天皇のルーツを探る旅

2011-11-22 | 読書三昧

 

 

 

    『古事記』そして『日本書記』、書かれている神話の三割以上の舞台が出雲である。

    自他共に認める地上の総元締はオオクニヌシという大貫禄の神で、鎮座ましまして

    いるのが出雲大社である。さらにはスサノオと八岐大蛇、黄泉の国への入口海岸、

    因幡の白兎海岸など神話のディズニーランドである。

 

    ぞくぞくするのは出雲自体の謎だ。これだけの神話のご贔屓筋にも係らず、その後

    なぜかぱっとしない。いやむしろ蔑ろにされている。蔑ろにしたのはヤマト政権、

    そう天皇である。

 

    『日本書記』では早くも「山陰」などと日陰者のように蔑み、それからずっと「裏」と

    いう暗いレッテルを貼っている。かつて歴史家の中には、出雲と云うのは神話だけ

    の国で、実際には存在しなかったなどと、べったりと墨で塗り潰した輩もいたくらいで

    長い間不当すぎる扱いに甘んじてきたのである。

 

    その背景に何があったのか?

 


笠地蔵

2011-11-18 | 伊予日記

 

 

昔むかぁし、貧乏だけど心の優しいお爺さんが街へ手作りの笠を売りに行ったが

全く売れなくて、仕方なく道すがらのお地蔵さんの頭に売り物の笠を被らせた。

次の朝、お爺さんちの玄関には、食べ切れないお米や野菜が沢山置いてあった。

誰の仕業か、遠く後姿を確認したら、お爺さんが慈悲を施したお地蔵さんだった。

笠地蔵ぉ~ の日本昔話

 

 

で、今日の夕方私の家の玄関に新米一袋が!

これは間違いなく笠地蔵だ!っと思ったら案の定、

隣の田んぼのおじさんからの頂き物  

お陰で今夜はおいしいご飯

 

 


四国no建物風景シリーズ

2011-11-17 | 四国の建物風景

 

         以前の私のブログ【椿の杜】に 四国の風景 というシリーズを5回綴った。

         5回しか書かなかった事を実はずっ~と後悔していた。

 

         だからもう一度ここで書こうと思う。

         そこである会社のHPで書き綴った建築探訪と云うシリーズをこのブログへ

         移設させて、この場で継続させていこうと思う。

 

         せっかく生まれ育った四国の風景を、私の領分の建築と云う目線に変えて

         もう一つ、せっかく建築を今教えてくれるM氏に感謝して・・・


長屋門

2011-11-17 | 四国の建物風景

     

        私の会社が現在施工中の現場  HOUSE-U の近所には、松山で道後温泉の次に有名な

        建築物があります。

        第七回松山都市景観賞の【きらめき大賞】を受賞した 南斎院の長屋門です。

 

 

 

 

 

        特にここ南斎院<みなみさや> の長屋門は、門がまた長屋の様に繋がり、長屋門の長屋として

        顕著で、建築年は江戸末期から明治初期、やはり格式のある家に相応しく威風堂々として

        通り過ぎゆく人の目を集めていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

        やはり建築と云うのは、後世に残るものです。いや、残して行きたいものです。

        長く残す為には、勿論お施主様のお気持ちも大切ですが、残す為の建築技術を我々施工者が

        細部に渡って施さなければなりません。

 

        出来あがると隠れてしまう部所や、雨風によく晒される部位など、伝統的な技と最新の技術を

        駆使して施工すれば、お客様に安心して頂けると同時に長く耐久性を保ち、後世に渡って

        永く愛着を持って住み続けていくと思います。

 

 

 

  

 

  

                                    次回は更に詳しい建築技術の話を・・・・・

 


今日の言葉②

2011-11-17 | H日記

       

赤いキャンディ 包んでくれたのは
 古い Newspaper
 白いペンキ 何度も塗りかえす
 夏の風の中で…
 今頃 故郷のテネシーあたり
 刈り入れ時さと カタコト交りで
 バルコニーから 覗くあんたは
 ブロンドさえも 色褪せていた 

 

 

      Hは、1980年に初めて柳ジョージの 青い瞳のステラ を 聞いて、小さな感傷と渡米への思いを

      募らせ、2年後の卒業を心から待ち遠しく思ったそうです。

 

      しかし、卒業直後の渡米は叶わず、実際にロス・アンジェルスの地を踏んだのは、3年後の25歳

      の春でした。USF(サンフランシシコ大学)に籍を得て ”留学生” と云う身分を確保しながら、

      (スカラシップではない) 朝に昼に夜のまさに ”遊楽生” だったそうです。

 

      江戸末期、咸臨丸で渡米した福沢諭吉がその時代に米国で見聞した頃と比較すれば、既に日本は

      世界第二位のGDP国家になり、米国文化全般がそれほど真新しい時代ではありませんでした。

      エイズがアメリカ全土に蔓延し、西海岸はもはやアングロサクソンの人口が半分以下になって人種

      の坩堝が益々エスカレートしていく時代、青春の大部分の時間を他国で生活したHにとって、

      後の彼の生活や仕事、人生哲学に大きく影響していくのでした。

 

 

 

 

      時の総理 小渕敬三が 『 平成 』 と云う新しい時代のプラカードを掲げた映像を、CNNで見たHは、

      いよいよ帰国の準備を始めます。

      

      米国の高度な合理化思想と個人実力主義の裏胎で、本物の家族愛、博愛精神、自由主義を

      米国人は謳歌している事実も忘れずに、帰国のスーツケースに詰め込んだのでした。

 

       以来20年間、住宅と建築の仕事に従事し、お客様と一緒に夢を語らう舞台をご提案しています。

 

       Hの口癖はいつもこうです。

 

      ・・・ 僕はお客様にどんな家を建てたいのですか?  なんて伺った事は一度もありません。

       家を建てて、どんな暮らしをご希望されますか? と云う質問を毎回してみます。

       どんな家ではなく、いかに暮らすのか  が重要なんです。 と・・・

 

 


日土小学校

2011-11-17 | 四国の建物風景

     

            

      私は昭和35年、八幡浜市生まれだ。

      通った小学校は、市内 山の手にある 千丈小学校 でした。

      現在は建て替わり、鉄コン筋クリートの4階建になりましたが当時は木造2階建てで、

      宇和町の有名イベント: Z-1グランプリ(雑巾がけレース)の会場になる様な 永い長い

      廊下のある、柱や床が当時から茶色くすすけた木造校舎でした。

      私が在籍した六年間は建替えされる事なく、その校舎と共に私の年少時代の大切な

      思い出の舞台だった事は疑いようがありません。

 

      その八幡浜市の北東部の静かな山間にあるのが、今日紹介する日土小学校です。

      ちなみに私の高校時代の憧れのNは、この小学校を学び舎にしていたハズです。

      そんな事はどーでもイイ! 仰る通りです・・・

 

      

                       上の写真は、2009年の改修工事をする前の校舎です。

 

 

      設計者は、当時八幡浜市役所に勤務していた 松村正恒 氏 でした。

      私が生まれる以前は、今と違って独立した建築士は巷におらず、氏のように大抵は

      役所にいる職員自身が公共建築物を設計・監理していたそうです。

 

      築後50年以上も経ったこの鄙びた山村の小学校が何故、取り壊されもせずに

      各方面から改修の声が上がり、最終的にその保存活動が実を結んで、今後も

      使い続けていく事になった事の意義は大きく、私の郷土の自慢にもなりました。

 

 

 

                           2011年8月の日土小学校全景

 

 

      八幡浜生まれの私が初めて日土小学校を訪れたのは、2011年8月の記録的

      な猛暑の最中でした。

      この日、日土小学校では改築後何度目かの見学会が開催されていました。

      

 

  

  

 

   

      写真からでは解り難いかもしれませんが、この校舎はクラスター型(葡萄の房)

      教室配置の斬新、且つ繊細な建築計画が施され、構造力学や環境工学の上

      からも高い評価がなされ・・・ 早い話が、計算された窓と各室配置が風通しよく

      しかも児童達にとって明るくて、学校機能として非常に使い易く出来ています。

 

      実際問題、八月のこの猛暑日に一歩校舎に足を踏み入れたダケでとても涼しく、

      すぐ横の川面を滑る爽風が常に私の頬を撫でて通り過ぎて行くのです。

 

 

 

 

 

       全教室が南の小川に面し、図書館からは川面の上に跳ね出したデッキ(写真)が

       図書館を訪れた生徒にとって快適な空間を作り出しました。

       記憶を辿ってみて下さい、小学校時代に図書館に行くのが楽しかった思い出なんて

       ございますか? きっとこの卒業生達の一生の思い出図書館だった事でしょう。

 

 

 

 

 

        上2枚の写真は、既存の教室(上)と、新しく増築された教室(下)です。

        通常建具(窓)は、柱と柱と間に取り付けます。昔から間戸(まど)とも呼びました。

        しかし、この教室の窓は、柱の向こう側にあります。そこには天井から床まで連装

        した窓をこしらえ、壁を作らず全面採光窓にしました。その窓の手前には腰掛け

        ベンチまであります。 前出の廊下の写真にも永い廊下に沿って柱とベンチが並

        んでいます。 柱が壁から控えてあるのは、廊下の角の見通しを良くする子供達の

        ことを考えた心憎い工夫ですね。 (参照

 

 

 

 

 

 

         上の写真は、玄関に並ぶ下駄箱のディテールです。靴を入れるBOXが背面にも

         同じ様に並んでいます。こちら側の子供と向こう側にいる子供が毎朝、下駄箱を

         通して顔を合わせます。

 

 

 

         この様な設計における工夫が随所に発見する事が出来ました。

         しかも大袈裟でなく、さり気無く施されている姿勢には設計した松村氏の真心に

         そこを訪れた者は皆心を打たれた事でしょう。

 

         2000年には、日土小学校がDOCOMOMO20選のひとつに選ばれました。

         業界に居ながらそんな事実も知らないでいた筆者にとっては、その歴史的快挙

         よりも、むしろ八幡浜という今では過疎の代名詞のような地域にあって、生徒達

         の成長 と学校教育の在り方を真剣に考えていた建築家:松村正恒氏の魂が

         宿る小学校舎の存在を心から嬉しく思います。

 

 

 

 

 

         生後50年余りにして、決して人の道を踏み外さず(かといって大した功績もなく)

         やってきた筆者にとって、自分の原風景は何か? と、自問したら私は間違いなく

         子供時代に通った小学校を思い出します。親元から初めて自立する多感な少年

         時代、子供達の脳幹に響いたのは高度な受験対策の授業ではなく、仲間と駆け

         回った校舎であり校庭であるはずです。

         日土小学校とは、そんな幼い感傷を思い出させてくれる素敵な小学校でした。

 

 

 

 

 

        さて、一歩校舎の外に出たら山の谷間とはいえ汗が背中から這い出してきます。

        こんな夏の日のもう一つの楽しみは、平家の落人伝説に思いを馳せながら渓流

        の風を受けて素麺を啜るのも、素敵な建築を見た後での風流と云うものです。

 

 


鬼北町役場

2011-11-17 | 四国の建物風景

 

 
         
      宇和島の東方、山間部、町村合併によって鬼北町と名称が変わったこの土地の庁舎は、

      チェコ生まれで日本のモダニズム建築を率いたアメリカ人建築家 アントニン・レーモンド が設計した。

 

   

 

      

      外壁は、打放しコンクリートが柱と真壁を表現し、屋根は同じくコンクリートで庇が深く、且つ薄く造られている。

      <屋根の限りなき薄さへの挑戦と先っちょが反り返ってたりするのはチョット感動的です>

      南に回ると各階の窓の上部にコンクリートの大きな庇取り付けられており、日差しをコントロールしている。

      妻壁の丸いガラスブロックは、なんて心憎い演出なんでしょうか!

  

      実はこの設計は、レーモンド事務所の社長を務め、地元生まれの建築家 中川軌太郎(のりたろう)が担当した。

      地元に生まれ育ち気候風土を熟知した建築家の手によって造られたと云う事実が大切であり、と同時に

      住民と職員は誇りと愛着を感じてこの庁舎を大切にしているのだと思う。

 

      この季節、お隣の三間町には多くのコスモスが咲き乱れる田園地帯に、昭和33年(1958年)12月に完成した

      鉄筋コンクリート造による3階建て建築は、優れたモダニズム建築が世に湧き出ててきた時代だった。

 

      この鬼北町にもこんな素敵な建物が当時、日の目を見たのは驚きに値しますネ—

 

                                  to be continued ・・・ 次回は日土小学校へ