丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

72.久しぶりのコンサート

2008-06-07 12:38:22 | 芸能・映画・音楽


 パーシー・フェイス・オーケストラが来日中である。 週末の夕方はコンサートに出かけた。会場は西武線「航空公園駅」近くにある市民文化センター ミューズアークホール。 曲目も我々世代にはおなじみの曲が多く、この日の観客の平均年齢は60代前後か?

 コンサートのオープニングは代表曲「夏の日の恋」The Theme From "A Summer Place" で始まった。「夏の日の恋」は 1960年9週連続全米ヒットチャート1位を記録した文句なしのパーシー・フェイス代表曲でグラミー賞を受賞している。


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 その後も耳なれた映画音楽やムードミュージックの調べが続く。 指揮はテリー・ウッドソン。
ビヤダルのような巨体に細くて長い足が西洋のアニメ・キャラクターを思わせる。 軽妙な曲の紹介後 軽やかな演奏が観客を魅了しあっという間に時間が過ぎていく。
 
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 前半の演奏曲は「夏の日の恋」「マイフェアレディ」から“踊り明かそう”などを5曲メドレーで、「サンライズ・サンセット」「屋根のステラ」「テンプテーション」「追憶」「いそしぎ」「イパネマの娘」「ボギーとベス」より5曲メドレーで。

 いずれも懐かしいムードミュージック、哀愁に満ちたメロディがロックと融合し聞き手のノスタルジーをそそる。若き日の思い出が走馬灯のように駆け巡り ほろ苦さと心地よさが時間の経過を忘れさせる。

 観客の誰もが聞き入り うっとりとそれぞれの思いに浸っているうちに曲が替わって行く。半数以上が思い出に満ちた映画音楽であることも親しみを持たせる。

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 15分の休憩後の後半演奏曲は「夏の日の恋」「ゴッドファーザー愛のテーマ」「タラのテーマ」「燃えよドラゴン」「ばら色の人生」「エル・ランチョ・グランデ」「ラ・ゴロンドリーナ」「マリア/トゥナイト」「ムーン・リバー」

『メキシカン・ハット・ダンス』
はトランペット奏者のコミカルな動きで笑わせてくれる。

「アンコール」は『夏の日の恋』ディスコバージョン、「ドラム・ソロ」、「ムーラン・ルージュ」、最後にしっとりした静かな曲で終わる。心得たもので「アンコール」の4-5曲はもともと予定されていたのであろう凝ったものが多かった。

 ヴァイオリン奏者には何名かアジア系の女性がメンバーに加わっていた。特筆すべきは木管陣、4人の奏者全員が、フルート、ピッコロ、サックス、クラリネットおまけにオーボエまで持ち替えで演奏。もちろん余技という感じは無い。

 
フルート、ピッコロ、サックスの持ち替えまではよく見られるが、クラリネットや難しいオーボエまでこなしてしまうというのは珍しいとのこと。


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以下 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
パーシー・フェイス・オーケストラは、その名が示すようにパーシー・フェイス(1908年カナダ生まれ)が指揮し、世界のトップ・オーケストラとうたわれた。正確な楽団結成年は判っていないが、1950年かその前年あたりにスタート、ほぼ四半世紀にわたって、“パーシー・フェイスの時代”を継続してきたことは確かである。それは残された膨大なレコード、CDによって今日でも確かめることができる。

 しかし、リーダーのパーシー・フェイスは1976年2月67歳で鬼籍に入り、これでパーシー・フェイス時代は終わったのか、とファンをやきもきさせたのも束の間、「新」パーシー・フェイス・オーケストラの活動が始まった。パーシーの良き仲間であり友人であったニック・ペリートが、全面的に面倒を見て、耳馴染みになっているパーシー・フェイス・サウンドを出来るだけ壊さずに良い音で再現する、という姿勢を貫き通したため、多くのファンから拍手をもって迎えられた。


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 パーシー・フェイスPercy Faith, 1908年4月7日 - 1976年2月9日)はアメリカ合衆国の作曲家、編曲家、指揮者、音楽プロデューサー。カナダトロント生まれ。 子供の頃から音楽に親しみ、ヴァイオリン、ピアノを習い、将来はクラシック・ピアニストを目指していたが、18歳の時に手に火傷をしたために断念。

 このことを機に、作曲、編曲、指揮の方向に転向し、トロントのホテルのオーケストラ等の指揮を行い、1933年、カナダ放送協会 (CBC) と編曲、指揮者としての専属契約を結び、担当番組「ミュージック・バイ・フェイス」が人気を呼んで、7年間も続いた。

 1940年にアメリカから声が掛かり、「カーネーション・コンテンティッド・アワー」の指揮者の急死による代役を3週間務めた所大好評となり、契約延長でそのまま番組共々アメリカに留まることになった。その約2年後にはアメリカの市民権を得る。

 録音活動は1944年から開始し、その後アメリカ・デッカのA&Rとして活動するが、1950年に当時アメリカ・コロムビアレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)のミッチ・ミラーによってそこへ移籍し、同社の東部のミュージカル・ディレクターとして活動を始める。

 その中では、自身のムード・ミュージック・オーケストラとしての活動も行い、1975年までにその録音活動は続き、その間、「デリカード」「ムーラン・ルージュの歌」「夏の日の恋」の全米ヒットチャート1位を3曲も送り出した。


 特に「夏の日の恋」は、当時水と油の関係と言われたマントヴァーニの様なムード・ミュージックのサウンドと当時流行っていたロックンロールのサウンドを上手く見事に融合させたのが功を奏し、1960年に9週連続全米ヒットチャートの1位を記録、同年のグラミー賞を受賞した。又、ミュージカル・ディレクターとして、トニー・ベネット、ドリス・デイ、ローズマリー・クルーニー、ジョニー・マティス等の編曲、バック・オーケストラの指揮の仕事も行った。 

1976年2月9日、カリフォルニア州エンシーノにて癌で死去

 代表曲は「夏の日の恋」
「ムーラン・ルージュの歌」「デリカード」「シンシアのワルツ」「タラのテーマ」「若い恋人たちのテーマ」「美しき花束」 「ツァラトゥストラはかく語りき」「恋をして」など多数

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 梅雨の中休みでもあった 週末の夕方を 時空を超えて心の安らぐひと時を味わった。グレンミラーやヘンリーマンシーニのコンサートとは一味違う 感動したというよりも、精神衛生上心地よい時間を過ごしたというのが 素直な気持ちである。  


ほかにもブログを公開しています。
◆ブログ「丼季報亭の四方山話」(2002年9月投稿開始)は こちらです。
◆4Travel「Donkyさんの旅のブログ」(2013年6月投稿開始)は こちらです。


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