみんなの耳目で集められた西郷さん語録も公開されないままに、旧庄内藩内で秘蔵されて、有志のあいだで勉強されて来ました。

 

西郷さんの語録は、沖永良部の牢獄生活でのものなど数少ない例をのぞいて、ほとんど後世に伝わっていません。

庄内藩の編纂した『南洲翁遺訓』が、西郷さんの生の口吻に触れることの出来る、まとまった唯一の第一次資料なのです。

三代目理事長・小野寺時雄翁は、仰っていました。

 

「荘内の先人たちが、直接(西郷先生へ)ききたかったことは何だったのか。

(後世の私たちに)遺したかったことは、何だったのか。」

 

つまり、庄内に生きる私たちは、『南洲翁遺訓』によって、

・ひとり偉大な大西郷の思想に触れるだけでなく、

・庄内の先人たちからの遺言(メッセージ)をも受け取ることのできる、

私たちだけの特別な読み方が可能な書 でもあるのです。

徂徠学で鍛えられた庄内藩士が、大西郷にひるむことなく、学人として対等の立場から放った真摯な質問によって、大西郷の深淵さが初めて世に露われたのです。

どんな気持ちで、それを西郷さんに訊ねたのか、その庄内藩士の底意をも私たちだけは学ぶことができるのです。

[※  例えば、荘内南洲神社建立に多大なるご貢献をされた澤井修一氏は、荘内藩士・戸田務敏のご子孫である。『南洲翁遺訓』には質問した荘内藩士の名前は記載されていないが、この条はどの藩士が西郷先生からご教示賜ったものか判明している。身近なご先祖がたが質問したものを結集して編集した集大成が『南洲翁遺訓』に成っているのである。]

聖賢の学を修めた、西郷さんの思想的な深みを世に知らしめたのは、他ならぬこの『南洲翁遺訓』であります。

小野寺理事長は、庄内藩士の先人たちのことを敬慕して、「荘内の大先覚者たち」と称えておられました。

 

 

荘内南洲会も、三代目理事長・小野寺時雄の執筆なされた『南洲翁遺訓に学ぶ』をもって初めて、長年研鑽を重ね講究してきた『南洲翁遺訓』の解説書を上梓するに至る。

長年の念願であった手引き書は、荘内南洲会の創始者・長谷川信夫の遺志(草稿と詳細な資料)を継いで、三代目の小野寺理事長が成し遂げられた。

荘内南洲会ならではの見解も、少なからず存在する。

[※  長谷川信夫『西郷先生と荘内』等参照]

『南洲翁遺訓』の原文に、逐一意訳と講究を添えるという学者並の労作を書き上げて世に問うた。

もう、これだけの見識をもった人物はあらわれないかも知れない。(荘内南洲神社の創立メンバーは、皆が日本農士学校卒で農業エリートであった。南洲会初代理事長・菅原兵治先生は元・農士学校長・検校だし、二代目・三代目理事長はその教え子である。それぞれに漢学の素養が豊かであった。)

 

 

そんな小野寺理事長が、「知己を300年の後に待つ」ために、南洲会員に寄付を募って、神社の境内に「銅像」を建立された。(小野寺理事長は、私費で300万円を寄付されている)

[※  上掲の写真では、鳥居の奥に、西郷さんと菅実秀(庄内藩家老)とが対面する坐像(銅像)が見られる。同じ銅像が、西郷翁の武邨(たけむら)の生家跡にも建立されている]

小野寺翁の気概たるや、ブラジル🇧🇷300年で完成予定の計画都市ブラジリアみたいな規模なんですね。

ある日に真顔で言ったんです、「銅像って、300年もつんだよ」

西郷さんの真精神に感応する人がいまはおらなくても、これから300年間のうちには誰か気づいてくれるのではないかと仰るんですね。

こんな銅像を建立するくらいに熱く西郷南洲翁を語っていた時代が間違いなくあったんだと感応できる人が必ずや現れると。

そのために銅像を建てるんだと。

『南洲翁遺訓』にも「誠篤ければ、たとい当時知る人無くとも、後世必ず知己あるべし」と南洲翁が言っておられる。

 

 

今年の6月末をもって、新しい五代目理事長を迎えて、理事や評議員を総入れ替えして、荘内南洲会も刷新された。

五代目理事長は、三代目理事長のご子息である。

公益財団法人の仕事も、なかなか資金調達できなくて、運営も難しいらしい。もともと、山形相互銀行🏦(現;きらやか銀行)の肝入りで金銭的援助も受けながら存続してきた(二代目長谷川理事長と澤井頭取が親友だった)のだが、その資金を切られてからは、運営に支障をきたすことが多くなった。

理事長やキャストの給料も間々ならないような経理状態なので、引き受け手もいないのが実状である。

それで、ある強い覚悟をもって、五代目は全面的に引き受けてくれたものらしい。無給で奉仕してくれるそうだ。

 

ただスタッフが全面的に刷新されたものだから、どこまで従来の活動を継続してくれるかは皆目分からない。

まさに、三代目が予見した未来図が現実化しているのかも知れない。

 

元の理事や評議員の方々も、その強引なやり方に辟易して、どうやら南洲会の会員まで辞めて、完全ノータッチを決め込むようだ。

こうした地方に根付いた(無形の)精神文化を継承する場合、一緒にやるメンバーが好きだの嫌いだのは、本来関係ないはずである。

後世に遺すべきだから、継承するのだ。そこに私心はないはず。

それが伝統というものである。

体制が変わったからといって、会員(荘内南洲神社の氏子)資格まで全て放棄するなどとは、本来文化の担い手が取る手段ではあり得ない。

こういう、一時の感情にまかせて一気にすべてを思い切る辺りが、酒田に文化が育たない、そして根付かない原因ではないかと思う。

街おこしとか観光資源とか「お金を生み出すもの」にしか関心が向かない傾向があるようだ。

そもそも南洲翁への景仰は、鶴岡市(=庄内藩)の精神なのであって、酒田人の知る処ではなかったものなのだが。

長谷川信夫という傑物が顕われたのが酒田だったのが悔やまれる。酒田も本来は、平泉の奥州藤原氏の系統を継ぐ「浄土系」の街づくりが為された宗教的な土地柄なのである。いまも浄土門の寺は多い。

門徒の結束の堅さは、信長をも悩ませたはずなのに、何故か仲がわるい。昔、日本海有数の遊郭が栄えた怨念でも残留しているのだろうか?

酒田という湊町は、利に流れて、すこぶる纏まりの悪い土地柄なのである。(我よしの縄張り争いが烈しい)

文化の継続とは、華やかで派手なものではなく、地道で険しいものである。

ただ、そういう軽いノリで参加している心情(人間のサガ)を見抜いて、300年の計を立てた三代目理事長はつくづく慧眼であることよ。

 

 

荘内南洲会は、酒田市在住の長谷川信夫翁が一念発起されて、日本農士学校🏫の安岡正篤先生の助力を仰ぎながら、酒田の地に、いちから西郷南洲翁を祀る神社を創建なされたところから始まる。

【長谷川素山先生の遺稿出版本📕『西郷先生と荘内』より、著者ポートレート。大正2年8月24日生れで、平成9年8月24日歿(1913〜1997年)、天寿満84才。

岩波文庫版『西郷南洲遺訓』を日本で一番多量に購入なされた人物であろう。その数、生涯でおよそ 25,000冊 超。

すべて素山先生のポケットマネーで買って、南洲神社⛩️参拝者に無料でお配りした。南洲会館に所蔵している西郷さんの真筆も、何百万円もするものを何幅も集められるだけご自分の給料から捻出して買い求めた。だから、質素倹約して衣服も持ち合わせていなかったのである。】

 

昭和51年(1976)の事だから、まだ歴史は浅いのだが……

長谷川信夫翁の熱誠は、本家の鹿児島だけではなく、沖永良部の和泊や都城市の人びとの心を動かし、南洲翁への敬愛の火をともして回ったのである。(毎年、人を募って、庄内から鹿児島県を訪ねる「西郷先生の遺徳を偲ぶ旅」を挙行した)

[※  この長谷川素山(信夫)先生は、ほんとうに対話するのが面白くて、私みたいな若僧にも襟を正してお相手してくださる、寛容で胆力のある古武士のような御仁でした。背筋がピンと伸びて、坐禅も参禅されて見性しておられました。ご子息を逆縁で亡くされており、西郷さんには本当に救われたのだと思います。

いつお会いしても和服姿なんですが、南洲会館で毎月行われる「南洲翁遺訓の講究会」で身につける一張羅の羽織袴と、普段使いの単衣の着物、この二枚しか衣服を持っていないのです。すべての報酬は、西郷先生の墨蹟や関係文献を求めるためにお使いになっていました。完全に突き抜けた、涼やかな佇まいをしておられました]

【『財団法人荘内南洲会 三十年のあゆみ』より、講究会はいつもこの一張羅の羽織でした】

 

そして、それぞれの地で南洲神社が建立されていった。

現在、「南洲神社」は鹿児島を筆頭に5社を数えるまでになっている。

【西郷さんの「敬天愛人」の書。鹿児島で揮毫されたものは、右から横書きの一行書きで、荘内では右から縦書きで二行書きなされたようです。】

 

 

 

■ 西郷南洲翁に出逢う以前の、佐幕の雄藩であった

庄内藩に醸成されていた独自の藩風

 〜幕末最強の庄内藩を生んだ、藩校「致道館」教育について〜

参考テキスト📘 ;
「現代ビジネス」講談社HPより
河合敦〜幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」
学校がそこまで自由でいいんですか? 〜


江戸時代のエリートを養成した教育システムとしては……

薩摩藩の「郷中教育」

会津藩の「什の掟」

とがある。

> 前回紹介した二藩(薩摩・会津両藩)がいずれも徹底的に厳しく子弟たちを教育したのに対し、

庄内藩の教育はきわめて自主性を重んじる、リベラルな教育なのである。

> 文化二年(1805)、庄内藩は「被仰出書」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。
そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、
具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。

> (致道館の)初代校長の白井矢太夫は教職員に対し、次のように述べている。

「諸生(学生)の業(学業)を強いて責ぬる(強制する)は由なき(良くない)なり。今度、学校(致道館)建てられたれば、才性(個人の才能)によりて教育の道違はずば、自然(おのずから)俊才の士生ずべし。とにかく学校に有游して、己れが業いつしか進めるを覚えざるが如くなるを、教育の道とするなり」

このように勉学の強要に反対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけせよ」と命じたのである。さらに、

「学校の儀は、少年輩の遊び所ゆえ、たとえば、稽古所の少し立派なるものと心得、児童の無礼は心付け、その外何事も寛大に取り扱ひ、あくみの心の出来申さざる様致し、面白く存じ、業を教へ遊ばされ候様成され度御趣旨ゆえ、弓矢場なども十五間に致し、又は児輩の面白く存じ候書物にても見せられ候か如何様にも引き立て方これあるべき事ゆえ、一統評議のうえ申し上げ候」(『句読所への口達』)
と依頼したのである。
原文はかなり難しいが、要するに、「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は子供たちがあくびしないような面白がるような授業を心がけよ、また子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。

教育にも(それがいいことかどうかは別にして)サービス精神が求められるようになった現代ならいざ知らず、到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。

他の藩校は専任の教師や年長者が下の者を指導するスタイルが一般的だったのと違って、教育課程における自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だ。



「自分でテキストを選び、自らの力で学習する」

それが  致道館の方針 
だった。

 

いわば放任主義である。こうした教育手法も、荻生徂徠の影響であった。

> …… 戊辰戦争で庄内藩は、会津藩と並んで朝敵とされてしまった。

仕方なく庄内藩は、会津藩や東北諸藩(奥羽越列藩同盟)とともに新政府軍を迎え撃つが、圧倒的な数と軍事力の差によって他藩は次々と降伏してしまった。

ところが庄内藩だけは、緒戦で敵対する周辺諸藩を完膚なきまで叩き、さらに新政府の大軍が襲来した後も、ほとんど藩内への侵攻を許さなかったのである。驚くべき強さであった。

しかし結局、すべての東北諸藩が降伏してしまったため、戦いでは負けていなかったとはいえ、そのまま戦争を続けるのはもはや絶望的だった。ここにおいて庄内藩も、ついに新政府に降伏を申し入れたのである。

ここまで庄内藩が強かった理由だが、
一つには、やはり藩士たちが受けてきた教育の効果もあったのではなかろうか。単なる指示待ちではなく、各藩士たちが己の判断によって柔軟に戦えたことが強さの秘密だったと思うのである。

> 徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。

「人ヲ用ル道ハ、其長所ヲ取リテ短所ハカマワヌコトナリ。長所ニ短所ハツキテハナレヌモノ故、長所サヘシレバ、短所ハスルニ及バズ」(人を用いるコツは、その長所だけ取り上げ、短所は気にしないことだ。長所と短所は分離できないのだから、長所さえわかればよいのだ。短所など知る必要はない)

「善ク教ヘル人ハ、一定ノ法ニ拘ラズ其人ノ会得スベキスジヲ考ヘテ、一所ヲ開ケバアトハ自ラ力ノ通ルモノナリ」(良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう)

「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ、説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ、彼ヲ益スルコトハナラヌコトナリ」(生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない)

少々引用が長くなったが、

荻生徂徠の説くところは、自分で自由に物事を決定できる人間 を育成する、あたかも戦後に世界各地で流行したドイツ発祥のシュタイナー教育のようである。

こうした致道館の教育方針から、学則もかなり自由だった。

【現在の「致道館」でも、「庄内論語(徂徠学による読み下し)」や「小学」などが学ばれている】

 

 

__ まーかくの如く、庄内藩の「自由すぎる学制」に、河合先生も驚かれたのである。
庄内の当時の領民は、江戸時代の打ち続く飢饉のおりにも、酒井の殿様が積極的に動いてくださって餓死者が出なかったことを恩義に感じている。
それに応えるよーに、庄内藩でも徳政を心掛けた。
豪商本間家を間にはさんで、封建制がうまく機能した。
庄内藩の方針を示す「易の卦」がある。「地天泰」の卦で、下からの動きが上(天)に通じて泰らかとなる。
いまでも、酒井家のご子孫は「殿様」と呼ばれている。
出羽三山神社の氏子総代⛩でいらっしゃるし、正月の三が日には鶴岡の政財界のお歴々が挨拶に訪れるそーである。
現在の「荘内銀行」にしても、「松ヶ岡開墾所」「山居倉庫」にしても、酒井家が明治時代に殖産事業に力を入れて実った成果であるからだ。
庄内の、一風変わった風土は一日にして成らず、先人・先覚たちの弛まぬ努力の賜物なのである。
小さな地方都市として、鶴岡市の文化度の高さは異常である。
文化人や大学教授も多数輩出している。
鶴岡が京都とすれば、酒田は大阪に相当する。
鶴ヶ岡城(鶴岡市)と亀ヶ崎城(酒田市)とが、陰陽となって、庄内を盛り上げて来た貴い歴史がある。

                      _________玉の海草