143. オランダだけが何故交易が許されたのか?
★ ぶらり長崎 史跡 出島探訪
長崎訪問は2度目です。 長崎は異国情緒漂う歴史的な町であり、史跡・景勝地はたくさんあります。 しかしこの日は市電を乗り継ぎ一路出島を目指しました。 出島は 市電・大浦天守堂下から電車ですぐの所にありました。
★ ぶらり長崎 史跡 出島探訪
長崎訪問は2度目です。 長崎は異国情緒漂う歴史的な町であり、史跡・景勝地はたくさんあります。 しかしこの日は市電を乗り継ぎ一路出島を目指しました。 出島は 市電・大浦天守堂下から電車ですぐの所にありました。
入り口には「史跡 出島和蘭商会跡」の石碑が立っていて 門前から中の様子が伺えます。 ところで江戸時代「鎖国令」の出された後もオランダだけが何故 わが国との貿易を続けられたのか ご存知でしたか?
入場料の500円を支払い 史跡の敷地に入っていくと、施設の多くが当時のままに復元され歴史に興味のある観光客を受け入れています。中央部にあるシアターでは15分の映像で出島の歴史を分かりやすく紹介していました。要点は次の通りです。
慶長19年(1614)江戸幕府は、キリスト教の布教を阻止するために当時長崎の市内に雑居していたポルトガル人を収容する島をつくりました。これが出島です。出島は、寛永13年(1636)に「出島町人」と呼ばれる25人の町人の共同出資によって完成した人工の島で、この25人の町人たちはいずれも長崎を代表する豪商でした。
出島は、海を埋め立てて築いた島ということから「築島(つきしま)」、その形状が扇型をしていたことから「扇島」とも呼ばれていましたが、海の中に島をつくるという発想、工事の設計・監督にあたった人物、その土木技術の詳細については、現在でも謎に包まれています。
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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出島(でじま)は、1634年江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島。扇型になっており面積は3924坪(約1.3ha)。1641年から1859年まで対オランダ貿易が行われた。「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されている。
出島沿革:出島は1634年から2年の歳月をかけてポルトガル人を管理する目的で幕府が長崎の有力者に命じて作らせた。
築造費用はひとまず長崎の十数人の有力者が出資したが、ポルトガル人は土地使用料を有力者に毎年80貫を支払う形式となっていた。 オランダ人が借地するようになってのち、55貫(現在の日本円で約1億円)に引き下げられた。
平和の訪れと共に検疫が重視されたと思われる。 その扇の形は貿易の発展を願う末広、その坪数3,924坪は三千世界二十四節季九星人の世の吉凶を占う。と縁起を担いだ。
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天秤秤も復元展示されています。
キリシタンの信者数が76万人にも増加したこと、そして寛永14年(1637)の島原の乱によって、 ポルトガルに対してますます警戒を強めた幕府は、ポルトガル人を追放。 一方オランダは、この島原の乱で原城を砲撃、幕府への忠誠を示すことで信頼を獲得し、やがて日本との貿易を独占していったのです。
寛永16年(1639)、ポルトガル人は出島から追放され、築造されたばかりの出島は無人の地となりましたが、寛永18年(1641)には平戸からオランダ商館が移転されました。
出島は、その後、安政の開国までの約218年間、西欧に開かれた唯一の窓として、わが国の近代化に重要な役割を果たしました。
カピタンの館で熱心に説明をしていただいたボランティアの女性に感謝です。彼女は出島での和蘭商会駐在員たちの食生活をおよそ20分間 丁寧に詳しく語っていました。
★ 中華街
思っていたより コンパクトにまとまっていました。
★ 長崎南山手地区散策
長崎南山手地区 坂道を大浦天主堂に向かって歩きます。 ユニークなお土産屋さんがいっぱい並んでいます。
グラバー園から 市街地を臨むと
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今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。
他にもブログを投稿しています。
「ぶらり長崎」…… ●旅のブログ-4Travel「Donkyさんの旅の記録」 でもご紹介しています。
オランダは島原の乱で原城を砲撃して幕府への忠誠を示すことで貿易を独占していった事など、とても歴史の勉強になり、ありがとうございます。
実は 私は中学・高校の社会科の 教員免許を持っています。
にもかかわらず 鎖国令のもと 出島和蘭商会の存続理由を詳しく知りませんでした。
今回出島に行かなければ永遠に疑問を持たなかったのではないかと思うと 恥じ入るばかりです。
「丼」